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藤谷くんは一時間だけ歩く



 高岡祥が恋愛マスターになった翌週。


 俺のスマホのカレンダーには、予定が一つ入っていた。


 『散歩』


 以上。


 場所、駅前公園。

 時間、十八時から十九時。

 相手、朝倉美波さん。


 だが、予定名は『散歩』。


 俺は何度もその文字を見た。


 散歩。


 犬か。


 いや、犬のほうがよほど落ち着いている。

 俺はいま、駅前公園に向かうだけで心拍数が上がっている。


「藤谷」


 隣の席から高岡が声をかけてきた。


「何」


「今日だろ」


「何が」


「散歩」


「見るな!」


「見てない。顔に書いてある」


「顔に予定を書くな、俺」


 高岡はいつもの顔でマグカップを持ち上げた。


「一時間だろ」


「そうだよ」


「駅も近い」


「そうだよ」


「じゃあ、大丈夫だろ」


「その“大丈夫”が大丈夫だったためしがない」


「美波さんは逃げ道を塞がないだろ」


 俺は少し黙った。


 そうなのだ。


 朝倉美波さんは、朝倉家である。

 朝倉家の血はカーブを知らない。


 だが、前回の相談会で、彼女は確かに言った。


 嫌なら嫌と言ってほしい。

 困るけれど嫌ではないなら、その困り方を教えてほしい。


 あれは、ずるい。


 逃げる理由を減らすのではなく、逃げてもいい理由を先に渡してくる。


 だから困る。


 本当に困る。


「高岡」


「何」


「お前、今日も何か助言ある?」


「逃げ道を確認する」


「うん」


「確認したら、一回戻る」


「……」


「美波さんを見るところに」


「前回と同じじゃないか」


「大事なことは再利用していい」


「再放送回避しろ」


「今回は適用編だ」


「仕事みたいに言うな!」


 高岡はほんの少し笑った。


「あと」


「まだあるのか」


「楽しかったら、楽しかったって言え」


 俺は固まった。


「……急に難易度上げるな」


「上げてない。報告だろ」


「業務報告みたいに恋愛を進めるな」


「でも、言わないと伝わらない」


 正論。


 また正論。


 恋愛マスター高岡祥、静かに刺してくる。


「師匠」


「呼ぶな」


「刺さりました」


「それはよかった」


「よくない」


 俺はスマホを伏せた。


 予定名は、まだ『散歩』のままだった。


 ◇


 十八時少し前。


 駅前公園の入口に着くと、美波さんはもうそこにいた。


 淡いグレーのワンピースに、白いカーディガン。

 足元は、歩きやすそうな靴だった。


 ちゃんと散歩仕様。


 上品なのに、現実的。


 困る。


 こういうところが、本当に困る。


「藤谷さん」


 美波さんが微笑んだ。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


「今日は来てくださってありがとうございます」


「いえ……一時間なので」


「はい。一時間です」


 美波さんは、腕時計を見た。


「十九時になったら、駅へ戻ります」


「きっちりしてる」


「高岡さんに、時間は守るようにと言われました」


「師匠、仕事が早い」


「それから、逃げ道は一つでいいとも」


「師匠!」


 俺は思わず空を見た。


 高岡。

 お前、どこまで助言してるんだ。


 美波さんは少しだけ首を傾げた。


「藤谷さん」


「はい」


「今日は、ノートを持ってきていません」


「え?」


「前回、少し仕事みたいになってしまったので」


「ああ……」


「でも、大切なことは覚えています」


「それはそれで圧があります」


「圧」


「いえ、悪い意味じゃなくて」


「では、いい圧?」


「圧にいいも悪いもあるんですか」


 美波さんは少し考えた。


「坂本さんの圧は、正しい圧」


「やめてください。比較対象が強すぎる」


「兄の圧は、情報量が多い圧」


「それは分かります」


「私の圧は?」


 急に聞く。


 急にストレート。


 朝倉家の血は、やっぱりカーブを知らない。


「……まっすぐな圧、ですかね」


「それは、嫌?」


 俺は一瞬、駅を見た。


 逃げ道。


 ある。

 駅は近い。

 改札も見える。

 コンビニもある。

 帰ろうと思えば帰れる。


 確認した。


 だから、戻る。


 俺は美波さんを見た。


「嫌では、ないです」


 美波さんの表情が、ほんの少しだけ明るくなった。


「はい」


「ただ、心の準備が追いつかないだけで」


「では、ゆっくり歩きましょう」


「はい」


 俺たちは、公園の中へ入った。


 ◇


 夕方の公園は、思ったより静かだった。


 駅前なのに、少し奥へ入ると電車の音が遠くなる。

 木の葉が揺れて、街灯が少しずつ明るくなっていく。


 美波さんは、俺の半歩先でもなく、半歩後ろでもなく、横を歩いた。


 近すぎない。

 でも、遠すぎない。


 歩幅を合わせられている。


 朝倉家なのに。


 いや、朝倉家だからこそ、距離を詰めるのがうまいのかもしれない。


 ただし、兄のほうは距離感が物理的に雑だ。


「藤谷さん」


「はい」


「今日は、手はつなぎません」


「ぶっ」


 俺は咳き込んだ。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ですけど、宣言が急すぎます」


「先に言ったほうが安心かと思って」


「安心より先に心臓が跳ねました」


「では、言い方を考えます」


「今後も言う予定なんですか」


「いつかは」


 いつかは。


 俺は足元の砂利を見た。


 逃げ道を確認する。


 いや、違う。


 これは砂利だ。


 逃げ道ではない。


「……今は、歩くだけでお願いします」


「はい」


 美波さんは、素直に頷いた。


 その素直さに、また少し困る。


 ぐいぐい来るのに、押し切らない。

 まっすぐ来るのに、ぶつかる直前で止まる。


 朝倉さんと同じ血なのに、雑さの出方が違う。


 兄は、ドアを開けずに壁ごと入ってくる。

 妹は、ドアの前で正面からノックしてくる。


 どちらにせよ逃げ場は少ない。


「藤谷さん」


「はい」


「いま、兄のことを考えていましたか」


「なんで分かるんですか」


「少し遠い目をしていたので」


「朝倉家センサーが怖い」


「兄はよく、場を勝手に動かします」


「はい」


「私も、たぶん似ています」


「はい」


「でも、藤谷さんのことは、勝手に動かしたくないです」


 俺は黙った。


 街灯が一つ、点いた。


 その光が、美波さんの横顔にふっとかかった。


「……動かされてる感じは、ありますけど」


「ありますか」


「あります」


「では、改善します」


「でも」


 俺は言ってから、自分で驚いた。


 でも?


 俺はいま、何を続けようとした。


 美波さんが、こちらを見る。


 急かさない。

 聞き逃さない。


 その顔だった。


「……嫌ではないです」


 二回目。


 今日だけで二回目。


 俺、成長しているのでは。


 いや、成長というより、追い詰められて言語化しているだけかもしれない。


 でも、美波さんは嬉しそうに笑った。


「はい」


 その「はい」が、少し柔らかかった。


 ◇


 公園の真ん中には、小さな池があった。


 水族館ほどではないが、水がある。


 俺は思わず池を見た。


「藤谷さん」


「はい」


「魚を探していますか」


「いません」


「前回の名残かしら」


「違います」


「でも、池があってよかったです」


「なぜ」


「藤谷さんが困ったら、見られるので」


「逃げ道を増やさない方針はどこへ」


「これは逃げ道ではありません」


「では何ですか」


「小休止です」


 言い方。


 逃げ道が、小休止に進化した。


 恋愛設計において。


 俺は池の前のベンチを見た。


「座りますか」


 言ってから、また自分で驚いた。


 俺が。

 誘った。


 座ることを。


 つまり、歩行を止めることを。


 逃走経路上で停止することを。


 何をしているんだ、俺は。


 美波さんも少しだけ目を丸くした。


 そして、すぐに笑った。


「はい」


 俺たちはベンチに座った。


 間には、人ひとり分くらいの距離があった。

 ちょうどいい。


 近すぎない。

 遠すぎない。


 これなら、呼吸ができる。


「藤谷さん」


「はい」


「今日、少し慣れてくださいましたか」


「何にですか」


「私に」


 また急。


 だが、今日はもう少しだけ分かってきた。


 この人は、試すために聞いているのではない。

 確認したいのだ。


 俺が無理をしていないか。

 自分が進みすぎていないか。


 その確認の仕方が、まっすぐすぎるだけで。


「……少し」


「少し」


「はい。少し」


「一歩未満くらい?」


「高岡単位を使わないでください」


 美波さんが笑った。


 俺も、少し笑った。


 笑えた。


 たぶん、それが今日いちばん危険だった。


 処理落ちではなく、普通に笑ってしまったからだ。


「藤谷さん」


「はい」


「今、楽しいです」


 まっすぐ。


 真正面。


 カーブなし。


 俺は池を見た。


 逃げ道ではない。

 小休止。


 水面が少し揺れている。


 高岡の声が頭の中で再生された。


 楽しかったら、楽しかったって言え。


 師匠。


 難しいです。


 でも。


「……俺も」


 声が小さくなった。


 美波さんが、こちらを見る。


「俺も、楽しいです」


 言った。


 言ってしまった。


 池の水が揺れた。


 いや、揺れたのは俺の心臓かもしれない。


 美波さんは、すぐには何も言わなかった。


 ただ、ものすごく嬉しそうに笑った。


 その顔を見た瞬間、俺は思った。


 あ、これは。


 逃げ道を確認している場合じゃない。


 見るべきものが、ちゃんと目の前にある。


「……藤谷さん」


「はい」


「今の、心に記録してもいいですか」


「また記録するんですか」


「今日はノートがないので」


「心への記録もだいぶ圧です」


「では、小さく記録します」


「サイズ指定できるんですか」


「できます」


「朝倉家、便利ですね」


「兄にはできないと思います」


「でしょうね」


 二人で笑った。


 ◇


 十九時五分前。


 俺たちは駅へ戻る道を歩いていた。


 時間は守る。

 駅は近い。

 逃げ道はある。


 でも、俺はもう改札ばかり見ていなかった。


 美波さんの横顔を見て、歩幅を見て、少し先の段差を見た。


「足元、少し段差あります」


 自然に言った。


 美波さんが俺を見た。


「ありがとうございます」


「いえ」


「藤谷さん」


「はい」


「今の、少しデートみたいでした」


「言わなくていい!」


「でも、嬉しかったので」


「言わなくていいけど、言うんですね」


「はい」


 強い。


 やっぱり強い。


 けれど、前ほど怖くない。


 駅前に着いた。


 約束の一時間が終わる。


 美波さんは、改札の前で立ち止まった。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「一時間、いただけて嬉しかったです」


「言い方が重い」


「大切な一時間なので」


 直球。


 けれど、今日は逃げなかった。


「……俺も」


 美波さんが、静かに待つ。


「一時間で、よかったです」


「短くて?」


「いえ」


 俺は少し息を吸った。


「ちゃんと、また歩けそうなので」


 言った。


 言ってから、俺は自分の耳を疑った。


 また。


 またって言った。


 俺が。


 美波さんの表情が、ぱっと明るくなった。


 朝倉美波さんは、上品に笑う。


 でも、嬉しい時は、思ったより分かりやすい。


「はい」


「ただし、次も短めで」


「はい」


「駅近で」


「はい」


「あと、事前に“手をつなぎません宣言”はしなくていいです」


「では、次は言わないようにします」


「そうしてください」


「でも、いつかはつなぎたいです」


「今それを言う!」


「言わないほうがよかったですか」


「……いや」


 俺は改札を見た。


 逃げ道。


 ある。


 確認した。


 だから、戻る。


 美波さんを見るところに。


「今じゃなければ」


 美波さんが、息を止めたみたいに固まった。


 俺も固まった。


 何を言っているんだ、俺は。


 今日の俺は、なぜこんなに危険な発言をする。


 師匠のせいか。

 高岡のせいか。

 いや、たぶん違う。


 美波さんが、嬉しそうに、でも少しだけ照れたように笑った。


「はい」


 その「はい」は、今日いちばん柔らかかった。


 ◇


 帰りの電車で、高岡からメッセージが来た。


『どうだった』


 俺はスマホを見た。


 どうだった。


 どうだった、か。


 俺は少し迷ってから、返信した。


『一時間歩いた』


 すぐ既読がついた。


『それで?』


 師匠、追撃が早い。


 俺は窓の外を見た。


 駅の灯りが流れていく。


 逃げ道は、今日もちゃんとあった。


 でも、俺はたぶん、逃げるためだけには使わなかった。


 だから、もう一度スマホを打った。


『楽しかった』


 送信。


 数秒後、高岡から返ってきた。


『悪くない』


 俺は電車の中で小さく声を出した。


「坂本さんみたいに言うな」


 そのあと、カレンダーを開いた。


 今日の予定名は、まだ『散歩』のままだった。


 でも、次の予定を入れるなら。


 たぶん、もう少しだけ違う名前にしてもいい。


 俺は新規予定を開いて、少し迷ってから入力した。


 『美波さんと散歩』


 保存。


 負けた気がした。


 でも。


 悪くない、と思ってしまった。

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