あさくらみなみはWデートしたい
合コンというものは、一度経験すれば終わるものだと思っていた。
少なくとも俺は、そう思っていた。
違った。
朝倉美波さんにとって、合コンは終点ではなかった。
ただの導入だった。
その通知は、平日の昼休みに来た。
『藤谷さんへ。
先日の合コンは、とても有意義でした。
琴音が高岡さんともう一度お話ししたいそうです。
ですので、今度はWデートをしましょう。
藤谷さんの逃げ道については、現在再設計中です。
朝倉美波』
俺は、スマホを持ったまま固まった。
再設計。
逃げ道を。
恋愛において。
俺は深呼吸した。
そして、高岡の席まで行った。
「高岡」
「何」
「お前、琴音さんに気に入られてるらしいぞ」
「らしいな」
「知ってたのかよ」
「連絡先交換したから」
「いつ!?」
「合コンの帰り」
「俺、聞いてない!」
「聞かれなかったから」
出た。
聞かれなかったから。
高岡祥、静かに世界を進める男。
俺が朝倉美波さんの恋愛導線設計イベントで必死に酸素を探している間に、こいつは琴音さんと普通に連絡先を交換していた。
普通に。
静かに。
自然に。
裏切りである。
「高岡、お前……」
「何」
「いつの間に向こう側へ行った」
「向こう側?」
「恋愛イベントを観察する側じゃなくて、参加する側だよ!」
「藤谷も参加してただろ」
「俺は被験者だった!」
「自覚あるんだ」
「そこ拾うな!」
高岡は、いつもの顔でお茶を飲んだ。
落ち着いている。
腹が立つくらい落ち着いている。
「で、Wデートだって」
「うん」
「うん、じゃない。お前、行くの?」
「琴音さんが行くなら」
「行くんだ!?」
「話してて楽しかったし」
俺は机に手をついた。
待て。
高岡が。
あの高岡が。
淡々と、恋愛っぽいことを言っている。
処理が追いつかない。
「……高岡」
「何」
「お前、普通にモテるタイプだったのか」
「失礼だな」
「いや、だってお前、ずっと俺の横で処理落ちを観察してる係だっただろ」
「それは藤谷が処理落ちするから」
「俺のせいにするな」
高岡は少しだけ笑った。
「まあ、行けばいいんじゃない」
「軽い」
「今回は俺もいる」
「前回もいた」
「今回は逃げ道担当じゃなくて、同行者」
「役職変更が怖いんだよ」
その時、俺のスマホがまた鳴った。
『追伸。
場所は水族館にしました。
海ではありませんが、水があります。
藤谷さんが逃げたい時は、魚を見ることができます。
朝倉美波』
俺は画面を高岡に見せた。
高岡は一読して言った。
「配慮はある」
「方向が朝倉家なんだよ」
「でも、悪くない」
「坂本さんみたいに言うな!」
◇
当日。
水族館の入口前は、休日らしく人が多かった。
親子連れ。
カップル。
友達同士。
その中に、俺と高岡が立っている。
俺は落ち着かない。
高岡は落ち着いている。
この差は何だ。
同じ会社の同期なのに。
同じ坂本さんの下で働いているのに。
どうして片方だけ恋愛イベントに適応しているんだ。
「藤谷」
「何」
「顔が、水族館を敵地だと思ってる」
「味方か?」
「水族館は中立だろ」
「中立なら助けてほしい」
「魚に頼るな」
そこへ、美波さんと琴音さんがやって来た。
美波さんは淡いブルーのワンピースだった。
水族館に合わせたのだろうか。
上品で、涼しげで、きれいだった。
困る。
そういうのは困る。
朝倉家なのに。
いや、朝倉家だから困るのかもしれない。
琴音さんは白いブラウスに、落ち着いた色のスカート。
合コンの時と同じく、柔らかく穏やかな雰囲気なのに、目がよく動く。
たぶん、見ている。
人を。
場を。
俺の処理落ち具合を。
「お待たせしました」
美波さんが微笑む。
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
俺はなんとか返した。
美波さんが一歩近づいた。
「藤谷さん」
「はい」
「今日は、Wデートです」
「まだ受け入れてません」
「でも、来てくださいました」
「来ないと何が起きるか分からなかったので」
「それは信用されているということ?」
「警戒されているということです」
美波さんは少し考えた。
「でも、来てくださったわ」
「そこはまあ……はい」
「では、今日は半分成功ね」
半分。
朝倉家にしては控えめな数字だった。
いや、控えめか?
始まる前に半分成功しているのは、だいぶ強いのでは?
琴音さんが高岡に向き直る。
「高岡さん、今日はお時間をいただいてありがとうございます」
「こちらこそ」
「またお話しできて嬉しいです」
「俺もです」
自然。
あまりにも自然。
俺は思わず高岡を見た。
高岡は普通の顔をしている。
琴音さんも普通の顔をしている。
え。
何これ。
大人の会話?
同じ空間にいるのに、俺と美波さんだけジャンルが違わないか?
「藤谷さん」
「はい」
「高岡さんと琴音、自然ね」
「俺も今それ思ってました」
「私たちも自然にしましょう」
「その宣言がすでに自然じゃないです」
「では、宣言しないように努力します」
「努力しないといけないんですね」
美波さんはにこりと笑った。
「藤谷さんが困ったら、今日は魚を見てください」
「逃げ道が生物展示」
「高岡さんの隣は琴音のものなので」
「逃げ道担当、取られた……」
高岡が横から言った。
「卒業だな」
「勝手に卒業させるな」
◇
水族館の中は、青かった。
大きな水槽の前に立つと、光がゆらゆらと揺れて、壁も床も人の顔も、少しだけ水の中みたいになる。
美波さんが水槽を見上げた。
さっきまでの「Wデートです」という圧は、少し薄れている。
横顔が静かだった。
綺麗なものを、ちゃんと綺麗だと思っている顔。
俺は少しだけ驚いた。
いや、失礼な話だ。
美波さんが綺麗なものを見て静かになるのは、別におかしくない。
ただ俺は、この人の印象を「上品な顔で場を勝手に動かす朝倉家」として固定しすぎていたのかもしれない。
「藤谷さん」
「はい」
「水族館は、思ったより静かね」
「人は多いですけどね」
「でも、魚は急かさないでしょう?」
「まあ……そうですね」
「だから、逃げ道にいいと思ったの」
俺は少し黙った。
逃げ道。
またそれか、と思った。
けれど、今回は少し違った。
美波さんは本当に考えていた。
俺が困ったら、視線を外せるもの。
沈黙しても不自然じゃない場所。
二人きりになりすぎない空間。
朝倉家なりに。
いや、美波さんなりに。
「……ありがとうございます」
俺が言うと、美波さんがこちらを見た。
「今のは、感謝?」
「はい」
「記録してもいい?」
「何にですか」
「心に」
「やめてください、急に詩的にならないでください」
美波さんは小さく笑った。
その笑い方は、合コンの時より少し柔らかかった。
困る。
ほんとに困る。
高岡。
逃げ道。
……いや、高岡は。
少し離れたクラゲの水槽の前で、琴音さんと普通に話していた。
逃げ道、完全にデート中。
「高岡さんは、クラゲがお好きですか?」
「特別詳しいわけじゃないですけど、見てると落ち着きます」
「分かります。形があるのに、ほどけていくみたいで」
「琴音さんは、言い方が綺麗ですね」
「まあ」
琴音さんが少し照れた。
高岡が。
褒めた。
普通に。
自然に。
俺は二度見した。
高岡が琴音さんを褒めた。
仕事中に「この資料、前より見やすいな」くらいの温度で、人を褒めた。
怖い。
恋愛適性がある。
「藤谷さん」
「はい」
「高岡さん、素敵ね」
「今、俺も恐怖してました」
「恐怖?」
「高岡が普通にデートしてるので」
「藤谷さんは、高岡さんを何だと思っているの?」
「同期で、逃げ道で、処理落ち観察者です」
「役割が多いわ」
「本人が増やしたんです」
美波さんは、少し首を傾げた。
「でも、藤谷さん」
「はい」
「高岡さんが琴音と話しているのを見て、寂しい?」
「……え」
俺は固まった。
寂しい?
いや。
いやいやいや。
違う。
違う、たぶん。
高岡は同期だ。
横にいた。
いつも俺の混乱を淡々と受け止めていた。
だから、その高岡が急に恋愛イベントの向こう側へ行ったみたいで。
取り残された感じは。
少し。
いや、違う。
それを寂しいと言うのかは分からない。
「……驚いてるだけです」
「そう」
「はい」
「では、今日は私が隣にいます」
美波さんが、そう言った。
静かに。
押しつける感じではなかった。
ただ、そう置いた。
言葉を。
俺の横に。
俺は水槽を見た。
銀色の魚が、群れになって泳いでいる。
逃げ道として用意された魚たちは、俺を助けてくれなかった。
いや。
少し助けてくれた。
視線を泳がせる先があるのは、ありがたい。
「……はい」
俺は小さく言った。
美波さんは、満足そうに笑った。
「今日は、半歩成功ね」
「さっき半分成功って言ってませんでした?」
「更新しました」
「下がってません?」
「半歩のほうが、藤谷さんにはよさそうだから」
俺は返す言葉に困った。
美波さんは、朝倉家だ。
上品な顔で場を動かす。
でも、この人は時々、ちゃんと俺の歩幅を見る。
それがまた、困る。
◇
イルカショーの時間になった。
美波さんは少しだけ目を輝かせた。
「見ましょう」
「はい」
「藤谷さん、席は端がいい?」
「なぜ分かるんですか」
「逃げ道」
「もう逃げ道基準で世界を見てますよね」
「大切でしょう?」
「まあ……大切です」
「では、端にしましょう」
端の席に座る。
高岡と琴音さんは、少し前の列に並んで座った。
その距離が自然だった。
自然すぎて、腹が立つ。
イルカが跳ぶ。
水しぶきが上がる。
子どもたちが歓声を上げる。
美波さんが笑う。
その顔は、本当に楽しそうだった。
「すごい」
小さくそう言った声が、思ったより素直だった。
俺は、少しだけ肩の力が抜けた。
「美波さん、こういうの好きなんですね」
「ええ。動きが綺麗なものが好きなの」
「泳ぐのも好きですもんね」
言ってから、少しだけしまったと思った。
夏合宿。
海。
流されかけた美波さん。
俺が助けたこと。
あの場面を、また持ち出してしまったかもしれない。
でも美波さんは、静かに頷いた。
「好きよ。でも、過信はよくないと学んだわ」
「……それは、まあ」
「藤谷さんが助けてくれたから、今こうして水族館に来られているのね」
「あの、そういう重い感じにしなくても」
「重くはないわ」
美波さんはイルカの方を見たまま言った。
「感謝しているだけ」
俺は黙った。
水しぶきが、光を受けてきらきらしている。
あの日の海とは違う。
ここは安全で、明るくて、歓声がある。
再放送ではない。
続きなのだと思った。
勝手に。
俺が勝手にそう思っただけだ。
でも。
たぶん、美波さんもそういう場所を選んだのだ。
「……どういたしまして」
俺が言うと、美波さんはこっちを見た。
「今のも記録していい?」
「だから何にですか」
「心に」
「二回目ですよ」
「大切なことは、二回記録してもいいでしょう?」
俺は、何も言えなかった。
言えなかったので、イルカを見た。
逃げ道としてのイルカ。
ありがとう。
◇
ショーが終わったあと、四人でカフェに入った。
水槽の見えるカフェだった。
美波さんと俺が並び、向かいに高岡と琴音さん。
Wデート。
たぶん、形式上はそうなのだろう。
ただし片方は、どう見ても自然。
もう片方は、逃げ道つき。
「藤谷さん」
琴音さんが微笑んだ。
「美波さん、今日はずっと楽しそうです」
「そうですか」
「はい。合コンの時より、少し落ち着いていらっしゃる」
美波さんが少しだけ照れたように見えた。
「琴音」
「本当のことよ」
高岡が言う。
「藤谷も前回より落ち着いてます」
「言うな」
「事実だろ」
「高岡がそれを言うと、観察記録になるんだよ」
「観察はしてる」
「するな」
琴音さんが笑った。
「高岡さんは、藤谷さんの変化にすぐ気づくのね」
「分かりやすいので」
「俺を簡単な生き物みたいに言うな」
美波さんが楽しそうに言った。
「藤谷さんは分かりやすいところが素敵よ」
「褒められてます?」
「もちろん」
「美波さんの“もちろん”は信用していいのか分からない」
「信用してほしいわ」
ストレート。
急にストレート。
朝倉家の血は、カーブを知らない。
俺がまた固まると、高岡がコーヒーを飲みながら言った。
「藤谷」
「何」
「返事」
「圧をかけるな」
「信用してほしいって言われたら、返事は必要だろ」
「お前、いつから恋愛マスターになったんだよ」
「なってない」
「今なりかけてる!」
琴音さんが口元に手を添えて笑う。
「高岡さんは、自然に大事なところを見ていらっしゃるのね」
「自然ではないです。藤谷が逃げるので」
「逃げてない」
「魚を見てただろ」
「あれは逃げ道として公式に用意された魚だ!」
「公式」
高岡が少し笑った。
腹が立つ。
でも、その顔を見て琴音さんが柔らかく笑ったので、もっと腹が立った。
高岡、普通にいい感じじゃないか。
ずるい。
「藤谷さん」
美波さんが、俺を見た。
「私は、藤谷さんに無理をしてほしいわけではないの」
「はい」
「でも、逃げ道ばかり見ていると、私のことが見えないでしょう?」
その場が、一瞬だけ静かになった。
高岡が何も言わなかった。
琴音さんも、黙っていた。
俺は、美波さんを見た。
正面から。
水族館の青い光が、彼女の頬にうっすら映っている。
綺麗だと思った。
思ってしまった。
「……見てます」
声が、思ったより小さくなった。
「たぶん」
美波さんの目が少し丸くなる。
「たぶん?」
「急には、無理です」
「うん」
「でも、見てないわけじゃないです」
美波さんは、静かに笑った。
今日一番、静かな笑い方だった。
「それなら、今日は成功ね」
「半歩じゃなくて?」
「半歩より少し進んだわ」
「どのくらいですか」
「一歩未満」
「細かい」
「藤谷さん用だから」
俺は、水槽を見た。
魚が泳いでいる。
逃げ道は、まだそこにある。
でも、今は少しだけ。
逃げるためではなく、落ち着くために見た。
◇
帰り道。
水族館の出口を出ると、夕方の空だった。
琴音さんが高岡に言った。
「高岡さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、お話ししてもいいですか?」
「もちろん」
自然。
また自然。
俺は見た。
高岡がスマホを出した。
琴音さんも出した。
何かを確認している。
次の約束か?
次の約束なのか?
「高岡」
「何」
「今、何してる?」
「来週の予定を見てる」
「来週!?」
「琴音さんと、今度は二人で」
「二人で!?」
俺の声が裏返った。
美波さんが隣で、ぱっと顔を明るくする。
「まあ。琴音、よかったわね」
「美波さん」
琴音さんが少し照れた。
高岡は普通だった。
普通に予定を立てていた。
この男、本当に静かに進む。
「高岡、お前……」
「何」
「今日、Wデートだったよな」
「うん」
「次、単独デートに進化してるんだけど」
「そうだな」
「そうだな、じゃない!」
高岡は、俺を見て言った。
「藤谷も次、普通に誘えばいいだろ」
「できるか!」
「じゃあ、誘われれば?」
高岡の視線が、美波さんへ行く。
やめろ。
振るな。
そのパスは危険だ。
美波さんが、にこりと笑った。
「藤谷さん」
「はい」
「次は、普通のデートにしましょう」
「だから急に」
「逃げ道は、考えます」
「まだ逃げ道つきなんですね」
「でも、今日は少し見てくれたでしょう?」
俺は返事に詰まった。
高岡が隣で言う。
「返事」
「だから圧をかけるな!」
「大事なところだろ」
「お前、もう半分マスターだろ!」
「まだなってない」
「“まだ”って言った!」
琴音さんが笑う。
美波さんも笑う。
高岡は涼しい顔をしている。
俺だけが、いつも通り処理落ちしている。
でも。
たぶん、いつも通りではなかった。
俺は、美波さんを見た。
逃げ道ではなく。
美波さんを。
「……考えます」
俺が言うと、美波さんは目を細めた。
「はい」
その返事が、柔らかかった。
強引でもなく、勝ち誇るでもなく。
ただ、嬉しそうだった。
それがまた、困った。
非常に困った。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「悪くない」
「坂本さんみたいに言うな!」
夕方の水族館前に、俺の声が響いた。
たぶん、普通のWデートではなかった。
逃げ道つきで。
魚つきで。
高岡の単独デート移行つきで。
俺の処理落ちつき。
けれど、朝倉美波さんはWデートがしたかった。
そして俺は、その日。
逃げ道は、逃げるためだけにあるわけではないと、少しだけ知った。




