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坂本さんが恋に落ちた日

 週末のビアガーデンは、思ったより混んでいた。


 駅前の商業ビルの屋上。


 エレベーターを降りた瞬間、肉の焼ける匂いと、冷えたビールの匂いと、まだ夏を諦めきれていない夜風がまとめて押し寄せてきた。


 新しくオープンしたばかりらしく、入口には祝い花が並び、テーブルの間では会社帰りらしい人たちが楽しそうに笑っている。


 普通なら、いい週末だった。


 普通なら。


「藤谷、顔が暗い」


 隣で高岡が言った。


「暗くもなるだろ」


「ビアガーデンだぞ」


「ビアガーデンで坂本さんの恋バナを聞くんだぞ」


「恋バナ」


「言うな」


 俺は椅子に座りながら、深く息を吐いた。


 テーブルには、すでに生ビールが三つ置かれている。


 俺。


 高岡。


 そして、朝倉さん。


 この三人で週末の夜にビアガーデン。


 文字だけ見れば、そこそこ楽しそうだ。


 だが、議題が悪い。


 坂本さんが、白石美沙さんに恋に落ちた日。


 いや、聞きたい。


 ものすごく聞きたい。


 だが、聞いたら俺の中の坂本さん像がまた壊れる。


 もう何回壊れたか分からない。


 笑わない坂本さん。


 残業する坂本さん。


 スマホに「ミサちゃん」を登録している坂本さん。


 シャチと暮らす坂本さん。


 夏合宿で美沙さんにだけ声が柔らかくなる坂本さん。


 そして前回。


 メンクイ坂本さん。


 情報量が多い。


 多すぎる。


「お、来てるな」


 低い声がして、朝倉さんがやってきた。


 白いシャツに、少し緩めたネクタイ。


 仕事帰りのままなのに、なぜか屋上ビアガーデンに馴染んでいる。


 この人はどこにいても朝倉さんだ。


「朝倉さん」


「おう。逃げなかったな、藤谷」


「逃げたかったです」


「正直でよろしい」


「褒められても嬉しくないです」


 朝倉さんは笑って、俺の向かいに座った。


 高岡はすでに枝豆を食べている。


 早い。


 馴染むのが早い。


「で」


 朝倉さんはビールを一口飲んでから、言った。


「どこまで話したっけ」


「坂本さんが美沙さんの顔を見て、顔が良かったって言ったところまでです」


 俺が答えると、朝倉さんは満足そうに頷いた。


「そこは大事だな」


「大事なんですか」


「大事だろ。あの坂本が、第一声で顔だぞ」


「破壊力はあります」


「あるだろ」


 高岡が枝豆を置いて、静かに言った。


「年上の綺麗な人に一目惚れ」


「高岡」


「事実だろ」


「言い方」


「坂本さん、当時大学生ですよね。美沙さんは仁くんの十歳くらい上だから、少し年上」


「整理するな」


「整理は大事だ」


「坂本さんみたいに言うな」


 朝倉さんが低く笑った。


「まあ、そこは合ってる。坂本から見た白石さんは、少し年上の綺麗な人だった」


「それだけ聞くと、坂本さんじゃないみたいですね」


「坂本も人間だからな」


「それは知ってるんですけど」


「知ってる顔じゃないんだろ」


「はい」


 俺は即答した。


 会社で見る坂本さんは、数字と論理と責任でできている。


 いや、人間なのは知っている。


 美沙さんの前で声が柔らかくなるのも、見た。


 でも、若い頃に少し年上の綺麗な女性を見て、顔が良かったと言う坂本さん。


 その情報は、まだ俺の中でうまく置き場所が決まらない。


「で、藤谷」


「はい」


「先に言っとくけど、仁くんの話は今日は細かくしない」


「あ、それは助かります」


 俺は思わず言った。


「前に聞きました。朝倉さんが現代文担当で召喚された話」


「俺が召喚獣だった話な」


「違います」


 高岡が即答した。


「そこも前に聞きました」


「そうか」


 朝倉さんは少し残念そうだった。


 気に入っているらしい。


 召喚獣。


 やめたほうがいいと思う。


「仁くんが主人公の気持ちにキレて、坂本さんも設問にキレて、朝倉さんが“おまえの話にしなくていいから、主人公の話として書け”って逃がした話ですよね」


「そう。それ」


「もう知ってます」


「だから今日は、そこじゃない」


 朝倉さんは、ビールのジョッキを置いた。


「今日は、その横で坂本が何を見てたかの話」


 俺は少しだけ姿勢を正した。


 高岡も、枝豆に伸ばしていた手を止める。


「坂本さんが、何を見てたか」


「そう」


 朝倉さんは、少しだけ目を細めた。


「最初は、仁くんを見てた。そりゃそうだ。家庭教師だからな。白紙で逃げる中学生をどう机に戻すか。それが目的だった」


「はい」


「でも、そのうち、報告が変わった」


「報告?」


「坂本、俺にその日の進捗を話すことがあったんだよ。現代文の担当も絡んでたからな」


「進捗」


「最初は普通だった。数学はここまで進んだ。英語は単語の定着が弱い。現代文は相変わらず設問に文句が多い」


「仁くんですね」


「仁くんだな」


 朝倉さんは笑った。


「でも、途中から変な情報が混ざり始めた」


「変な情報?」


「白石さんが、今日は帰りが遅かった、とか」


 俺は黙った。


「食事を取っていないようだった、とか」


 高岡が少しだけ目を上げた。


「帰り際に、少し咳をしていた、とか」


 俺はジョッキを置いた。


「それはもう」


「恋だな」


 高岡が言った。


「早い」


「でも恋だろ」


「恋だけど」


 俺は否定できなかった。


 恋だ。


 それはもう恋だ。


 家庭教師の進捗報告に、姉の体調が混ざっている。


 坂本さん。


 あなたはその時点でかなり落ちています。


「その頃の坂本は、まだ自分では認めてなかったと思うけどな」


 朝倉さんが言った。


「分析のつもりだったんですか」


「たぶんな」


「美沙さんの体調を?」


「そう。家庭環境の把握とか、学習環境への影響とか、そういう顔で言う」


「坂本さんだ……」


「でも、俺は思った」


「何をですか」


「こいつ、仁くんの学習環境じゃなくて、白石さんを見てるな、って」


 屋上の風が吹いた。


 隣のテーブルで誰かが笑った。


 肉の焼ける音がした。


 その中で、俺は若い坂本さんを想像した。


 大学生の坂本さん。


 家庭教師として白石家に通い、仁くんの問題集を見る。


 でも、その横で、仕事帰りの美沙さんの声を聞く。


 疲れているのに、仁くんの前では声を変えない人。


 無理に笑わないけれど、少しでも弟が前に進むと、ほんの少し笑う人。


 坂本さんは、それを見ていた。


 見てしまっていた。


「でも、坂本さんって、美沙さんの前に誰かと付き合ったことあったんですか」


 気づいたら、俺は聞いていた。


 聞いてから後悔した。


 踏み込みすぎではないか。


 だが、朝倉さんは特に気にした様子もなく、ビールを飲んだ。


「あるぞ」


 俺は止まった。


「あるんですか!?」


「あるだろ、そりゃ」


「いや、坂本さんにも過去があるのは分かるんですけど」


「顔はいいですからね」


 高岡が淡々と言った。


「冷静に言うな」


「事実だろ」


「事実かもしれないけど」


 坂本さんは怖い。


 でも顔はいい。


 仕事もできる。


 落ち着いている。


 学生時代に誰かと付き合っていても、確かに不思議ではない。


 不思議ではない。


 不思議ではないが。


 俺の中の坂本さんが、また増えた。


「ただな」


 朝倉さんが言った。


「あれは、恋だったかって言われると微妙だな」


「微妙」


「交際はしてた。相手のことも嫌いじゃなかった。約束も守るし、記念日も忘れない。予約もする。贈り物も外さない」


「完璧じゃないですか」


「完璧なんだよ、表面上は」


 朝倉さんは、少しだけ苦笑した。


「でも、温度がない」


「温度」


「たぶん坂本にとっては、『交際が成立している』だったんだよ」


「成立」


 高岡が小さく頷いた。


「条件合意ですね」


「言い方!」


「でも近い」


 朝倉さんが笑った。


「嫌いではない。会話は成立する。生活に支障はない。相手が望むなら、交際という形を取る理由はある」


「坂本さん……」


「ひどいだろ」


「ひどいというか、正しいのに足りないです」


「そう。それ」


 朝倉さんは、俺を指さした。


「正しいのに、足りない」


 その言葉は、妙にしっくりきた。


 坂本さんは、きっと雑に扱ったわけではない。


 約束は守る。


 相手が望むことを考える。


 必要な手続きも忘れない。


 でも、恋人が欲しいのは、手続きではない。


 正しさだけでは、足りない。


「相手の人、つらくなりそうですね」


 俺が言うと、朝倉さんは少し肩をすくめた。


「なったんじゃねえかな。坂本は悪気なく、『交際している以上、好意はある』とか言うから」


「言いそう!」


「最悪ですね」


 高岡が言った。


「淡々と最悪って言うな」


「でも最悪だろ」


「最悪です」


 俺は認めた。


 坂本さんに「交際している以上、好意はある」と言われる。


 正しい。


 だが、そうじゃない。


 恋人として聞きたいのは、そういうことではない。


「白石さんは違ったんですか」


 高岡が聞いた。


 朝倉さんは、少しだけ笑った。


「違ったな」


「どう違ったんですか」


「坂本が、条件で考えられなくなった」


 俺は息を止めた。


「最初は、顔が良かった」


「はい」


「次に、弟の見方が悪くなかった」


「はい」


「その次に、家庭環境への配慮が合理的だ、とか言ってた」


「分析ですね」


「分析だな」


「でも」


 朝倉さんは、ジョッキを指で軽く叩いた。


「ある日から、言葉が変わった」


「どう変わったんですか」


「『白石さんは疲れている」じゃなくて、『休めていない』になった」


 俺は黙った。


「『食事を取っていないようだった』じゃなくて、『食べさせたほうがいい』になった」


 高岡も黙った。


「『咳をしていた』じゃなくて、『病院に行くべきだ』になった」


 朝倉さんは、少し笑った。


「もう進捗報告じゃないだろ」


「完全に心配ですね」


「そう。心配になってた」


 坂本さんが、心配する。


 今なら分かる。


 美沙さんが少し疲れているだけで、静かに目を細める坂本さんを知っている。


 でも、それは最初から今の形だったわけではない。


 最初はたぶん、分析だった。


 観察だった。


 環境把握だった。


 それが、いつの間にか心配になった。


「決定打は、何だったんですか」


 俺は聞いた。


 朝倉さんは、少しだけ夜空を見た。


「何個かあるけどな」


「何個も」


「落ちる時って、ひとつじゃないだろ。何度も落ちるんだよ」


「朝倉さんが急に詩人」


「低い声で言わないでください」


 高岡が静かに言った。


「何でだよ」


「破壊力があるので」


「何のだ」


「情報量の」


 朝倉さんは笑った。


「まあでも、俺が『あ、これは完全に落ちたな』って思った日はある」


「それです」


「それを聞きたいです」


「だよな」


 朝倉さんは、少しだけ真面目な顔になった。


「仁くんの現代文を見に行った日だった。そこは前に話したから、問題の中身は飛ばす」


「助かります」


「再放送回避だな」


「言い方」


 朝倉さんはにやっと笑った。


「その日、白石さんが帰ってきたのが遅かった。仕事帰りで、明らかに疲れてた。けど、仁くんのノートを見たんだよ」


「ノート」


「現代文の。仁くんが、珍しくちゃんと書いたやつ」


「それで?」


「白石さん、少し笑った」


 俺は、その場面を想像した。


 仕事帰り。


 疲れている。


 でも弟のノートを見る。


 白紙ではない。


 不機嫌な字でも、荒い字でも、そこに言葉がある。


 その時、美沙さんは少し笑った。


「仁くんは嫌がったんだよ。『笑うところじゃない』って」


「言いそう」


「そしたら白石さんが言った」


 朝倉さんの声が、少しだけ柔らかくなった。


「笑ってないよ。嬉しかっただけ」


 俺は、何も言えなかった。


 高岡も黙っていた。


「それだけですか」


「それだけ」


「でも」


「うん」


 朝倉さんは頷いた。


「坂本は、それで黙った」


 坂本さんが黙る。


 それは、何度聞いても強い。


 あの人が。


 資料レビューなら、前提条件と根拠と再発防止策を一秒で求めてくる人が。


 美沙さんの一言で、黙る。


「そのあと、帰りに坂本が言ったんだよ」


「何て?」


「白石さんは、折れていない」


 折れていない。


 その言葉は、夜風の中で静かに残った。


「疲れてるとか、無理してるとか、そういうことは前から言ってた。でもその日は違った」


 朝倉さんは、少しだけ目を細めた。


「折れそうなのに、折れてない。仁くんの前で、ちゃんと立ってる。たぶん自分のためじゃなくて、仁くんのために」


 俺は、美沙さんを思い出した。


 柔らかいのに、折れない人。


 怒鳴らない。


 押しつけない。


 でも、そこにいるだけで、場の空気を変えてしまう人。


「で、俺が言った」


「はい」


「おまえ、好きなんじゃねえの、って」


 俺は息を止めた。


 高岡も顔を上げた。


「坂本さんは?」


「否定すると思うだろ」


「思います」


「好意という言葉の定義による、とか言いそうです」


「言いそう!」


「俺もそう思った」


 朝倉さんは笑った。


「でも、その時の坂本は違った」


「どう違ったんですか」


「黙った」


 俺は固まった。


「黙った?」


「黙った」


「坂本さんが?」


「坂本が」


「質問に対して?」


「そう」


「坂本さんが?」


「二回聞くな」


 無理だ。


 二回聞く。


 坂本さんが、質問に対して黙る。


 そんなことがあるのか。


 それはもう、答えではないか。


「それはもう」


 高岡が言った。


「恋ですね」


「今日それ言うために来た?」


「でも恋だろ」


「恋ですけど!」


 恋だ。


 完全に恋だ。


 坂本さんが黙ったなら、それは恋だ。


 世界で一番分かりやすい沈黙かもしれない。


「そのあと、坂本さんは何て?」


 俺が聞くと、朝倉さんは少しだけ笑った。


「今は、仁の受験が先だ、って」


「答えじゃないですか」


 高岡が即答した。


「好きじゃないなら、『今は』とは言わない」


「高岡、今日鋭いな」


「整理してるだけです」


「坂本さんみたいに言うな」


 朝倉さんは楽しそうに笑った。


「だから俺は、こいつ落ちたな、って思った」


 顔が良かった。


 弟の見方が悪くなかった。


 分析していたはずが、いつの間にか心配になった。


 条件で成立していた恋愛とは、違った。


 美沙さんだけが、坂本さんを条件ではなく、沈黙させた。


 たぶん、そこなのだ。


「……いい話ですね」


 俺は小さく言った。


「だろ」


「顔が良かったから始まってるのに、ちゃんといい話になるの、ずるくないですか」


「坂本だからな」


「便利に使いすぎですけど、納得してしまう」


 高岡が静かに笑った。


「でも、坂本さんらしいな」


「何が」


「最初に目を引かれて、でも本当に好きになった理由は、ちゃんと見てるところ」


「……まあ」


 俺は頷いた。


 坂本さんは怖い。


 でも、見ている。


 数字も。


 資料も。


 逃げようとする仁くんも。


 折れそうなのに折れない美沙さんも。


 だから怖い。


 そして、だからたぶん、優しい。


「で?」


 低い声がした。


 俺の背筋が伸びた。


 高岡の手が止まった。


 朝倉さんだけが、ゆっくり笑った。


 振り向く。


 坂本さんが立っていた。


 なぜ。


 どうして。


 ここは会社ではない。


 週末の夜。


 駅前の屋上ビアガーデン。


 なのに、坂本さんがいる。


 白いシャツに、黒いジャケット。


 仕事帰りらしい。


 表情はいつも通り静か。


 ただし目が細い。


 とても細い。


「坂本さん!?」


「藤谷」


「はい!」


「声が大きい」


「すみません!」


 坂本さんは朝倉さんを見た。


「何を話していた」


「恋に落ちた日」


「朝倉」


「おう」


「黙れと言ったはずだ」


「会社ではな」


「場所の問題ではない」


「でも、だいたい事実だろ」


 坂本さんの目が、さらに細くなった。


 俺は思った。


 終わった。


 ビアガーデンが凍る。


 夏の終わりの屋上に、冬が来る。


「事実に、余計な装飾をつけるな」


「否定はしないんですね」


 言ったのは高岡だった。


 俺は高岡を見た。


 今日の高岡はどうした。


 強すぎる。


 ビールか。


 ビールなのか。


 坂本さんの視線が高岡に移る。


「高岡」


「はい」


「藤谷に余計な学習をさせるな」


「学習してるな」


「今それ言うな!」


 俺は思わず突っ込んだ。


 高岡は少しだけ満足そうだった。


 坂本さんは、小さく息を吐いた。


「朝倉。ミサの話を面白がってするな」


「面白がってはいるけど、雑にはしてねえよ」


 朝倉さんの声が、少しだけ低くなった。


「そこは分かってるだろ」


 坂本さんは黙った。


 黙った。


 まただ。


 坂本さんが黙った。


 俺の中で、今日二度目の「恋ですね」が鳴った。


 高岡が言いそうだったので、先に睨んでおいた。


 高岡は黙って枝豆を食べた。


「……どこまで話した」


 坂本さんが言った。


「顔が良かったところから、他の女とは条件合意だったところまで」


「朝倉」


 声が低くなった。


 明らかに低くなった。


「お前は、なぜ余計な情報を足す」


「必要情報だろ」


「不要だ」


「美沙ちゃんだけ特別って話だぞ」


「その表現が不要だ」


「じゃあ、お前が言えよ」


「言わない」


「だろ。だから俺が言ってる」


「論理が破綻している」


「お前ほどじゃない」


「俺のどこが破綻している」


「美沙ちゃんのことになると、全部だよ」


 空気が止まった。


 俺はジョッキを持ったまま固まった。


 高岡も固まった。


 朝倉さんは笑っている。


 坂本さんは、朝倉さんを見ていた。


 細い目。


 でも、仕事中のそれとは違う。


 怒っているようで、どこか諦めている。


 いや。


 少しだけ、照れているのかもしれない。


 俺はそんな可能性を考えてしまって、自分の脳を疑った。


「藤谷」


「はい!」


「今、余計なことを考えただろ」


「なぜ分かるんですか!」


「顔に出ている」


「怖い!」


「怖くない」


「怖いです!」


 坂本さんは俺を一秒見た。


 そして、静かに言った。


「……過去の交際について、朝倉の表現は正確ではない」


 俺は固まった。


 高岡も固まった。


 朝倉さんだけが、にやっとした。


「でも、あったことは否定しないんですね」


 高岡が言った。


 今日の高岡は、本当に強い。


 坂本さんは、高岡を見た。


「事実を否定しても意味がない」


「坂本さんだ……」


 俺は小さく呟いた。


 坂本さんは続けた。


「ただし、ミサと同列に扱うものではない」


 声が、ほんの少し変わった。


 会社で聞く声より、柔らかい。


 美沙さんの話をする時の声。


「最初に目を引かれたことは、否定しない」


 俺は息を止めた。


「ただ」


 坂本さんは、少しだけ視線を外した。


「好きになった理由は、それだけじゃない」


 屋上の風が吹いた。


 ビールの泡が、グラスの中で小さく揺れた。


 俺は何も言えなかった。


 処理落ちはしている。


 しているけれど。


 それだけではなかった。


 そのことが、妙にあたたかかった。


 坂本さんにも、恋に落ちた日があった。


 誰かと付き合ったことはあった。


 でも、それはたぶん、成立していた関係だった。


 美沙さんだけが、坂本さんを成立ではなく、沈黙させた。


 顔が良かったと冷静に言ってしまう始まりがあって。


 弟のことを見ている美沙さんを見て。


 疲れていることを気にするようになって。


 嬉しかっただけ、と笑う美沙さんを見て。


 折れていない、と言って。


 好きなんじゃないかと聞かれて、黙った夜があった。


「……坂本さん」


「何だ」


「いい話でした」


 俺が言うと、坂本さんは少しだけ眉を寄せた。


「朝倉の話をそのまま受け取るな」


「半分で聞けって言われました」


「ならいい」


「でも、半分でもいい話でした」


 坂本さんは黙った。


 また黙った。


 今日の坂本さんはよく黙る。


 珍しい。


 すると、その時。


 坂本さんのスマホが震えた。


 テーブルの上に置かれた画面が、ふっと明るくなる。


 俺は見てしまった。


 見てはいけないものを。


 でも見えてしまった。


 通知名。


 ミサちやん


 完璧だった。


 話の流れとして完璧すぎる。


 坂本さんはスマホを手に取った。


 そして、さっきまでの低い声とは少し違う声で言った。


「うん」


 柔らかい。


 出た。


 出てしまった。


「今、駅前にいる」


 朝倉さんがにやにやしている。


 高岡は目を伏せている。


 俺はジョッキを見つめている。


 見てはいけない。


 聞いてはいけない。


 でも聞こえる。


「朝倉が余計なことを言っていただけだ」


 言っていた。


 かなり言っていた。


「怒ってはいない」


 嘘だ。


 少し怒っていた。


「……少しだけ」


 認めた。


 そこは認めるんだ。


「うん。帰る」


 坂本さんの声が、さらに少し柔らかくなった。


「迎えに行く。そこで待ってて」


 俺は目を閉じた。


 無理だ。


 会社で三パーセントの差分を詰める人が。


 恋人には、そこで待ってて、という声になる。


 無理だ。


 処理できない。


 電話を切った坂本さんは、こちらを見た。


 いつもの顔に戻っている。


 戻っているのに、戻りきっていない。


 美沙さんの声を聞いた直後の坂本さんは、微妙に空気が柔らかい。


 俺はもう、それを知ってしまっている。


「朝倉」


「おう」


「これ以上、余計なことは言うな」


「努力する」


「努力では足りない」


「じゃあ善処する」


「悪化した」


 朝倉さんが笑った。


 坂本さんはため息をつき、俺たちに視線を向けた。


「藤谷、高岡」


「はい」


「月曜、今日聞いた話を業務中に思い出すな」


「無理です」


 俺は正直に言った。


 坂本さんの目が細くなった。


「努力します!」


「最初からそう言え」


 高岡が静かに言った。


「でも、悪くない話でした」


 坂本さんは、高岡を見た。


 少しだけ黙った。


「……ならいい」


 そう言って、坂本さんは背を向けた。


 美沙さんを迎えに行くために。


 夜の屋上を出ていく背中は、やっぱり静かだった。


 でも、会社で見る背中とは少し違って見えた。


「な?」


 朝倉さんが言った。


「恋に落ちただろ」


 俺は、残ったビールを見た。


 泡はもうだいぶ消えていた。


「落ちてましたね」


「現在進行形でな」


「やめてください」


「何で」


「俺の知ってる坂本さんが、もう何人いるのか分からなくなるので」


 高岡が枝豆を一つ食べて、淡々と言った。


「学習してるな」


「だから坂本さんみたいに言うな!」


 夜風が吹いた。


 夏休みは終わった。


 会社は通常運転に戻った。


 坂本さんは怖い。


 それは変わらない。


 でも、坂本さんにも、恋に落ちた日があった。


 過去に誰かと付き合ったことがあっても。


 それがちゃんと成立していたとしても。


 美沙さんだけは違った。


 顔が良かったから始まって。


 それだけではないと言って。


 条件ではなく、心配になって。


 好きなんじゃないかと聞かれて、黙って。


 今は仁の受験が先だと言って。


 そして今、恋人からの電話一本で、声が柔らかくなる。


 俺はジョッキを置いた。


「高岡」


「何」


「月曜、坂本さんの顔見たら思い出すと思う」


「だろうな」


「詰められてる最中に思い出したらどうしよう」


「死ぬな」


「怖いこと言うな」


 朝倉さんが低く笑った。


「大丈夫だよ、藤谷」


「何がですか」


「坂本は、恋に落ちても坂本だから」


 それは慰めなのか。


 絶望なのか。


 判断がつかない。


 ただ一つだけ分かる。


 月曜の資料レビューは、たぶん普通に怖い。


 恋に落ちた人でも。


 メンクイでも。


 過去に交際経験があっても。


 通知名「ミサちゃん」でも。


 坂本さんは、坂本さんなのだ。

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