坂本さんはメンクイだった
夏休みは終わった。
海も終わった。
バーベキューも終わった。
花火も終わった。
朝倉家の別荘も、管理人さんたちの「おぼっちゃま」も、朝倉美波さんの上品な笑顔も、俺の妹がなぜか巻き込まれていた現実も、すべて過去の出来事になった。
会社に来れば、日常に戻る。
そう思っていた。
「藤谷」
「はい」
戻っていた。
とても、戻っていた。
俺は会議室の机の前で、姿勢を正した。
目の前には坂本さんがいた。
いつもの坂本さんだった。
白いシャツ。整った資料。静かな声。細くなる目。
夏の海辺で、美沙さんに「カズくん」と呼ばれて、ほんの少し声を柔らかくしていた人とは別人だった。
いや、同一人物だ。
それが一番怖い。
「この進捗表だが」
「はい」
「昨日提出された数値と、今日の報告値が一致していない」
「……はい」
「差分は確認したか」
「確認しました」
「では、なぜこのまま提出した」
声は荒くない。
むしろ静かだ。
静かなのに、背骨の内側を一ミリずつ冷やしてくる。
「すみません。こちらの更新分を反映する前のデータを――」
「反映前かどうかは、見れば分かる」
「はい」
「俺が聞いているのは、なぜ反映前のものを、確認済みとして回したのかだ」
夏休み明け。
俺の社会人としての再起動は、坂本さんの詰めから始まった。
海で流されかけた人を助けた男とは思えない。
いや、助けたのは俺だ。
俺は人命救助ができる。
でも、坂本さんの資料確認からは逃げられない。
「藤谷」
「はい」
「一度のミスは起こる。だが、確認済みという言葉をつけた時点で、それは作業ではなく責任になる」
「……はい」
「次から、確認済みの定義を変えろ」
「はい」
「確認した気になった、ではない」
「はい」
「確認した、と言える状態にしろ」
「はい」
終わった。
そう思った瞬間、坂本さんは資料を一枚めくった。
「それと」
終わっていなかった。
夏合宿は終わったのに。
坂本さんは終わらない。
◇
「顔が死んでる」
休憩スペースで缶コーヒーを買った俺に、高岡が淡々と言った。
「死んでない。社会人として再教育されただけだ」
「それを死んでるって言うんだろ」
「夏休み明け一発目だぞ」
「坂本さん、通常運転だったな」
「通常運転が怖いんだよ」
俺は椅子に沈み込んだ。
高岡は隣に座り、紙コップのコーヒーを静かに飲んでいる。
夏休み明けのオフィスは、少しだけ浮ついていた。
土産の菓子が給湯室に置かれていたり、どこに行ったかという話があちこちで聞こえたりする。
なのに、坂本さんの周囲だけ季節がない。
常に業務。
常に精度。
常に確認済みの定義。
「夏合宿、夢だったのかな」
「現実だろ」
「現実だったか……」
「美波さんもいたしな」
「その名前を今、会社で出すな」
「恋されてるな」
「やめろ」
高岡は表情を変えずに、コーヒーを飲んだ。
こいつは夏合宿を経て、俺への攻撃精度が上がっている。
坂本さんとは別方向に怖い。
「でも、濃かったな」
「濃かった」
「朝倉さんの実家、思ってたより朝倉さんだった」
「どういう意味だ」
「広さと情報量と距離感」
「分かる」
朝倉家の別荘は、別荘というより、もはやちょっとした施設だった。
管理人さんたちが朝倉さんを「おぼっちゃま」と呼び、朝倉さんがそれを嫌がりもせず、雑に受け流している姿は、いまだに脳裏に焼きついている。
そして、その妹の美波さん。
上品で落ち着いているのに、中身は明らかに朝倉家だった。
美しい笑顔で距離を詰めてくる。
怖い。
坂本さんの怖さとは種類が違う。
あれは、逃げ道を塞がれる怖さだ。
「お前、帰りの車でも静かだったな」
「静かにもなるだろ」
「美波さんが同じ車に乗りたがってたし」
「思い出させるな」
「梢ちゃん、心配してたぞ」
「妹の前であれ以上処理落ちするわけにはいかなかったんだよ」
「兄だな」
「やめろ。急にいい話にするな」
高岡は、少しだけ口元を緩めた。
腹立つ。
こいつ、最近、本当に俺を観察対象か何かだと思っている。
「でもさ」
「うん」
「夏合宿で、坂本さんのこともだいぶ分かった気がしたんだよ」
「たとえば?」
「仕事中は怖いけど、美沙さんの前だとちゃんと人間になる」
「それは前からだろ」
「前からだけど、別荘だともっと分かりやすかった」
「ああ」
美沙さんがそばにいる時の坂本さんは、明らかに空気が違う。
声が柔らかい。
目の細さが、相手を詰める方向ではなく、なんというか、ほどける方向に変わる。
あれを最初に見た時、俺は本当に同姓同名の別人かと思った。
今も思う。
「そういえばさ」
「うん」
「坂本さんって、最初は美沙さんの顔が気に入った、みたいな話してたよな」
高岡が紙コップを持ったまま、こちらを見た。
「言ってたな」
「意外じゃない?」
「何が」
「坂本さんって、恋愛でももっとこう……内面とか、合理性とか、価値観とか、そういうところから入るタイプかと思ってた」
「顔だったな」
「言い方」
「でも、悪くない」
「坂本さんみたいに言うな」
高岡は淡々としている。
俺はその淡々さに、なぜかまた疲れた。
「いや、でも本当に意外なんだよ。坂本さんが、顔で人を好きになるって」
「坂本さんも人間だからな」
「それはそうだけど」
「顔が良いと思うことくらいあるだろ」
「あるけど、坂本さんだぞ?」
「坂本さんだな」
「坂本さんが、『顔が良い』って思うんだぞ?」
「思ったんだろ」
「処理しきれない」
俺は額を押さえた。
仕事中の坂本さんは、数字と論理と責任でできている。
感情というものがあるのは知っている。
美沙さんの前でだけ、ちゃんと見えるから。
でも、その始まりが「顔が良かった」だと思うと、何かが急に俗っぽくなる。
坂本さんに俗っぽさ。
似合わない。
いや、似合わないから面白い。
いや、面白がってはいけない。
命が危ない。
「まあ、最初に目を引かれるのは自然だろ」
高岡が言った。
「そこから続くかどうかは、別だし」
「高岡」
「うん」
「お前、たまにちゃんとしたこと言うよな」
「たまにか」
「だいたい俺を追い詰めてるから」
「学習してるな」
「だから坂本さんみたいに言うな」
その時だった。
「その話、もっと聞きたいか?」
低い声が、背後から落ちてきた。
俺は、缶コーヒーを落としかけた。
高岡は落とさなかった。
こいつはこういう時、本当に落とさない。
振り向くと、朝倉さんが立っていた。
ネクタイは少し緩んでいて、片手には資料の束。
通りすがりの顔をしている。
だが、目が笑っている。
完全に、通りすがりではない。
「朝倉さん……」
「藤谷」
「はい」
「お前、今、かなり面白い話してたな」
「してません」
「してた」
「してません」
「坂本がメンクイだった話」
「言い方!」
俺は思わず声を抑えた。
休憩スペースとはいえ、会社だ。
会社でそんな話をしてはいけない。
相手が坂本さんならなおさらだ。
命が危ない。
「朝倉さん、今のは一般論です」
「一般論で坂本の名前出すなよ」
「それは……そうですね」
負けた。
「でも、朝倉さんって、最初に美沙さんと坂本さんが会った時、いたんですか?」
高岡が聞いた。
落ち着いている。
こいつはこういう爆弾に、わりと普通に近づいていく。
危機管理能力が高いのか低いのか分からない。
「いない」
朝倉さんはあっさり言った。
「いないんですか」
「いない。あいつ、最初は家庭教師を断りに行っただけだからな」
「あ、そうか」
仁くん。
白石仁くん。
美沙さんの弟で、坂本さんを怖がらない人間その一。
いや、人間その一って何だ。
でも、俺の中ではそう分類されている。
「坂本さん、断りに行ったんですか」
「行った。面倒だから無理だ、ってな」
「言いそう」
「だろ」
朝倉さんは楽しそうに笑った。
「で、帰ってきた坂本に、俺が聞いたわけだ」
「何をですか」
「どうだった、って」
「家庭教師の話を?」
「そう」
「坂本さんは何て?」
朝倉さんは、そこで一拍置いた。
置かなくていい。
そういう溜めはいらない。
でも、朝倉さんは溜める。
この人は爆弾を投げる前に、ちゃんと火をつけるタイプだ。
「顔が良かった」
休憩スペースの空気が、止まった。
俺の中の何かも止まった。
「……誰がですか」
「白石さんが」
「誰が言ったんですか」
「坂本が」
「坂本さんが?」
「坂本が」
「……坂本さんが?」
「二回聞くな」
無理だ。
二回聞く。
むしろ三回聞きたい。
坂本さんが。
顔が良かった。
坂本さんが。
顔が。
「その時点では、坂本さんは美沙さんのことをよく知らないんですよね」
高岡が確認する。
「知らないな。仁の姉ってだけだ」
「それで第一声が」
「顔が良かった」
「メンクイですね」
「高岡!」
言った。
こいつ、言った。
俺がギリギリ飲み込んでいた言葉を、平然と言った。
朝倉さんは低く笑った。
「だろ?」
「だろ、じゃないです」
「でもな、藤谷」
朝倉さんの声が、少しだけ変わった。
からかう音は残っているのに、その奥に妙な温度がある。
「あいつが本当に落ちたのは、そのあとだ」
「……そのあと」
「家庭教師を引き受ける流れになってから、俺も多少手伝った。仁の教材だの、スケジュールだの、あいつ一人じゃ面倒くさがる部分をな」
「朝倉さんが?」
「俺は便利だからな」
「自分で言うんですね」
「事実だ」
確かに便利だ。
この人は雑なのに、妙なところで面倒見がいい。
仁くんが怒ったままでも横にいられる人だし、唐揚げで空気を変えられる人だ。
ただし情報量が多い。
「そのへんの話、聞きたいか?」
朝倉さんが、にやりと笑った。
俺は口を閉じた。
聞きたい。
ものすごく聞きたい。
でも、聞いたら戻れない気がする。
坂本さんの「顔が良かった」を知ってしまった時点で、もうかなり戻れないが。
「聞きたいです」
言ったのは高岡だった。
「高岡!」
「聞きたいだろ」
「聞きたいけど!」
「じゃあいいだろ」
「よくないんだよ。相手が坂本さんなんだよ」
「だから面白いんだろ」
「お前、最近、俺より危ないぞ」
高岡は涼しい顔でコーヒーを飲んだ。
朝倉さんは満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ週末な」
「週末?」
「新しくオープンしたビアガーデンがある。駅前の上のほう」
「上のほう」
「屋上だ」
「最初からそう言ってください」
「そこで話してやる」
なぜビアガーデン。
なぜ会社の休憩スペースで始まった坂本さんメンクイ疑惑が、週末のビアガーデンにつながるのか。
分からない。
でも、朝倉さんの中ではつながっているらしい。
「いや、俺たちが行く理由あります?」
「ある」
「何ですか」
「夏合宿の反省会」
「今、坂本さんの恋愛初期情報を聞く会に変わりましたよね」
「反省には過去の検証が必要だろ」
「坂本さんみたいに言わないでください」
「俺のほうが先だ」
「何がですか」
「坂本より俺のほうが先にこういうこと言ってる」
「張り合うところじゃないです」
朝倉さんは低く笑った。
高岡は、もう行く前提の顔をしている。
裏切り者。
「藤谷、お前も来いよ」
「俺は……」
「美波も来るかもな」
「行きません」
「嘘つけ。今、目が泳いだぞ」
「行きません」
「梢ちゃんも誘うか」
「やめてください!」
俺は立ち上がりかけた。
高岡が静かに肩を押さえた。
「落ち着け」
「落ち着けるか」
「兄だな」
「だから急にいい話にするな」
朝倉さんが楽しそうにしている。
本当に楽しそうにしている。
この人は、俺の人生を何だと思っているんだ。
「まあ、坂本の話をするなら、本人がいないところのほうがいいしな」
「それはそうですね」
「高岡、同意するな」
「本人がいると止められるだろ」
「止められるべき話なんだよ」
「でも聞きたい」
「聞きたいけど!」
その瞬間。
「何を聞きたいんだ」
低い声がした。
俺の背中が伸びた。
高岡の手が止まった。
朝倉さんだけが、楽しそうな顔のまま振り向いた。
坂本さんが立っていた。
資料を片手に、休憩スペースの入口に。
いつからいた。
どこから聞いていた。
いや、問題はそこではない。
目が細い。
さっき俺を詰めていた時より、少しだけ違う細さだ。
業務ではない。
警戒だ。
「朝倉」
「おう」
「何を話そうとしている」
「昔話」
「種類を言え」
「恋の始まり」
「却下する」
即答だった。
早い。
さすが坂本さん。
判断が早い。
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に分かる」
「さすがだな」
「褒めていない」
坂本さんの視線が、朝倉さんから俺たちに移った。
俺は缶コーヒーを両手で持ったまま固まった。
高岡は紙コップを持ったまま、比較的平然としている。
比較的だ。
たぶん、ほんの少しだけ面白がっている。
「藤谷」
「はい!」
「休憩は終わったのか」
「まだ三分あります!」
なぜ正直に答えた。
俺の口。
「そうか」
「はい」
「では、その三分で頭を冷やせ」
「はい」
何を知っているんだ。
どこまで聞いたんだ。
坂本さんは朝倉さんを見た。
「週末に何を企んでいる」
「ビアガーデン」
「誰と」
「藤谷と高岡」
「目的は」
「夏合宿の反省会」
「嘘をつくな」
「早いな」
「お前の反省会は反省しない」
「よく分かってるじゃねえか」
「だから聞いている」
怖い。
静かな応酬なのに、怖い。
でも、どこか慣れている。
この二人の腐れ縁の空気は、夏合宿を経て、俺にも少しだけ分かるようになってしまった。
分かりたくなかった。
「坂本」
「何だ」
「お前も来るか?」
「行かない」
「即答かよ」
「お前が俺のいないところで余計なことを話す可能性があるなら、なおさら行かない」
「逆じゃねえ?」
「俺が行けば、お前は俺の前で余計なことを言う」
「言うな」
「自覚があるなら黙れ」
朝倉さんが笑った。
坂本さんは笑わない。
でも、完全に怒っているわけでもない。
嫌そうではある。
とても嫌そうではある。
ただ、朝倉さんを本気で排除しようとはしていない。
長い付き合いの、諦めに近い何かがある。
「藤谷、高岡」
坂本さんが言った。
「はい」
「はい」
「朝倉の話は、半分で聞け」
「半分」
「事実に余計な装飾をつける」
「坂本さん」
「何だ、藤谷」
「事実はあるんですね」
言ってしまった。
俺は言ってから後悔した。
高岡が隣で、わずかに肩を揺らした。
笑うな。
今笑うな。
坂本さんの目が、こちらを向いた。
細い。
非常に細い。
「藤谷」
「はい」
「休憩後、先ほどの進捗表を再提出しろ」
「はい!」
「確認済みの定義も添えろ」
「はい!」
死んだ。
俺はまた死んだ。
好奇心で余計なことを聞いた結果、業務に戻された。
これが社会だ。
「ほらな」
朝倉さんが低く笑った。
「そういうとこだぞ、坂本」
「お前が原因だ」
「でも、顔が良かったのは事実だろ」
空気が凍った。
俺は呼吸を止めた。
高岡もさすがに黙った。
坂本さんは、朝倉さんを見た。
見た、というより、刺した。
「朝倉」
「おう」
「黙れ」
「否定はしないんだな」
「黙れ」
二回目。
否定ではない。
黙れ。
俺の脳内で、何かが点滅した。
坂本さんは否定していない。
坂本さんは。
美沙さんの顔が良かったことを。
否定していない。
「藤谷」
「はい!」
「その顔をやめろ」
「どの顔ですか!」
「余計な情報を処理しきれていない顔だ」
「正確です!」
「褒めていない」
高岡がついに横を向いた。
肩が震えている。
裏切り者。
坂本さんは軽く息を吐いた。
それから、朝倉さんにだけ聞こえるような低さで言った。
「週末の件は、ミサに余計な心配をかけるな」
「美沙ちゃんには言わねえよ」
「ならいい」
「いいのかよ」
「よくはない」
どっちだ。
坂本さんは資料を持ち直した。
「藤谷。三分後だ」
「はい」
「高岡」
「はい」
「藤谷が現実逃避しないように見ておけ」
「分かりました」
「分かるな!」
坂本さんはそのまま去っていった。
背中まで静かだった。
怖い人の背中だった。
でも。
最後の一言だけ、少し変だった。
美沙さんに心配をかけるな。
つまり、自分がからかわれることより、そこなのか。
俺は缶コーヒーを見下ろした。
冷たくなっていた。
「な?」
朝倉さんが言った。
「何がですか」
「面白いだろ」
「面白いですけど、命が削れます」
「週末、もっと削ってやるよ」
「やめてください」
「来るだろ?」
俺は黙った。
高岡が横で言った。
「行くだろ」
「お前はなんでそんなに前向きなんだ」
「坂本さんが否定しなかったから」
「そこに前向きになるな」
「でも、悪くない」
「だから坂本さんみたいに言うな!」
朝倉さんは満足そうに笑って、資料を肩に担ぐようにして歩き出した。
「じゃ、週末な。坂本が恋に落ちるまでの話、してやる」
恋に落ちるまで。
その言葉だけが、妙に残った。
顔が良かった。
そこから、恋に落ちるまで。
坂本さんにも、そういう時間があったのか。
仕事中は三パーセントの差分を許さない人が。
誰かの顔に目を引かれて。
その人のことを、少しずつ知って。
恋に落ちた。
想像すると、やっぱり処理が追いつかない。
でも、少しだけ。
聞いてみたいと思ってしまった。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「三分経った」
「最悪だ」
俺は立ち上がった。
夏休みは終わった。
会社は通常運転に戻った。
坂本さんは怖い。
朝倉さんは余計なことをする。
高岡は淡々と俺を追い詰める。
そして俺は、週末、坂本さんがメンクイだった話を聞きに行くことになった。
日常に戻ったはずなのに。
俺の夏合宿は、まだ終わっていない気がした。




