坂本さんが処理落ちした日Re.
この章は、本編の流れとは少し外れた特別編で、前章と対になっています。
ぜひ、前章を読んでからこの章をお読みください。
特にこの章はいつもと違う視点になっていますので、どうぞお楽しみください!
――坂本一志視点
午前七時十二分。
冷蔵庫には、シュークリームが入っていた。
正確には、七個が箱に入り、残りの一個だけが小さな皿に載せられていた。
皿の上の一個は、ほかのものより少し大きい。
俺は冷蔵庫の扉を開けたまま、それを見た。
「カズくん」
後ろからミサの声がした。
「何だ」
「今日、友達のところに持っていくから、食べないでね」
「ああ」
昨日、聞いていた。
シュー生地を焼いているところも見た。
八個作ったことも知っている。
すべて友人へ持っていく分だと、ミサが言っていたことも覚えていた。
だから、この時点では食べるつもりはなかった。
問題は、その十五分後だった。
出勤前に水を取ろうと、もう一度冷蔵庫を開けた。
箱は上段に入っていた。
小さな皿は、下段に移動していた。
箱とは別。
しかも、一個だけ。
ほかのものより大きい。
以前、ミサが会社へ差し入れたシュークリームとは別に、俺のために作ったものも、少し大きかった。
一つでは足りないだろうと言って、二つ作っていた。
会社へ持っていったものより、クリームも多かった。
つまり。
別皿。
一個。
大きい。
この三つの条件がそろっている。
俺の分だと判断した。
判断には根拠があった。
結果が正しかったかどうかは、別の話だ。
*
午前九時四十六分。
藤谷の提出した資料には、確認済みと書かれていた。
確認済みではなかった。
「藤谷」
「はい」
「この要件定義だが」
「はい」
「前提条件が弱い」
藤谷の肩が、目に見えて下がった。
指摘されることを予測していた顔だ。
予測できていたなら、提出前に直せばいい。
「ここの『おそらく対応可能』という表現は、確認済みではない」
「はい」
「確認済みとは、確認した気になった状態ではない」
「はい」
「確認した、と言える状態だ」
「はい」
特に難しい話はしていない。
曖昧な部分を曖昧なまま提出すれば、判断をする側に負担が移る。
その負担が誰に発生し、どの工程へ影響するのか。
そこまで考えて資料を作るべきだ。
藤谷は、なぜか少し安心したような顔をしていた。
指摘を受けて安心する理由が分からない。
「それと、このスケジュールだが」
「はい」
「外部ベンダーからの回答期限が書かれていない。遅延と判断する基準を明記しろ」
「はい」
「返事だけではなく、直せ」
「はい!」
声だけはよく出ていた。
*
昼休み。
休憩スペースへ行くと、藤谷がテーブルに突っ伏していた。
隣には高岡がいる。
藤谷の前に置かれた紙コップから、もう湯気は出ていない。
「寝ているのか」
「寝てます」
高岡が淡々と答えた。
「昼休みなので、問題はないと思います」
「午後の業務に影響しなければな」
「たぶん、影響します」
「なぜ」
「夢の内容が悪そうなので」
藤谷が、何か言った。
声が小さく、聞き取れない。
「今、何と言った」
「シュークリームに承認フローを通せ、と」
意味が分からない。
俺は持っていた資料で、藤谷の肩を軽く叩いた。
「藤谷」
「……何」
藤谷が顔を上げた。
俺を見た瞬間、目を見開く。
夢と現実の区別がついていない顔だった。
「寝ていたぞ」
高岡が言った。
「……夢を見た」
「だろうな」
「分かるのか」
「寝ながら言ってた」
「何を」
「シュークリームに承認フローを通せ、って」
藤谷が両手で顔を覆った。
「最悪だ……」
「何がだ」
「坂本さんが、処理落ちしてました」
俺は藤谷を見た。
「処理落ちとは何だ」
「いつもの精度がなくなることです」
「俺の精度が落ちたのか」
「夢の中では」
「なぜ」
「シュークリームを食べたからです」
シュークリーム。
今朝食べたものが、一瞬頭に浮かんだ。
だが、夢の中の話だ。
藤谷が今朝の冷蔵庫を見たわけではない。
「夢の内容を業務に持ち込むな」
「はい」
「それと、昨日の資料だが」
「はい!」
返事が急に大きくなった。
「前提条件が甘い。再提出しろ」
「はい!」
「確認済みの定義も添えろ」
「はい!」
藤谷が深く息を吐いた。
なぜか、安堵している。
「何だ」
「いえ……坂本さんが坂本さんで、よかったなと」
「意味が分からない」
高岡が藤谷を見た。
「処理、戻ったな」
「言うな」
戻っていない。
そもそも落ちていない。
その時、机の上に置いたスマートフォンが震えた。
画面が光る。
ミサちゃん
登録名は、ミサが勝手に変えた。
そのままにしているだけだ。
通知の本文を確認する。
『カズくん、冷蔵庫のシュークリーム、一つ食べた?』
俺の指が止まった。
半秒。
おそらく、その程度だった。
だが。
朝、冷蔵庫を開けた時の配置を思い出す。
上段の箱。
下段の皿。
少し大きなシュークリーム。
前回の俺の分。
今回の友人用。
ミサの「食べないでね」。
すべての情報を再配置する。
結論。
あれは、俺の分ではなかったらしい。
続きの通知が表示された。
『あれも友達に持っていく分だったんだけど……』
俺はスマートフォンを伏せた。
早かったと思う。
少なくとも、資料の差分を見つける時と同程度には。
「……何でもない」
藤谷と高岡が、こちらを見ていた。
「何だ」
「いえ」
藤谷の視線が、伏せたスマートフォンへ動く。
「ミサさんからですか」
「業務に関係ない」
「関係ないんですね」
「そう言っている」
否定ではなく、関係ないと答えた。
失敗した。
藤谷の顔に、余計な疑問が増えた。
「坂本さん」
「何だ」
「……冷蔵庫のシュークリーム、何かありましたか」
なぜ分かる。
俺は藤谷を見た。
目が合った瞬間、藤谷の背筋が伸びた。
「藤谷」
「はい」
「業務に関係ない」
もう一度言った。
藤谷は黙った。
高岡が、横から静かに言う。
「藤谷」
「何」
「夢、当たったんじゃないか」
「やめろ」
「余計な推測をするな」
俺が言うと、高岡はこちらを見た。
「推測ではありません」
「何だ」
「状況証拠です」
「高岡」
「はい」
「状況証拠という言葉を使うなら、証拠を示せ」
高岡は、伏せられたスマートフォンを見た。
「通知後、坂本さんの応答までに通常より間がありました」
「半秒だ」
「認識しているんですね」
認識している。
言う必要はなかった。
「藤谷」
高岡が続ける。
「たぶん、食べたな」
「言うな」
藤谷は小声で答えた。
すでに言っている。
俺は資料を開いた。
「資料に戻る」
「はい!」
「昨日の修正箇所だが」
「はい!」
藤谷の返事は、必要以上に力強かった。
「ここは前提条件が弱い」
「はい!」
「確認済みとは――」
ミサが許可したもの。
一瞬、別の言葉が頭に浮かんだ。
違う。
業務上の定義に、ミサは関係ない。
「確認した気になった状態ではなく、確認したと言える状態だ」
「はい!」
「では、この資料は」
「確認済みではありません!」
「分かっているなら直せ」
「はい!」
問題なく言えた。
処理は落ちていない。
業務への影響もない。
シュークリームを一個食べたことと、資料レビューの精度は別だ。
藤谷が、俺の顔を見ている。
「何だ」
「いえ。本当に戻ったなと思って」
「最初から変わっていない」
「夢の中では、カスタード漏れをシステムリスクにしてました」
「何だそれは」
「忘れてください」
「最初から聞かなかったことにする」
藤谷が、ほっとした顔をした。
高岡が小さく笑っている。
「高岡」
「はい」
「何がおかしい」
「藤谷の夢です」
「俺を含む夢で笑うな」
「分かりました」
分かっていない顔だった。
「坂本さん」
藤谷が、恐る恐る口を開いた。
「何だ」
「現実では、八個じゃないですよね」
八個。
俺は藤谷を見た。
なぜ、八という数字が出る。
今朝、冷蔵庫にあったのは八個だった。
藤谷は知らない。
ただの偶然だ。
偶然だが、気分はよくない。
「藤谷」
「はい!」
「夢の内容を、業務に持ち込むな」
「はい!」
「それと」
「はい!」
一拍置いた。
食べたのは、一個だ。
八個全部ではない。
これは事実だ。
「八個ではない」
藤谷が息を止めた。
高岡も、さすがにこちらを見た。
俺は資料へ視線を戻す。
「続ける」
「はい!」
「昨日の修正箇所だが」
「はい!」
藤谷は返事をしながら、まだ俺を見ていた。
見るな。
一個だ。
八個ではない。
数量としては、明確に違う。
*
午後一時三十八分。
俺はミサへ返信した。
『一つ食べた。すまない』
すぐに既読がつく。
『やっぱり』
やっぱり。
疑われていたらしい。
『別の皿に載っていたから、俺の分だと思った』
しばらくして、返事が来た。
『大きかったから?』
指が止まった。
なぜ分かる。
『そうだ』
『この前、カズくんのだけ大きくしたもんね』
覚えていた。
当然だ。
作ったのはミサだ。
『でも、今日のは膨らみすぎただけだよ』
膨らみすぎただけ。
個体差。
俺のために意図して大きくしたものではない。
判断材料の一つが崩れた。
『箱に入らなかったから、別のお皿に置いてただけなの』
別皿にも、意味はなかった。
配置上の都合。
俺の分であることを示す分類ではない。
残る根拠は、一個だけだったこと。
だが、単数であることは所有者を示さない。
判断は誤りだった。
『帰ったら、一緒に一個作り直してくれる?』
『分かった』
『今度は勝手に食べないでね』
返信を考える。
『努力する』
入力した。
消した。
それでは、また食べる可能性が残る。
『食べない』
送信した。
数秒後。
『お利口さん』
俺はスマートフォンを伏せた。
藤谷がこちらを見ていた。
「何だ」
「いえ。今、少しだけ表情が」
「資料は終わったのか」
「まだです」
「なら、俺の顔ではなく資料を見ろ」
「はい!」
返事だけは早い。
*
十八時。
定時で会社を出た。
急いでいるわけではない。
帰宅時間を変える合理的な理由がないだけだ。
玄関を開けると、甘い香りがした。
「おかえり、カズくん」
ミサがキッチンから顔を出す。
「ただいま」
テーブルの上には、焼き直したシュー生地が並んでいた。
すでに友人へ持っていったあとらしい。
「間に合ったのか」
「うん。予備の生地があったから」
「なら、作り直す必要はなかっただろう」
「カズくんに、ちゃんと責任を取ってもらおうと思って」
「何をすればいい」
「クリーム入れて」
絞り袋を渡された。
口金がついている。
「量は」
「適当でいいよ」
「基準がない」
「生地が少し重くなるくらい」
「数値で言え」
「お菓子は、そういうものじゃないの」
そういうものなのか。
ミサはシュー生地を一つ持ち、底に小さな穴を開けた。
「ここから入れるの」
「分かった」
「入れすぎると、横から出るからね」
「カスタード漏れか」
言ってから、藤谷の夢を思い出した。
ミサが首を傾げる。
「何?」
「何でもない」
絞り袋へ力を加える。
手応えが変わる。
生地がわずかに重くなったところで止めた。
「上手」
「難しくはない」
「初めてなのに?」
「圧の変化を見れば分かる」
「柏木くんみたいなこと言ってる」
「なぜ柏木が出てくる」
「前にシュークリーム食べた時、食べた時の圧が安定してるって言ってたでしょ?」
ミサは仁から聞いたらしい。
不要な情報まで共有されている。
「仁は、どこまで話した」
「カズくんが会社で拗ねてたことも」
「拗ねていない」
「俺の分は、って聞いたんでしょ?」
「配布条件を確認しただけだ」
「オーブンの容量まで確認したって」
「それは仁の説明に虚偽があったからだ」
ミサが笑った。
楽しそうだった。
「今日は、冷蔵庫の配置条件を間違えたの?」
「間違えてはいない」
「違ったの?」
「判断材料が不足していた」
「つまり?」
「俺の分だと思った」
ミサの手が止まった。
それから、目元が柔らかくなる。
「そっか」
「何だ」
「カズくん、この前の覚えてたんだね」
「覚えている」
「自分のだけ大きかったの、嬉しかった?」
答える必要はない。
そう思った。
だが、ミサは待っている。
「……悪くなかった」
「ふふ」
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
ミサはまだ笑っていた。
冷蔵庫を開ける。
中から、保存容器を取り出した。
「はい」
蓋を開ける。
シュークリームが二つ入っていた。
今日の友人用より、少し大きい。
「これは」
「カズくんの分」
「作り直したのか」
「予備の生地があったって言ったでしょ?」
「二つある」
「一つじゃ足りないでしょ?」
前にも聞いた言葉だった。
「友人用を作る前に、別にしておいたのか」
「うん」
「では、今朝の時点で俺の分はあったのか」
「あったよ」
「なぜ言わなかった」
「夜にクリーム入れたほうがおいしいから。生地だけ取っておいたの」
つまり。
今朝食べる必要はなかった。
友人用の一個を食べなくても、俺の分は確保されていた。
「カズくん」
「何だ」
「また固まってるよ」
「固まっていない」
「処理落ち?」
俺はミサを見た。
「誰から聞いた」
「仁くん」
仁。
そこまで共有するな。
「藤谷くんが、坂本さんが処理落ちする夢を見たって」
「業務上不要な情報だ」
「シュークリームを八個食べたんだって?」
「夢の中では、だ」
「現実は?」
「一個だ」
「ちゃんと分かってるよ」
ミサが笑いながら、一つを皿に載せた。
「はい。カズくんの」
受け取る。
生地は、今朝食べたものより香ばしかった。
クリームは冷たい。
甘さは控えめで、バニラの香りも強すぎない。
「おいしい?」
「ああ」
「よかった」
ミサが笑う。
俺はもう一口食べた。
「今度から、カズくんの分には名前を書いておくね」
「必要ない」
「また間違えたら困るでしょ?」
「次からは確認する」
「確認してから食べてね」
「ああ」
ミサは保存容器を閉じようとした。
俺はその手を止める。
「何?」
「もう一つは」
「明日の分」
「今食べる」
「だめ」
「俺の分だろう」
「カズくん」
「……分かった」
保存容器の蓋が閉じられた。
冷蔵庫へ戻される。
俺のシュークリームが遠ざかった。
「また処理落ちしてる?」
「していない」
ただ、明日の分という条件を再確認しているだけだ。
食べてはいけない。
確認済みだ。
俺は一個目の残りを食べた。
ミサが、まだ笑っている。
処理は落ちていない。
少なくとも。
八個ではない。




