表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/29

坂本さんが処理落ちした日

この章は、本編の流れとは少し外れた特別編で、次の章と対になっています。


ぜひ、この章を読んでから次の章をお読みください。

 その日は、在宅勤務だった。


 俺――藤谷直樹は、自宅の机の前で、リモート会議用のイヤホンを耳に入れていた。


 画面の向こうには、坂本さんがいる。


 白いシャツ。


 整った髪。


 無駄のない背景。


 そして、共有画面に映る俺の資料。


 怖い。


 すでに怖い。


 まだ何も言われていないのに怖い。


「藤谷」


「はい」


「この要件定義だが」


「はい」


「前提条件が弱い」


 来た。


 通常運転。


 声は静か。


 静かなまま、背骨の内側を一ミリずつ冷やしてくる。


「ここの『おそらく対応可能』という表現は、確認済みではない」


「はい」


「確認済みとは、確認した気になった状態ではない」


「はい」


「確認した、と言える状態だ」


「はい」


 怖い。


 だが、少し安心する。


 いつもの坂本さんだ。


 目が細い。


 怖い。


 安心する怖さ。


 安心する怖さとは何だ。


 俺の感覚は、もうだいぶ会社に壊されている。


「それと、このスケジュールだが」


「はい」


 その時だった。


 画面の向こう、坂本さんの少し外側から、柔らかい声がした。


「カズくん」


 俺の背筋が伸びた。


 美沙さんの声だった。


 坂本さんの目が、共有画面からほんの少し外れた。


「……何」


 声が変わった。


 さっきまで俺の資料を冷凍していた声が、少しだけ温度を持った。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


「ごめんね、お仕事中に」


「いや」


「ちょっとだけ、確認してもいい?」


「……何を」


 坂本さんの声に、わずかな警戒が混じった。


 仕事中の警戒ではない。


 恋人に何かを見つかった人の警戒だった。


 何をした。


 坂本さん。


 何をしたんですか。


「冷蔵庫に入れておいたシュークリーム、知らない?」


 空気が止まった。


 リモート会議なのに、止まったのが分かった。


 坂本さんの視線が、ほんの一瞬だけ右に動いた。


 右。


 冷蔵庫がある方向なのか。


 それとも、罪悪感が逃げた方向なのか。


「……知らない、とは言えない」


 言えないんだ。


 俺は思った。


 言えないんですね。


「カズくん」


「……何だ」


「あれ、今日、友達に持っていく分だよって、昨日言ったよね?」


「言っていた」


「八個あったよね?」


「……あった」


「今、ゼロなんだけど」


 ゼロ。


 八からゼロ。


 消失。


 いや、消費。


 犯人は、画面の向こうにいる。


 俺は固まった。


 坂本さんが、恋人の友達用シュークリームを全部食べた。


 情報量が多い。


 多すぎる。


「カズくん」


「……品質確認だ」


 出た。


 品質確認。


 シュークリーム八個の品質確認。


 そんな監査はない。


「八個ぜんぶ?」


「個体差がある可能性を考慮した」


 坂本さん。


 論理の形をした食欲を出さないでください。


「カズくん」


「……はい」


 はい。


 坂本さんが、はいと言った。


 しかも、弱い。


「友達に持っていくって言ったよね?」


「聞いていた」


「聞いていたのに、食べたの?」


「……食べた」


「どうして?」


 美沙さんの声は、怒鳴っていない。


 むしろ柔らかい。


 柔らかいのに、逃げ道がない。


 坂本さんが、詰められている。


 詰める側の人が。


 詰められている。


「……冷蔵庫の中にあった」


「うん」


「ミサが作ったものだった」


「うん」


「保存時間の観点から、早めに消費する必要があると判断した」


「カズくん」


「……すまない」


 負けた。


 坂本さんが負けた。


 美沙さんの「カズくん」一つで。


「藤谷くん、ごめんなさいね。お仕事中に」


 突然、こちらに声が飛んできた。


「い、いえ! 大丈夫です!」


 大丈夫ではない。


 俺の世界観が大丈夫ではない。


「カズくん、ちゃんと藤谷くんに迷惑かけないでね」


「……かけていない」


「声が弱いよ」


「……かけていない」


 弱い。


 二回目も弱い。


 美沙さんは、小さくため息をついた。


 でも、そのため息も柔らかかった。


「あとで一緒に作り直すからね」


「……分かった」


「今度は食べないでね」


「努力する」


「努力じゃなくて、食べないでね」


「……食べない」


 坂本さんが、食べない、と約束した。


 俺は画面越しに、会社では絶対に見てはいけないものを見ている気がした。


 電話ではない。


 会議だ。


 仕事中だ。


 なのに、坂本さんがシュークリームで叱られている。


 その後、美沙さんの声は遠ざかった。


 たぶん、キッチンへ戻ったのだろう。


 坂本さんは、一度だけ目を閉じた。


 そして画面に戻った。


「……続ける」


「はい」


 続くのか。


 この状態で。


 坂本さんは資料を見た。


 いつもの坂本さんなら、ここで一秒もかからず問題点を刺してくる。


 前提条件。


 根拠。


 責任範囲。


 確認済みの定義。


 全部、静かに的確に。


 なのに。


「この部分は……」


「はい」


「……まあ、いい」


 俺は止まった。


 まあ。


 いい。


 坂本さんが。


 俺の資料に。


 まあ、いい。


「坂本さん?」


「何だ」


「今、まあいい、と」


「言った」


「なぜですか」


「……全体として、悪くない」


 終わった。


 世界が終わった。


 坂本さんが、全体として悪くないと言った。


 具体的な指摘がない。


 根拠もない。


 差分も見ていない。


 これは坂本さんではない。


 シュークリームに魂を持っていかれた何かだ。


「坂本さん」


「何だ」


「この資料、さっき前提条件が弱いと」


「そうだったか」


 そうだったか。


 坂本さんが。


 そうだったか。


 俺は息を吸った。


 吸ったが、吐き方を忘れた。


 その時、リモート画面に新しい四角が増えた。


 高岡だった。


 いつ入ってきた。


 招待した記憶はない。


 だが、高岡はいた。


 いつもの顔で。


「藤谷」


「何」


「坂本さん、処理落ちしてるな」


「言うな!」


 言った。


 言ってしまった。


 でも、言うしかない。


「処理落ちとは何だ」


 坂本さんが静かに言った。


 静かだ。


 でも怖くない。


 怖くない坂本さん。


 それが一番怖い。


「坂本さん」


 高岡が淡々と言う。


「通常時より、指摘の粒度が落ちています」


「粒度」


「はい。シュークリーム由来の一時的な処理低下かと」


「高岡、分析するな!」


 さらに、画面に別の四角が増えた。


 柏木くんだった。


「お疲れ様です」


「柏木くん、何で入ってきたの」


「招待通知が来ました」


「誰から」


「分かりません」


 分からないのに入ったのか。


 いや。


 柏木くんなら、通知が来たら入るかもしれない。


 その時の俺は、そう納得してしまった。


 柏木くんは画面を見つめて、真面目に言った。


「状況を整理すると、坂本さんは未承認のシュークリームを消費し、その影響でレビュー精度が低下している、という理解で合っていますか」


「合ってない!」


「未承認ではない」


 坂本さんが言った。


「冷蔵庫にあった」


「それは承認ではありません」


 さらに別の声。


 白石仁くんだった。


 また四角が増えている。


 どうして。


 いや、今はそれどころではない。


 白石仁が、シュークリーム案件に入ってきた。


 姉さん案件だ。


 部屋の温度が下がる。


 リモートなのに。


「一志さん」


 仁くんの声が低い。


「姉さんのシュークリームを、全部食べたんですか」


「……全部ではない」


 え。


 俺は画面を見た。


「坂本さん、さっき八個全部と」


「クリームが少し皿に残った」


「それは全部です!」


 俺の声が大きくなった。


 坂本さんの目が、少し細くなった。


 怖くない。


 細いのに怖くない。


 異常事態だった。


「一志さん」


 仁くんが言った。


「冷蔵庫から自分で出して食べたものを、不可抗力とは言いません」


「不可抗力とは言っていない」


「言いそうな顔をしていました」


「顔で判断するな」


「いつものことです」


 強い。


 仁くんは、今日も坂本さんの目を怖がらない。


 だが、今回は坂本さんの目が怖くない。


 怖くないのに怖い。


 概念が破綻している。


「つまり」


 柏木くんが言った。


「シュークリームにも承認フローが必要だった、ということですね」


「必要ない」


 坂本さんが言った。


「必要です」


 仁くんが言った。


「姉さんのものなら、なおさら」


「白石さん」


 柏木くんが真面目に頷いた。


「次回から、ラベルを貼るのはどうでしょうか。『友人用』『坂本さん用』『品質確認不可』など」


「品質確認不可は必要です」


「仁くん、乗らないで!」


 会議が、シュークリームの承認フローになっている。


 仕事はどこへ行った。


 要件定義は。


 前提条件は。


 確認済みの定義は。


「藤谷」


 坂本さんが言った。


「はい!」


「確認済みとは」


「はい」


「……ミサが許可したものを指す」


「業務定義に恋人を入れないでください!」


 終わった。


 本当に終わった。


 坂本さんが、確認済みの定義を恋人に委ねた。


 これは災害だ。


 社内規程の危機だ。


 社会人としての世界が崩れている。


 さらに画面が増えた。


 朝倉さんだった。


「おー、やってんな」


「朝倉さん!」


「坂本、ミサさんのシュークリーム全部食ったって?」


「誰から聞いたんですか!」


「仁」


「白石くん!」


 仁くんは平然としていた。


「情報共有です」


「姉さん案件を共有するな!」


 朝倉さんは、低い声で笑った。


「坂本」


「何だ」


「八個は食いすぎだろ」


「お前に言われる筋合いはない」


「俺なら二個で止める」


「嘘をつくな」


「三個」


「増えた」


 高岡が静かに言った。


「朝倉さんの場合、場を温めたと言いそうですね」


「シュークリームで?」


「カスタードで」


「高岡、うまいこと言うな」


「言っていません」


 俺は頭を抱えた。


 会議が戻らない。


 誰も戻してくれない。


 普段なら、坂本さんが戻す。


 仕事に。


 現実に。


 精度に。


 なのに、その坂本さんが処理落ちしている。


「坂本さん」


 俺は必死に言った。


「資料レビューに戻ってください」


「戻っている」


「戻ってません」


「戻っている」


「では、この要件のリスクは何ですか」


 坂本さんは資料を見た。


 見た。


 長い。


 いつもより長い。


 そして、静かに言った。


「……カスタード漏れ」


「システム要件にカスタードはありません!」


 俺は叫んだ。


 高岡が肩を震わせた。


 柏木くんがメモを取っている。


 仁くんが「姉さんのカスタードは漏れません」と低く言った。


 朝倉さんが笑っている。


 地獄だった。


 善意しかない地獄だった。


 その時、画面の向こうから、また美沙さんの声がした。


「カズくん」


 全員が止まった。


 坂本さんも止まった。


「……何」


「藤谷くんたち、困ってない?」


「困っていない」


 即答だった。


 弱かった。


「声が弱いよ」


「……困っていない」


 さらに弱かった。


「藤谷くん?」


 突然振られた。


 俺は背筋を伸ばした。


「はい!」


「困ってる?」


 優しい声だった。


 でも逃げ道がない。


 美沙さん。


 あなたは柔らかいのに強い。


 俺は正直に言った。


「困っています!」


 坂本さんが俺を見た。


 怖くない。


 でも、少し悲しそうだった。


 やめてください。


 その顔は処理できない。


「カズくん」


「……はい」


「ちゃんと戻って」


「戻っている」


「戻ってないよ」


「……戻る」


 戻る。


 坂本さんが、自分で言った。


 その瞬間。


 画面の中の坂本さんが、すっと姿勢を正した。


 目が細くなる。


 空気が変わる。


 冷える。


 戻った。


 怖い。


 いつもの坂本さんだ。


 俺はなぜか、ものすごく安心した。


「藤谷」


「はい!」


「この要件は前提条件が弱い。再提出だ」


「はい!」


「高岡」


「はい」


「藤谷が現実逃避しないように見ておけ」


「分かりました」


「柏木」


「はい」


「シュークリームの承認フローは忘れろ」


「分かりました。記録から削除します」


「仁」


「はい」


「ミサには俺から謝る」


「当然です」


「朝倉」


「おう」


「退出しろ」


「何で俺だけ雑なんだよ」


「原因だからだ」


「俺じゃねえだろ。シュークリーム食ったのお前だろ」


「退出しろ」


 戻った。


 完全に戻った。


 怖い。


 安心する。


 安心するな、俺。


 坂本さんは、画面越しに俺の資料を見た。


「藤谷」


「はい!」


「確認済みの定義を、もう一度言え」


「確認した気になった状態ではなく、確認したと言える状態です!」


「そうだ」


「はい!」


「では、この資料は」


「確認済みではありません!」


「分かっているなら直せ」


「はい!」


 俺は返事をした。


 全力で。


 怖い。


 だが、世界が元に戻った。


 カスタード漏れは消えた。


 シュークリーム承認フローも消えた。


 坂本さんは、坂本さんに戻った。


 よかった。


 本当によかった。


「藤谷」


「はい!」


「その顔は何だ」


「いえ……坂本さんが坂本さんで、よかったなと」


「意味が分からない」


 その声は、完全にいつもの坂本さんだった。


 そこで、俺は目を覚ました。


     ◇


「藤谷」


「……何」


 目の前に、高岡がいた。


 会社の休憩スペースだった。


 昼休み。


 俺はテーブルに突っ伏して寝ていたらしい。


 紙コップのコーヒーは、すっかり冷めていた。


「寝てたぞ」


「……夢を見た」


「だろうな」


「分かるのか」


「寝ながら言ってた」


「何を」


 高岡は、表情を変えずに言った。


「シュークリームに承認フローを通せ、って」


 最悪だった。


 俺は顔を両手で覆った。


「最悪の夢を見た」


「坂本さんが?」


「処理落ちしてた」


 高岡が、少しだけ黙った。


 そして、真顔で言った。


「それは怖いな」


「だろ!?」


 本当に怖かった。


 坂本さんの仕事の精度が落ちる夢。


 確認済みの定義が死ぬ夢。


 カスタード漏れがシステムリスクになる夢。


 悪夢以外の何でもない。


 その時だった。


「藤谷」


 背後から、低い声がした。


 俺は椅子から落ちそうになった。


 振り向くと、坂本さんが立っていた。


 白いシャツ。


 整った資料。


 静かな顔。


 そして、目が細い。


 怖い。


 いつもの怖さ。


「昨日の資料だが」


「はい!」


「前提条件が甘い。再提出しろ」


「はい!」


「確認済みの定義も添えろ」


「はい!」


 怖い。


 でも、安心する。


 安心したくないのに。


 俺は思わず、深く息を吐いた。


「何だ」


 坂本さんが俺を見た。


「いえ……坂本さんが坂本さんでよかったなと」


「意味が分からない」


 高岡が横で静かに言った。


「処理、戻ったな」


「言うな」


 俺は小さく返した。


 その瞬間、坂本さんのスマホが震えた。


 机の上で、画面が光る。


 見えてしまった。


 通知名。


 ミサちゃん


 坂本さんの指が、一瞬だけ止まった。


 本当に、一瞬だけ。


 だが、俺は見た。


 高岡も見た。


 そして、たぶん坂本さんも分かっていた。


 俺たちが見たことを。


 表示された通知の本文は、全部は見えなかった。


 見えなかったが。


 最初の一行だけ、見えてしまった。


『カズくん、冷蔵庫のシュークリーム……』


 そこで坂本さんは、スマホを伏せた。


 早かった。


 資料の差分を見つける時と同じくらい早かった。


「……何でもない」


 何でもなくない。


 その「何でもない」は、確認済みではない。


 俺は固まった。


 高岡も黙った。


 坂本さんは、何事もなかったような顔で資料を持ち直している。


 だが、さっきまでとは違った。


 ほんの少し。


 ほんの少しだけ、空気が乱れている。


 仕事中の坂本さんなら、絶対に乱さない程度の、微細な揺れ。


 でも俺には分かった。


 なぜなら、たった今、坂本さんがシュークリームで処理落ちする夢を見たばかりだったからだ。


「坂本さん」


「何だ」


「……冷蔵庫のシュークリーム、何かありましたか」


 言ってしまった。


 言ってから後悔した。


 坂本さんの目が、ゆっくりこちらを向いた。


 細い。


 怖い。


 戻っている。


 完全に坂本さんだ。


 でも、返答までの間が、いつもより半秒長かった。


「藤谷」


「はい」


「業務に関係ない」


 関係ない。


 否定ではない。


 関係ない。


 俺の脳内で警報が鳴った。


 高岡が、横で静かに言った。


「藤谷」


「何」


「夢、当たったんじゃないか」


「やめろ」


 俺は即答した。


 坂本さんの視線が、高岡に移る。


「高岡」


「はい」


「余計な推測をするな」


「推測ではありません」


「何だ」


「状況証拠です」


「高岡」


 声が低くなった。


 怖い。


 いつもの坂本さんだ。


 でも、その怖さの奥に、ほんの少しだけ別のものが混じっている気がする。


 これは。


 もしかして。


 焦り。


 坂本さんが。


 焦り。


 いや、やめろ。


 それ以上考えるな。


 命に関わる。


「坂本さん」


 俺は、恐る恐る言った。


「現実では、八個じゃないですよね」


 沈黙。


 完全な沈黙。


 言った。


 俺は今、言ってはいけないことを言った。


 高岡が横を向いた。


 肩が震えている。


 笑うな。


 今笑うな。


 坂本さんの目が、さらに細くなった。


「藤谷」


「はい!」


「夢の内容を、業務に持ち込むな」


「はい!」


「それと」


「はい!」


 坂本さんは、一拍置いた。


 置いた。


 置いたぞ。


「八個ではない」


 認めた。


 俺は息を止めた。


 高岡も、さすがにこちらを見た。


 坂本さんは、何事もなかったように資料を開く。


「資料に戻る」


「はい!」


「昨日の修正箇所だが」


「はい!」


「前提条件が甘い」


「はい!」


 戻った。


 仕事に戻った。


 坂本さんは戻った。


 だが、俺は戻れない。


 八個ではない。


 それは、ゼロではないという意味だ。


 つまり。


 現実でも。


 食べた。


 坂本さんは、現実でも、食べてはいけないシュークリームを食べた。


 ただし、八個ではない。


 たぶん一個。


 いや、二個の可能性もある。


 坂本さんの「八個ではない」は、範囲が広すぎる。


 美沙さんの通知。


 冷蔵庫のシュークリーム。


 坂本さんの一瞬の停止。


 そして、否定ではなく「八個ではない」。


 状況証拠は揃っていた。


 高岡が、資料を見るふりをしながら、小さく言った。


「顔が、シュークリーム」


「やめろ」


 俺は小声で返した。


 坂本さんの目が、こちらを向く。


「藤谷」


「はい!」


「聞こえている」


「すみません!」


「高岡」


「はい」


「お前もだ」


「すみません」


 怖い。


 ちゃんと怖い。


 仕事の精度も落ちていない。


 資料の甘さも見逃さない。


 確認済みの定義も生きている。


 坂本さんは、坂本さんだった。


 だから俺は、少しだけ安心した。


 安心したくなかった。


 でも、安心した。


 夢でよかった。


 そう思った。


 少なくとも、八個ではなかった。


 ……たぶん。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ