夏合宿、終ワラナイナ?
三日目の朝だった。
俺――藤谷直樹は、目を覚ました瞬間に思った。
帰れる。
今日、帰れる。
二泊三日。
つまり、三日目は帰る日だ。
昨日は海に入らなかった。
BBQをした。
花火をした。
ヘビ花火が伸びた。
俺の平穏も伸びなかった。
だが、今日で終わる。
夏合宿は、今日で終わる。
俺は布団の中で、静かに息を吐いた。
勝った。
何に勝ったのかは分からない。
でも、とにかく勝った気がした。
「藤谷」
隣のベッドから高岡の声がした。
「何」
「顔が、帰宅」
「寝起きの顔に分類をつけるな」
「でも、帰宅」
「うるさい」
俺は起き上がった。
窓の外は、腹が立つくらい晴れていた。
海のほうから、少し湿った風が入ってくる。
夏の朝だった。
いい朝だ。
昨日までなら、何かが起きそうで怖かった。
でも、今日は違う。
帰る日だ。
さすがに、もう大きな事件は起きない。
「藤谷」
「何」
「今、さすがにもう何も起きない、って顔してる」
「してない」
「してる」
なぜ分かる。
高岡の藤谷検知精度が、日に日に上がっている。
「大丈夫だろ。今日は帰るだけだし」
「それを言ったら終わりだと思う」
「不吉なことを言うな」
「でも、悪くない」
「朝から坂本さんみたいに言うな」
ベッドを整えながら、ため息をついた。
廊下に出ると、すでに誰かが動いている気配がした。
リビングのほうから、食器の音がする。
管理人さんたちの声も、少し聞こえる。
さすが朝倉家の別荘。
帰る日の朝まで、妙に整っている。
リビングへ入ると、美沙さんが管理人さんと並んで、朝食の準備を手伝っていた。
「あ、藤谷くん。おはよう」
「おはようございます」
美沙さんは、朝から柔らかかった。
なぜだろう。
この人の「おはようございます」には、ちゃんと人を朝に戻す力がある。
昨日のヘビ花火で受けた心の傷が、少し回復した。
「よく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「よかった」
美沙さんが笑った。
その横で、坂本さんがコーヒーを置いた。
「ミサ、皿は俺が運ぶ」
「大丈夫だよ、軽いから」
「床が滑る」
「カズくん、昨日の花火より慎重だね」
「花火とは条件が違う」
条件。
朝食の皿運びに、条件。
だが声が柔らかい。
仕事中なら、相手の報告書を三枚ほど削る声なのに、今は皿の重さを気にしている声だ。
誰だ。
いや、坂本さんだ。
でも誰だ。
「藤谷さん」
背後から声がした。
俺は一瞬、背筋を伸ばした。
美波さんだった。
朝の光の中でも、やはり上品だった。
白いシャツに、淡い色のスカート。
昨日の花火の時とはまた違う、落ち着いた雰囲気だ。
見た目だけなら。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「はい。普通に」
「それはよかったです」
美波さんが、にこりと笑った。
笑顔は綺麗だった。
綺麗なのに、なぜか背後に朝倉さんの気配がある。
血だ。
これは血だ。
「一昨日は、本当にありがとうございました」
「いえ、それはもう……」
一昨日。
そうだ。
美波さんが流されかけたのは初日の午後だ。
つまり、もう一昨日の話だ。
昨日じゃない。
時間は進んでいる。
ちゃんと進んでいる。
なら、この話もそろそろ過去になるはずだ。
「藤谷さんがいなかったら、私、少し危なかったと思います」
「本当に無事でよかったです」
「はい」
美波さんは素直にうなずいた。
そこまでは普通だった。
そこまでは。
「なので、今日も少し、そばにいていただけると安心します」
「はい?」
俺の口から、素直な疑問が出た。
そばに。
今日も。
今日は海に入らない。
今日は帰る。
俺は帰る。
「美波さん、今日は海に入りませんよね」
「入りません」
「ですよね」
「でも、心の海があります」
「心の海」
何だそれは。
俺が黙っていると、隣で高岡が朝食のトレーを持ちながら言った。
「広そうだな」
「感想を言うな」
美波さんは、楽しそうに笑った。
朝倉さんと似ている。
でも、朝倉さんより静かで、朝倉さんより逃げ道を塞ぐのが上品だ。
最悪の進化系かもしれない。
「美波」
低い声がした。
朝倉さんが、リビングの入口に立っていた。
片手にスマホ。
片手にコーヒー。
朝から情報量が多い。
「朝から藤谷いじってんのか」
「いじっていません。お礼を言っていただけです」
「藤谷の顔が、もう処理落ちしてるぞ」
「感謝が伝わったんですね」
「伝わり方が特殊なんだよ」
兄妹で会話するな。
俺を挟んで。
「藤谷さんは、反応が誠実です」
「褒められてるんですか、それ」
「もちろん」
もちろん、の間が怖い。
朝食は、豪華だった。
帰る日の朝なのに、焼きたてのパンと、卵料理と、サラダと、スープと、果物が並んでいた。
ここはホテルか。
いや、別荘だ。
朝倉家の。
管理人さんが、美沙さんに向かってにこにこしていた。
「美沙さま、またぜひいらしてくださいね」
「ありがとうございます。すごく楽しかったです」
「一志さまも」
「お世話になりました」
坂本さんが、きちんと頭を下げた。
仕事中の坂本さんとは違う。
でも、礼儀正しさだけは変わらない。
その横で仁くんが、管理人さんに小さく頭を下げていた。
「仁さまも、また」
「はい。姉さんが来るなら」
基準が姉さん。
ぶれない。
梢は少し緊張しながらも、丁寧にお礼を言っていた。
「お世話になりました。あの、ごはんも全部おいしかったです」
「まあ、嬉しい」
管理人さんが微笑む。
仁くんが隣で、少しだけ梢のほうを見た。
何だ。
何だその、微妙な視線。
兄として拾うべきか。
拾わないべきか。
俺が見ていると、高岡が横から小さく言った。
「藤谷」
「言うな」
「まだ何も」
「顔が言ってる」
「学習してるな」
「だから坂本さんみたいに言うな」
朝食の後は、荷物の整理になった。
帰る。
帰る準備だ。
俺はその事実を噛みしめながら、自分の荷物をまとめた。
部屋の隅に置いたバッグ。
洗面道具。
充電器。
着替え。
忘れ物がないか確認する。
忘れてはいけない。
ここに忘れ物をしたら、また来る理由ができてしまう。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「すごく真剣に忘れ物確認してる」
「当然だろ」
「帰る意思が強い」
「強いよ」
「でも、悪くない」
「帰宅の意思に評価をつけるな」
リビングへ戻ると、坂本さんが美沙さんの荷物を当然のように持っていた。
「カズくん、私、自分で持てるよ」
「階段がある」
「もう下りてるよ」
「外まで段差がある」
「ふふ。ありがとう」
美沙さんが笑った。
坂本さんの表情が、少しだけ緩む。
段差に負けた。
俺の職場認識が、別荘の玄関前の小さな段差に負けた。
「坂本さん」
仁くんが静かに言った。
「何だ」
「姉さんの荷物、持ちすぎじゃないですか」
「適量だ」
「適量の基準は」
「ミサが楽かどうか」
「……それは否定しにくいので腹が立ちます」
「否定できないなら黙っていろ」
「言う権利はあります」
「ない」
「あります」
朝からやるな。
だが、美沙さんが「ふふ」と笑ったので、二人ともそれ以上は言わなかった。
強い。
美沙さんが一番強い。
玄関の外には、三台の車が並んでいた。
来た時と同じだ。
一台目、坂本さんの車。
二台目、朝倉さんの車。
三台目、高岡の車。
俺は高岡の車を見る。
帰れる。
いつものメンバーで帰れる。
高岡が運転。
俺が助手席。
柏木くんが後部座席。
たぶん、帰りは静かだ。
柏木くんは疲れて寝るかもしれない。
高岡は淡々と運転する。
俺は窓の外を見ながら、この二泊三日を反省する。
完璧だ。
ようやく平穏が戻ってくる。
「じゃ、班分け確認するぞ」
朝倉さんが言った。
確認。
嫌な予感がした。
朝倉さんが確認と言う時は、だいたい既に何かが決まっている。
「坂本の車は、坂本、美沙ちゃん、仁、梢ちゃん」
「え」
俺は思わず声を出した。
梢。
坂本さんの車に。
仁くんと。
帰りは余韻がある。
余韻とは危険物だ。
「何だ、藤谷」
朝倉さんが笑う。
「いえ、別に」
「妹心配か」
「普通に心配です」
「正直でよろしい」
よろしい、ではない。
梢は少しだけ俺を見た。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ」
大丈夫。
その言葉が一番大丈夫じゃない時に出るやつだ。
仁くんが、俺の視線に気づいて言った。
「藤谷さん、梢さんには失礼のないようにします」
「そこは信用してるけど」
「けど?」
「いや、何でもない」
姉さんのことになると温度が下がる仁くんが、妹に対してどういう温度になるのか、兄としては気になる。
でも、ここで何か言うと、もっと面倒なことになる。
俺は黙った。
「で、俺の車は俺と柏木」
朝倉さんが続けた。
「はい?」
柏木くんが、きれいに反応した。
珍しい。
柏木くんが、坂本さん相手ではなく、朝倉さん相手に分かりやすく警戒している。
「理由を確認してもいいですか」
「美波が高岡の車に乗るからだ」
「それは、僕が移動する理由として成立していますか」
「してるしてる」
「していないと思います」
柏木くんが、ほんの少し後ろに下がった。
分かる。
朝倉さんの車は、情報量が多そうだ。
低い声。
雑な話題。
距離の近さ。
突然の唐揚げ。
突然の昔話。
突然の爆弾発言。
柏木くんが苦手な要素の詰め合わせだ。
「朝倉さんの車は、情報量が多いので」
「慣れろ」
「慣れる種類のものですか」
「乗れば分かる」
「乗る前に分かりたいです」
「乗ったあとでも間に合う」
「間に合うとは」
柏木くんの処理が、目に見えて遅れている。
初めて見た。
柏木くんが、坂本さんの細い目ではなく、朝倉さんの笑顔に押されている。
朝倉さんは、柏木くんの肩に腕を回した。
「よし、行くぞ」
「これは、任意同行ですか」
「夏合宿だ」
「回答になっていません」
「細かいこと気にすんな」
「そこが苦手です」
「知ってる」
「知っていて、なぜ」
「面白いから」
「朝倉さん」
柏木くんの声が、いつもより少しだけ硬かった。
「はい」
「僕は、面白いものではありません」
「知ってる」
「では」
「でも、面白い」
「矛盾しています」
「人生だいたい矛盾だ」
「車内でその話が続くなら、辞退したいです」
「却下」
強制連行だった。
完全に強制連行だった。
俺は、柏木くんに心の中で手を合わせた。
すまない。
でも、正直少し助かった。
高岡の車から柏木くんがいなくなる。
つまり、後部座席が空く。
後部座席が。
空く。
俺はそこで、嫌な予感に追いついた。
「では、藤谷さん」
美波さんが、きれいに微笑んだ。
「私、同じ車で帰りますね」
「なぜ」
即答だった。
もう少し丁寧に言うべきだったかもしれない。
でも、口が勝手に出た。
「一昨日、助けていただいたので」
「それは一昨日の話ですよね」
「はい」
「今日はもう、帰るだけですよね」
「はい」
「海も入りませんよね」
「入りません」
「では、なぜ」
「経過観察です」
「誰のですか」
「藤谷さんの」
「俺?」
「はい」
俺?
俺が経過観察される側?
「美波さん、流されかけたのはあなたですよね」
「はい」
「助けたのは俺ですよね」
「はい」
「では、経過観察されるのは美波さんでは」
「私は元気です」
「でしょうね」
「でも藤谷さんは、あのあとずっと処理落ちしているように見えます」
「してません」
している。
自覚はある。
でも、認めたら負けだ。
「藤谷」
高岡が運転席側から言った。
「何だ」
「経過観察、必要そうだな」
「お前は俺側だろ」
「俺は運転手側」
「立場で逃げるな」
美波さんは、当たり前のように高岡の車の後部座席へ向かった。
自然だった。
あまりにも自然だった。
まるで最初からそういう予定だったみたいに。
上品な顔で場を勝手に動かす人。
説明を聞いたことはあった。
今、目の前で起きている。
朝倉美波。
朝倉家の妹。
綺麗な顔で、配置を変える人。
「美波」
朝倉さんが、柏木くんを片腕で確保したまま言った。
「藤谷いじめんなよ」
「いじめていません」
「逃げ道塞いでるだけか」
「兄さんほど雑ではありません」
「俺より丁寧なだけで、やってることは似てるぞ」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
兄妹で確認するな。
俺の逃げ道を。
坂本さんが、荷物をトランクに入れながら静かに言った。
「藤谷」
「はい」
「安全運転で帰れ」
「運転するのは高岡です」
「なら、高岡。安全運転で」
「はい」
「藤谷は、落ち着いて乗れ」
「俺だけ精神面の指示ですか」
「必要だろう」
否定できない。
悔しい。
美沙さんが、少し心配そうに俺を見た。
「藤谷くん、大丈夫?」
「大丈夫です」
「無理しなくていいからね」
「ありがとうございます」
美沙さんの優しさが染みる。
だがその横で、坂本さんの目が一瞬だけ細くなった。
怖いほうではない。
でも、何かを見ている目だった。
たぶん、美波さんと俺の配置を。
仕事のリスク管理みたいに見ている。
やめてほしい。
俺は案件ではない。
「梢」
俺は最後に妹を呼んだ。
「何、お兄ちゃん」
「何かあったら連絡しろよ」
「うん」
梢は少し笑った。
その笑い方が、子どもの頃より少し大人だった。
兄として、少しだけ胸が変な感じになった。
仁くんが、横から真面目な顔で言った。
「藤谷さん」
「はい」
「梢さんには、きちんと対応します」
「だからそこは信用してる」
「では、なぜそんな顔を」
「兄だからです」
「なるほど」
仁くんは、少しだけ考えてからうなずいた。
「姉がいるので、少し分かります」
「方向性は違うけどな」
「違いません」
「違うと思う」
「違いません」
やめよう。
ここで争っても何も生まれない。
坂本さんが運転席に乗り、美沙さんが助手席に乗る。
仁くんと梢が後部座席に乗る。
坂本さんの車内、静かに別の物語が始まりそうだった。
朝倉さんの車では、柏木くんが後部座席に乗せられていた。
「シートベルトしたか」
「しました」
「よし」
「朝倉さん」
「何だ」
「車内での会話量は、事前に調整できますか」
「できない」
「では、休憩はありますか」
「必要なら取る」
「情報の休憩です」
「何だそれ」
「僕が聞きたいです」
柏木くん。
がんばれ。
俺は本気でそう思った。
そして、高岡の車。
高岡が運転席。
俺が助手席。
美波さんが後部座席。
この配置は、一見普通だ。
普通に見える。
だが、後ろから視線を感じる。
ミラー越しに、目が合う。
美波さんが微笑む。
俺は前を向いた。
「藤谷さん」
「はい」
「帰り道、眠くなったら寝てくださいね」
「ありがとうございます」
「でも、寝顔は見ます」
「寝ません」
即答だった。
高岡がハンドルに手を置いたまま、少しだけ肩を揺らした。
「笑うな」
「笑ってない」
「肩が笑ってる」
「学習してるな」
「坂本さんみたいに言うな」
エンジンがかかった。
三台の車が、順番に別荘を出る。
門のところで、管理人さんたちが手を振っていた。
「またいらしてくださいませ、おぼっちゃま」
「だからその呼び方やめろって」
朝倉さんの声が聞こえた。
でも、どこか嬉しそうだった。
美沙さんが窓を開けて、手を振っている。
坂本さんは前を見ているけれど、口元が少しだけ柔らかい。
仁くんと梢も、後ろから小さく頭を下げていた。
俺は、その光景を見ながら思った。
終わる。
夏合宿が、終わる。
やっと。
本当に。
「藤谷さん」
後ろから、美波さんの声。
「はい」
「また来年も、来られるといいですね」
俺は固まった。
来年。
その言葉は、昨日の夜、美沙さんと坂本さんの間にも出ていた。
来年も。
当たり前みたいに。
普通に。
続くものみたいに。
「……来年」
「はい」
美波さんは、にこりと笑った。
「今度は、流されないようにします」
「それは本当にお願いします」
「でも、藤谷さんがいるなら安心ですね」
「安心材料にしないでください」
「では、信頼材料にします」
「言い換えただけでは」
「少し違います」
高岡が前を見たまま言った。
「悪くない違いだな」
「ショウ」
「何」
「お前、今日ずっと敵だな」
「運転手側だから」
「その立場、便利すぎるだろ」
車は海沿いの道を走り出した。
窓の外に、昨日花火をした浜辺が見えた。
プライベートビーチ。
朝倉家の別荘。
おぼっちゃま。
海。
BBQ。
線香花火。
ヘビ花火。
そして、美波さん。
梢と仁くん。
朝倉さんと柏木くん。
坂本さんと美沙さん。
高岡と俺。
俺は、助手席で深く息を吐いた。
夏合宿は終わる。
それは間違いない。
二泊三日は、ちゃんと終わる。
でも。
後部座席から、また視線を感じた。
「藤谷さん」
「はい」
「今、終わったと思いました?」
「思ってません」
「思いましたね」
「思ってません」
「顔が帰宅後の油断をしていました」
「俺の顔を読む人が増えてる」
高岡が静かに言った。
「藤谷、共有設定が広がってるな」
「俺の顔はクラウドじゃない」
美波さんが、後ろで楽しそうに笑った。
その笑い声は、朝の海風に混じって、妙に明るかった。
俺は前を向いた。
道は続いている。
帰り道だ。
帰り道のはずだ。
なのに、なぜだろう。
何かが終わる感じが、まったくしない。
夏合宿は、終わる。
でも、朝倉家と坂本さん周辺に巻き込まれていく俺の人生は。
たぶん。
まったく。
終ワラナイナ?




