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朝倉さんは安全管理者もできる

夏合宿二日目の朝。


 俺は、鳥の声で目を覚ました。


 いや、正確には鳥の声ではない。


「お兄ちゃん、朝だよ」


 妹の声だった。


 俺は一瞬、実家にいるのかと思った。


 違う。


 ここは朝倉家の海辺の別荘。


 昨日、管理人さんが朝倉さんを「おぼっちゃま」と呼び、朝倉さんの妹が登場し、海で流されかけ、その妹を俺が助け、その妹に「好きかもしれない」と言われ、夜には坂本さんが美沙さんに「全部だ」と言った、あの別荘である。


 情報量が多い。


 寝たのに減っていない。


「お兄ちゃん?」


「あ、起きた。起きたから」


 ベッドから起き上がると、梢が扉のところから少しだけ顔を出していた。


 昨日より、少し表情が柔らかい。


 よかった。


 人見知りの妹を、朝倉さんの雑な夏合宿に巻き込まれた兄としては、それだけで少し安心する。


「眠れたか?」


「うん。ちょっと緊張したけど、ベッドふかふかだった」


「それはよかった」


「あと、朝ごはん、すごいよ」


「すごい?」


「旅館みたい」


 旅館。


 別荘なのに。


 朝倉家、また何かしている。


 嫌な予感を抱えたままリビングへ降りると、俺は入口で止まった。


 広いダイニングテーブルの上に、朝食が並んでいた。


 焼き魚。


 卵焼き。


 味噌汁。


 サラダ。


 フルーツ。


 パンもある。


 和食なのか洋食なのか分からないが、どちらにも対応している。


 ホテルか。


 いや、別荘だ。


 管理人さん付きの別荘だ。


 階級が違う。


「おはよう、藤谷」


 高岡がすでに席について、何事もない顔で味噌汁を飲んでいた。


「お前、順応早いな」


「朝食がうまい」


「説明が強い」


「でも、悪くない」


「朝から坂本さん風に言うな」


 高岡は涼しい顔で箸を置いた。


 こいつ、確実に楽しんでいる。


「おはようございます、藤谷さん」


 柏木くんもいた。


 姿勢よく座っている。


 目の前の皿をじっと見ている。


「柏木くん、どうしたの」


「これは朝食ですか、それとも複数文化対応型の栄養摂取イベントですか」


「朝食だよ」


「了解しました」


 了解するな。


 普通に食べろ。


「あ、藤谷くん、おはよう」


 キッチンのほうから美沙さんが出てきた。


 朝から柔らかい。


 白いブラウスに薄いカーディガンを羽織っていて、別荘の朝の光が似合いすぎている。


 その後ろから坂本さんが出てきた。


 何も言わずに、美沙さんのカーディガンの袖口を直した。


 自然だった。


 自然すぎた。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


「カズくん、ありがとう」


「ああ」


 声が柔らかい。


 朝の坂本さん、職場の坂本さんと別人すぎる。


 会社では、数字のズレを一ミリ単位で詰める人が、恋人の袖口を直している。


 人間には多面性がある。


 ありすぎる。


「坂本さん」


 俺は反射的に背筋を伸ばした。


「藤谷」


「はい」


「顔色は悪くないな」


「え」


「昨日、判断力を使っただろう。眠れたか」


「あ、はい。大丈夫です」


「ならいい」


 それだけ言って、坂本さんは席についた。


 怖い。


 でも、たぶん気遣われた。


 怖い気遣い。


 いや、正しい気遣い。


 処理が難しい。


「ミサ」


「なあに?」


「座れ。先に食べろ」


「うん。でも、カズくんもちゃんと食べてね」


「食べる」


「お魚だけじゃなくて、お味噌汁も」


「分かってる」


「卵焼きも少しね」


「……分かってる」


 坂本さんがちゃんと朝食を食べるように指導されている。


 職場で全員を静かに追い詰める人が、恋人に味噌汁と卵焼きを促されている。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


「藤谷」


 高岡が小さく言った。


「再起動しろ」


「朝から無理だ」


 そのとき、キッチンの奥から仁くんが出てきた。


 手に小鉢を持っている。


「姉さん、これ、冷蔵庫にあったので和えておきました」


「ありがとう、仁くん。助かる」


「昨日、海のあとだったので、少し塩分あったほうがいいと思って」


 自然。


 仁くんが自然に料理をしている。


 手つきが慣れている。


 しかも美沙さんがそれを当たり前みたいに受け取っている。


 昨日の夜にも見たが、朝に見るとさらに強い。


「白石さん」


 梢が、少し緊張した声で言った。


「あの、私も何かお手伝いできますか?」


 仁くんが梢を見た。


 それから、少しだけ表情をやわらげた。


「ありがとうございます。じゃあ、この小皿を並べてもらえますか」


「はい」


「重ねると滑るので、一枚ずつで大丈夫です」


「分かりました」


 丁寧。


 仁くんが丁寧だ。


 俺の妹に。


 年下なのに。


 大学生なのに。


 梢に「白石さん」と呼ばれている。


 距離が丁寧に近い。


 何だこの感じ。


「白石くん」


「はい」


「朝から俺の妹に自然に優しいな」


 仁くんが俺を見る。


 昨日より、少し慣れた目だ。


「食器を並べてもらっているだけです」


「それはそうなんだけど」


「何か問題がありますか」


「問題というか、兄として観測している」


「では、観測だけにしてください」


「返しが強い」


 梢が小皿を持ったまま、少し困ったように笑った。


「お兄ちゃん、白石さん、普通に親切だよ」


「普通に親切なのが問題なんだ」


「どういう意味?」


「兄の処理能力の問題」


「お兄ちゃん、昨日からずっと処理能力の話してる」


 妹に言われた。


 俺は朝から妹に正論で刺された。


 高岡が隣で味噌汁を飲みながら言った。


「妹さん、的確だな」


「高岡、うるさい」


「でも、悪くない」


「だから坂本さん風に言うな」


「学習してる」


「学習するな」


 そのタイミングで、階段のほうから足音がした。


 朝倉美波さんだった。


 白いシャツに淡い色のスカート。


 昨日、海で流されかけた人とは思えないほど、朝から整っている。


 お嬢様だ。


 ただし中身は朝倉家。


 忘れるな、俺。


「おはようございます」


 美波さんが、上品に微笑んだ。


 全員が挨拶を返す。


 美波さんは美沙さんに柔らかく頭を下げ、それから梢に「よく眠れた?」と声をかけ、最後に俺を見た。


 来た。


「藤谷さん」


「はい」


「おはよう」


「おはようございます」


「今日は、逃げ道を意識して立つわ」


 実装が早い。


 昨日の夜の会話が、翌朝にはもう運用されている。


 朝倉家、PDCAが速い。


「朝イチで昨日の会話を実装しないでください」


「早いほうがいいと思って」


「早すぎると処理が追いつかないんです」


「難しいわね」


「朝倉家の距離感調整、初期設定が強すぎるんです」


 美波さんは少し考えて、俺から半歩離れた。


 本当に離れた。


 俺は一瞬、言葉を失った。


 ちゃんと聞いている。


 この人、ちゃんと聞いている。


 朝倉家なのに。


 いや、朝倉家に失礼か。


 でも朝倉家だぞ。


「これくらい?」


「……大丈夫です」


「よかった」


 美波さんが微笑む。


 顔がいい。


 しかも、ちゃんと距離を取れる。


 困る。


 非常に困る。


 俺がひそかに処理を落としていると、リビングの扉が雑に開いた。


「おはよーさん」


 朝倉さんだった。


 低い声。


 雑な入り方。


 寝癖はないのに、なぜか全部が雑に見える。


 朝倉晴臣という人間の情報量が、朝から多い。


「晴臣さん、おはよう」


「おー、美沙ちゃんおはよ」


「兄さん、扉は静かに開けて」


「開いたんだからいいだろ」


「よくないわ」


「朝から妹が厳しい」


「昨日の反省が足りないのでは?」


 美波さんがさらっと言った。


 空気が一瞬、止まった。


 昨日の反省。


 その言葉で、全員がほんの少し思い出した。


 でも美波さんの声は、重くなかった。


 自分でその話題を出せるくらいには、戻ってきている。


 朝倉さんが一度だけ美波さんを見た。


 低い声で言う。


「反省してるから、今日は海入んねえぞ」


 俺は箸を落としかけた。


「え」


 朝倉さんは椅子にどかっと座った。


「今日は泳がねえ。海には入らねえ。文句ある奴は俺に言え」


 藤谷直樹、停止。


 朝倉さんが。


 安全管理を。


「朝倉さんが……安全管理を……?」


「なんだその顔」


「いえ、朝倉さんにも安全管理という概念があったんだなと」


「あるわ」


「失礼だぞ、藤谷」


 高岡が淡々と言う。


「お前も驚いてただろ」


「驚いた。でも、悪くない」


「感想の型を固定するな」


 朝倉さんが味噌汁を手に取る。


「妹が流されかけた翌日に泳がすほど雑じゃねえよ」


 その言い方は雑だった。


 でも、中身はちゃんとしていた。


 昨日、海で美波さんから目を離さなかった朝倉さんを思い出す。


 からかって、雑で、低い声で唐揚げを出してくる人だけど。


 妹のことを、ちゃんと見ている。


 俺が一瞬黙ると、美波さんが小さく笑った。


「兄さん、たまに兄らしいことを言うのね」


「たまにって何だ」


「常には言わないという意味」


「意味は分かってる」


 朝倉さんは拗ねたように味噌汁を飲んだ。


 低い声で拗ねるな。


 妙にかわいいから。


 俺は気づきたくなかった。


「で、海入らねえから」


 朝倉さんが言った。


「今日はBBQだ」


 接続が分からない。


「だからの意味が分からないんですが」


「海に入らねえなら、肉を焼くだろ」


「その常識、どこの文化圏ですか」


「朝倉圏だな」


 高岡が言った。


「国みたいに言うな」


「入国審査が厳しそう」


「お前も乗るな」


 柏木くんが真面目に手を挙げた。


「質問があります」


「おう、柏木」


「BBQは業務上必要ですか」


「必要ねえよ」


「では、参加は任意ですか」


「任意だ」


「美沙さんは参加されますか」


「するぞ」


「参加します」


 即答だった。


 早い。


 美沙さんが苦笑する。


「柏木くん、無理しなくてもいいのよ?」


「無理ではありません。美沙さんはもう知らない方ではありませんので」


 出た。


 柏木くんの基準。


 坂本さんと仁くんが同時に柏木くんを見た。


 静かに。


 朝なのに温度が下がる。


 味噌汁が冷える。


「柏木」


 坂本さんの声が低い。


「はい」


「肉は焼けるまで食べるな」


「承知しました。生焼けは危険です」


「そういう話ではない」


「え?」


「いや、合ってはいる」


 坂本さんが少しだけ眉間を押さえた。


 柏木くんは強い。


 坂本さんの圧を、今日も危険管理情報として受け取っている。


 怖さの翻訳機能がない。


「BBQなら、焼きおにぎり作ろうかな」


 美沙さんがぽつりと言った。


 坂本さんが即座に反応した。


「ミサ」


「なあに?」


「無理はするな」


「大丈夫。みんなで食べる分、少しだけね」


「……俺の分は」


 出た。


 朝から独占欲の種火。


 BBQ前なのにもう炭が入った。


「もちろんあるよ、カズくんの分」


「ならいい」


 ならいい、じゃない。


 藤谷直樹、再停止。


「藤谷」


 高岡が横から言った。


「顔が焼けてるぞ」


「まだBBQ前だ」


「いい火加減だな」


「俺を焼くな」


 美沙さんが笑った。


 坂本さんの目元が少しだけやわらかくなる。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


 そのとき、管理人さんがダイニングの入口に現れた。


「晴臣おぼっちゃま」


「やめろ」


 朝倉さんが即座に言った。


 もう反射だ。


「本日のバーベキューの食材ですが、いつものように手配しております」


「いつものように?」


 俺は思わず聞き返した。


 高岡も少しだけ眉を上げた。


 柏木くんはメモを取りそうな顔をした。


「お肉は人数分より少し多めに。海鮮は午前中に届く予定です。お野菜は地元のものを中心にご用意しております」


 人数分より少し多め。


 朝倉家の「少し」は信用してはいけない。


「あと、仁さまがお好きな鶏肉も」


「僕は好きというほどでは」


 仁くんが顔を上げた。


 朝倉さんがにやっと笑う。


「唐揚げ用だろ」


「一個だけです」


「まだ言ってる」


「一個だけです」


「管理人さんにまで把握されてるぞ」


 俺が言うと、仁くんが少しだけ気まずそうな顔をした。


「毎年来ていれば、好みくらい把握されます」


「唐揚げの好みを?」


「藤谷さん、唐揚げは重要です」


「急に真顔になるな」


 朝倉さんが笑った。


「仁は唐揚げでだいたい機嫌直るからな」


「直りません」


「じゃあ昨日の二個目は?」


「姉さんがちゃんと食べてと言ったので」


「無敵だな、お前」


 美沙さんがくすくす笑っている。


 仁くんは姉に笑われると弱い。


 目つきの鋭さが少し消える。


 梢がそれを見て、小さく笑った。


「白石さん、唐揚げ好きなんですね」


「好きというか……普通です」


「普通なんですね」


「普通です」


「でも、管理人さんが覚えてるくらい」


「……普通より少しです」


 仁くんが折れた。


 梢が笑った。


 俺はそれを見た。


 見てしまった。


 待て。


 俺の妹が、年下の大学生男子と朝から自然に笑っている。


 しかも相手は、姉さんのことになると目つきが鋭くなる白石仁。


 危険か。


 危険ではない。


 でも兄としては危険。


 判断が難しい。


「藤谷」


 高岡が小さく言う。


「兄の顔になってる」


「実況するな」


「白石くんも昨日、同じ顔してた」


「比較するな」


「兄と弟は近いな」


「やめろ」


 近いかもしれない。


 それが嫌だ。


 でも少し分かる。


 俺の処理は朝から忙しい。


「晴臣さん」


 美沙さんが言った。


「食材、たくさんあるなら、午前中に足りないものだけ買いに行く感じ?」


「そう。飲み物とか、好きな菓子とか、花火とか」


「花火?」


 梢が少し顔を上げた。


 朝倉さんがにやっとする。


「夜は花火だ。海入らねえ代わりに、浜でやる」


「浜には行くんですか」


 俺は確認した。


「行く。入らねえだけだ」


「なるほど」


「安全管理者だからな」


 朝倉さんが低い声で言った。


 自分で言った。


 タイトルを自分で回収するな。


「朝倉さんが自分で安全管理者って言うと、急に不安になりますね」


「なんでだよ」


「語感が朝倉さんに合わないので」


「失礼だな、お前」


「でも正しい」


 坂本さんが静かに言った。


「坂本まで言うな」


「安全管理は、宣言しただけでは足りない。運用が必要だ」


 出た。


 仕事の坂本さん。


 朝食の席に、会議室の空気が一瞬流れた。


「泳がないと決めたなら、浜へ行く時間、人数確認、飲酒の有無、花火の後始末まで決めておけ」


「朝から詰めるな」


「詰めていない。確認だ」


「出たよ、確認」


「正しい確認です」


 柏木くんが言った。


「花火には火気管理が必要です」


「柏木まで真面目になるな」


「安全管理者は複数いるほうが望ましいです」


「じゃあお前も安全管理者な」


「承知しました」


「承知するな。冗談だ」


「冗談でしたか」


 柏木くんは少し困った顔をした。


 美波さんがそれを見て、口元に手を当てて笑う。


「柏木さん、本当に面白いわね」


「面白がられていることは理解していますが、対応方法は未設定です」


「そのままでいいわ」


「そのまま」


「ええ。無理に対応しようとすると、たぶん兄さんみたいになるから」


「それは困ります」


「おい」


 朝倉さんが低く突っ込んだ。


 柏木くんは真顔だった。


「朝倉さんは情報量が多いため、現時点では再現困難です」


「再現しなくていい」


「はい」


 美波さんが楽しそうにしている。


 柏木くんは観察対象として完全に気に入られている。


 恋愛対象ではない。


 それは分かる。


 でも、いじり対象として気に入られるのも大変だ。


 柏木くん、強く生きろ。


「じゃあ、買い出し班分けるぞ」


 朝倉さんが言った。


 俺は嫌な予感がした。


 こういう時、朝倉さんは必ず何かを雑に決める。


「まず、坂本と美沙ちゃん」


「え」


 俺は思わず声を出した。


 そこはセットなのか。


 いや、自然か。


 むしろ分けたら坂本さんの温度が下がるかもしれない。


「俺と柏木」


「なぜですか」


 柏木くんが即座に聞いた。


「お前が逃げそうだから」


「逃げる必要はありますか」


「あるかもしれねえだろ」


「美沙さんは別班ですか」


「別班だ」


「では、参加理由が一部減少しました」


「減少すんな」


 朝倉さんが笑う。


「でも俺と来い。面白えから」


「朝倉さんが面白がる場合、僕に負荷がかかる傾向があります」


「分かってんじゃねえか」


「学習しました」


 学習するな。


 そこは逃げろ。


「仁と梢ちゃん」


「待て」


 俺は立ち上がりかけた。


 朝倉さんがにやっと見た。


「何だよ、兄貴」


「その組み合わせは何ですか」


「買い出しだよ」


「俺の妹と白石くんが二人で?」


「近くの店だぞ。あと管理人さんの車出る」


「そういう問題では」


「藤谷さん」


 仁くんが静かに言った。


「僕は買い出しに行くだけです」


「分かってる」


「梢さんに変なことはしません」


「それも分かってる」


「では何が問題ですか」


「兄の心が問題」


「それは僕には対応できません」


「正しい」


 高岡が言った。


「高岡、黙れ」


 梢が小さく俺の袖を引いた。


「お兄ちゃん、大丈夫だよ。買い出しだけだよ」


「梢」


「それに、白石さん、料理できるから食材選ぶの上手そう」


「そこを評価するな」


「だって大事だよ」


 大事だ。


 生活力は大事だ。


 妹が正しい。


 兄はつらい。


「で、藤谷と美波と高岡」


 朝倉さんが続けた。


「待て」


 本日二度目の待て。


「なぜ俺だけ逃げ道が高岡なんですか」


「逃げ道あるじゃねえか」


「高岡は火を足す側です」


「火力調整なら得意だ」


 高岡が平然と言った。


「BBQ前にお前が火力の話をするな」


 美波さんが微笑む。


「藤谷さん」


「はい」


「今日は逃げ道を配置するって言ったから、高岡さんが一緒なのはいいと思うの」


「高岡は逃げ道ではなく実況席です」


「じゃあ、実況席つきの逃げ道ね」


「余計に逃げづらい」


「難しいわね」


 美波さんは本当に考えていた。


 半歩の距離を保ったまま、俺を見ている。


 昨日より近すぎない。


 でも、ちゃんと見ている。


 困る。


 ちゃんと考えてくれているのが、困る。


「藤谷」


 高岡が言った。


「配置としては悪くない」


「お前まで坂本さん風に安全確認するな」


「逃げ道はある」


「どこに」


「俺の後ろ」


「お前の後ろは火元だろ」


「いい焼き加減になる」


「だから俺を焼くな」


 朝倉さんが低く笑った。


「決まりだな」


「決めるの早い」


「買い出しなんか勢いだろ」


「安全管理者とは」


「海と火はちゃんと見る。買い出しは勢いでいい」


「基準が雑」


「雑だが正しい」


 坂本さんが言った。


 朝倉さんが一瞬止まった。


「坂本」


「何だ」


「お前に言われると、ちょっと腹立つな」


「事実だ」


「そういうとこだぞ」


 美沙さんが笑っていた。


「晴臣さん、ちゃんと安全管理してくれてありがとう」


 朝倉さんが少しだけ目をそらした。


「……美沙ちゃんに言われると、俺がいい奴みてえだな」


「いい人だよ」


「やめろ、照れる」


 低い声で照れるな。


 朝倉さん、本当に面倒くさいのに愛嬌がある。


 藤谷としては、そこも処理が難しい。


「兄さんは、褒められると弱いの」


 美波さんが言った。


「お前は黙ってろ」


「あと、拗ねると声が低くなる」


「黙れ」


「でも、分かりやすい」


「妹が容赦ねえ」


 朝倉家だった。


 朝からしっかり朝倉家だった。


 朝食が終わるころには、買い出し班も決まり、BBQの食材も「いつものように」手配され、海に入らないことも正式に決定していた。


 安全管理者・朝倉晴臣。


 字面が強い。


 でも、今日の朝倉さんは確かにそうだった。


 雑で、声が低くて、扉の開け方も雑で、班分けも雑で。


 でも、昨日妹が怖い思いをしたことを、ちゃんと翌日の予定に反映している。


 海には入らない。


 でも、夏を終わらせない。


 だからBBQ。


 だから花火。


 雑だけど、たぶん優しい。


 俺がそんなことを思っていると、朝倉さんが車の鍵を指で回しながら言った。


「よし、行くぞ。買い出しだ」


 美波さんが俺の隣に来た。


 半歩分、離れて。


「藤谷さん」


「はい」


「この距離なら、大丈夫?」


 俺は一瞬、返事に詰まった。


 ちゃんと聞いてくる。


 ちゃんと待っている。


 朝倉家なのに。


 いや、朝倉家に失礼か。


 でも朝倉家だぞ。


「……大丈夫です」


「よかった」


 美波さんが笑った。


 顔がいい。


 距離も適切。


 逃げ道もある。


 処理落ちする理由が、減るどころか増えた。


「藤谷」


 高岡が横に並んだ。


「何だ」


「朝から忙しいな」


「分かってるなら助けろ」


「助けてるだろ。逃げ道として」


「お前は実況席だ」


「兼任だな」


「兼任するな」


 玄関へ向かう途中、梢が仁くんに小さく頭を下げていた。


「白石さん、よろしくお願いします」


「こちらこそ。重いものは僕が持ちます」


「ありがとうございます」


「待て」


 俺は反射で振り返った。


 仁くんが冷静に俺を見る。


「買い出しです」


「分かってる」


「荷物を持つだけです」


「分かってる」


「では」


「兄の心が」


「対応できません」


 昨日も聞いた。


 この大学生、なかなか強い。


 梢が困ったように笑った。


「お兄ちゃん、行ってくるね」


「……気をつけてな」


「うん」


 兄として、それしか言えなかった。


 高岡が隣で言った。


「藤谷、兄として悪くなかった」


「だから坂本さん風に言うな」


「でも、悪くない」


「二回言うな」


 外に出ると、海風が吹いていた。


 昨日より穏やかだった。


 遠くに見える海は、何もなかったように光っている。


 でも今日は入らない。


 入らないで、肉を焼く。


 安全管理者・朝倉さんの判断により。


 夏合宿二日目。


 海には入らない。


 だが、処理落ちには入る。


 俺はもう分かっていた。


 この合宿、泳がなくても溺れる。

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