夏合宿、夜モタノシイナ?
夕食が終わっても、別荘の夜は終わらなかった。
普通、海で遊んで、流されかけた人がいて、救助して、夕食で唐揚げを食べたら、もう解散でいいと思う。
風呂に入って、寝る。
人間には休息が必要だ。
特に俺には必要だ。
今日だけで、朝倉家、朝倉家の別荘、朝倉家のおぼっちゃま、朝倉家の妹、海、救助、告白未満の何か、唐揚げ、坂本さんの「悪くはなかった」を浴びている。
情報量が多い。
多すぎる。
なのに。
「夜風、気持ちいいわね」
朝倉美波さんが、テラスの椅子に座って、上品に微笑んだ。
帰らない。
いや、ここが宿泊先だから帰るも何もないのだが、違う。
会話が帰らない。
場が終わらない。
俺の処理だけが先に終わっている。
「藤谷さん」
「はい」
呼ばれた。
俺は反射で返事をした。
隣で高岡が小さく笑った気配がした。
笑うな。
「今日は、本当にありがとう」
美波さんが、まっすぐに俺を見た。
夜のテラスは、昼間よりずっと静かだった。
遠くで波の音がする。
別荘の中からは、朝倉さんが何かを雑に動かしている音と、柏木くんの「それは何に分類されますか」という声が聞こえてくる。
分類するな。
「いえ。無事でよかったです」
俺はできるだけ普通に言った。
普通に。
普通とは何か。
今日の俺は海に入って朝倉さんの妹を助け、その直後にその朝倉さんの妹から「好きかもしれない」と言われている。
普通が分からない。
「私、泳げるつもりだったの」
「はい」
「だから、少し恥ずかしいわ」
美波さんは、そう言って視線を海のほうへ向けた。
その横顔は、昼間より少しだけ弱く見えた。
朝倉家なのに。
上品な顔で場を勝手に動かす人なのに。
さっき、海の中で俺の腕をつかんだ手は、震えていた。
「泳げる人ほど、戻れると思っちゃうので」
俺は昼間と同じことを、もう一度言った。
「美波さんが悪いというより、海がそういうものなんです」
「……そういう言い方をするのね」
「え?」
「責めないのに、甘やかしてもいない」
美波さんが俺を見る。
「そこが、いいと思ったの」
やめてほしい。
夜に。
海の音を背景に。
上品な顔で。
そういうことを言わないでほしい。
こっちは昼間からずっと処理落ちしている。
追加パッチを入れるな。
「美波さん」
「はい」
「俺、朝倉さんにも弱いんです」
美波さんが、少し目を瞬いた。
「兄に?」
「はい。情報量が多くて、距離が近くて、雑なので」
「それは正確ね」
「で、美波さんも朝倉家なので」
「ええ」
「朝倉家の圧を二方向から受けると、処理が落ちます」
隣で高岡が吹き出しそうになった。
耐えたらしい。
偉い。
いや、耐えるな。
笑うな。
美波さんは、しばらく俺を見ていた。
怒ったかもしれない、と思った。
でも、美波さんは怒らなかった。
「それは、嫌だった?」
声が少しだけ、静かになった。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
嫌。
嫌か。
嫌では、ない。
それが問題だ。
顔がいい。
声もいい。
上品で、頭の回転が速くて、ちゃんと怖かったことを怖かったと言える。
兄には容赦がないが、人の弱さを雑には扱わない。
そして、中身が朝倉さんだ。
最後だけ大問題である。
「嫌では、ないです」
俺は慎重に言った。
美波さんの目が、少しやわらかくなる。
「でも、逃げ道はください」
「逃げ道」
「はい」
「分かったわ。配置する」
「配置」
言葉が不穏だった。
「例えば、兄さんが右から来たら、私は左を空けるわ」
「それ、挟撃前提ですよね」
「兄さんが何も考えずに正面から来たら、私は斜め後ろに立つ」
「包囲網では?」
「でも逃げ道はあるわ」
「詰将棋の話をしてます?」
高岡が、今度こそ笑った。
「配慮が朝倉家仕様だな」
「高岡、助けろ」
「逃げ道は配置されてる」
「そういう問題じゃない」
「でも、悪くない」
「坂本さん風に言うな」
俺が睨むと、高岡は涼しい顔でお茶を飲んだ。
こいつ最近、俺の揺らし方を覚えてきている。
学習している。
でも悪くない。
いや、俺まで坂本さんみたいに言うな。
「逃げ道、考えてみるわ」
美波さんが言った。
その声は、さっきまでより少し真面目だった。
「私、面白いと思うと、つい近づきすぎるところがあるの」
「自覚はあるんですね」
「兄よりは」
「基準が低い」
「でも、藤谷さんが本当に困るなら、少し考える」
その言い方が、思ったよりまっすぐだった。
俺は返事に困った。
昼間、海の中で俺の声だけ聞こえたと言った人が、今度は俺の逃げ道を考えようとしている。
朝倉家なのに。
いや、朝倉家だからなのか。
雑だけど、悪意はない。
距離は近いけれど、相手を見ていないわけではない。
それが分かってしまうのが、困る。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
美波さんは、少しだけ笑った。
上品だった。
上品なのに、俺の処理能力を試してくる。
怖い。
顔がいい。
怖い。
「藤谷」
背後から低い声がした。
朝倉さんだった。
手に皿を持っている。
嫌な予感しかしない。
「唐揚げ、第二陣」
「なぜ第二陣があるんですか」
「感謝の表現は一回で終わらねえだろ」
「重い感謝を油で揚げないでください」
「食え」
雑。
圧。
朝倉家。
俺が皿を受け取ると、美波さんが兄を見た。
「兄さん、今、藤谷さんの逃げ道を考えていたところなの」
「あ?」
「兄さんが正面から来ると圧が強いから、少し斜めから来て」
「何の指導だよ」
「距離感」
「お前に言われたくねえ」
「私のほうが学習する気があるわ」
「妹に負けた」
朝倉さんが低くぼやいた。
ぼやいた声が妙にかわいかった。
なぜだ。
この人、声が低いのに拗ねると妙にかわいい。
嫌な発見をしてしまった。
「朝倉さん、唐揚げもらっていいですか」
そこへ仁くんが来た。
「お前また一個だけとか言うんだろ」
「一個だけです」
「もう定型文じゃねえか」
仁くんは当然のように一個取った。
そして、少し離れたソファのほうを見た。
梢が、クッションを抱えて座っていた。
夕食の時は笑っていたが、今は少し眠そうだ。
今日、初対面に近い人間が多すぎた。
その上、海での騒ぎもあった。
疲れないほうがおかしい。
「藤谷さん」
仁くんが俺を見た。
「梢さん、温かいもの飲めますか」
「え」
俺は一瞬、固まった。
俺の妹に。
温かいもの。
仁くんが。
「……飲めると思うけど」
「冷えているように見えます。海のあとですし」
「白石くん」
「はい」
「俺の妹に優しいな」
言ってから、自分でも声が少し硬くなったのが分かった。
兄の声だった。
いつもの処理落ち担当の俺ではない。
妹の前の俺。
仁くんは、少しだけ目を細めた。
坂本さんの細い目を怖がらない男の、目である。
「困っている人に普通にしただけです」
「普通か」
「普通です」
「俺には、やや警戒対象に見える」
「あなたに言われる筋合いはありません」
「ある。兄だから」
「では、少し分かります」
「え?」
仁くんは、目を逸らした。
その顔が、少しだけ気まずそうだった。
「姉が誰かに気遣われていたら、僕もたぶん警戒します」
不意打ちだった。
俺は何も言えなくなった。
姉。
妹。
守りたい人。
立場は違う。
でも、少しだけ分かってしまう。
仁くんが美沙さんのことになるとすぐ熱くなる理由も。
面倒だと思っていた。
怖いとも思っていた。
でも、今の一言は、妙に分かった。
「……じゃあ、頼む」
俺が言うと、仁くんは少し驚いた顔をした。
「いいんですか」
「変なもの入れないなら」
「入れません」
「姉さん成分とか」
「入れられるなら入れています」
「入れるな」
高岡が静かに言った。
「兄と弟の警戒心が、一瞬だけ握手したな」
「実況するな」
「でも、悪くない」
「だからその言い方やめろ」
仁くんはキッチンのほうへ行った。
手つきが妙に慣れている。
美沙さんがそれに気づいて、やわらかく笑った。
「仁くん、昔からそういうの上手なの」
「姉さん」
「ふふ。帰ってくると、よく温かいものを作ってくれたのよね」
仁くんの耳が少し赤くなった。
「昔の話だから」
「今も作ってるじゃない」
「それは、必要だから」
美沙さんは笑った。
その笑い方は、からかうというより、ちゃんと覚えている人の笑い方だった。
仁くんは、姉さんに守られてきた。
でも、仁くんも姉さんを守ろうとしてきた。
そういう温度が、何気ない会話の端に出る。
この姉弟は、やっぱり少し特別だ。
俺がそう思っていると、坂本さんが美沙さんの隣に立った。
「ミサ」
声が、柔らかい。
職場では絶対に聞かない温度。
俺の背筋が反射で伸びる。
なぜだ。
「夜風が冷えてきた」
「そう?」
美沙さんが首を傾げる。
坂本さんは何も言わず、自分の上着を美沙さんの肩にかけた。
自然だった。
あまりに自然だった。
手つきが慣れている。
声が柔らかい。
表情が、ほんの少しだけゆるい。
誰だ。
いや、坂本さんだ。
でも誰だ。
「ありがとう、カズくん」
「ああ」
美沙さんが袖をそっと握る。
坂本さんの目元が、さらに少し柔らかくなる。
藤谷直樹、停止。
「藤谷」
高岡が横から小さく言った。
「再起動しろ」
「無理だ」
「今日、何回目だ」
「数えるな」
俺がこめかみを押さえていると、朝倉さんがにやっとした。
嫌な顔だった。
「藤谷、お前さ」
「何ですか」
「美波の顔がいいから余計にビビってんだろ」
「言ってません!」
言ってない。
思っただけだ。
心の中は自由であるべきだ。
しかし朝倉さんは、そういう内側の嫌なところを雑に踏んでくる。
「顔から入ってもいいだろ。坂本だって最初は顔だぞ」
空気が止まった。
止まった。
夜風も、波音も、俺の心臓も、たぶん一瞬止まった。
仁くんが、ゆっくり振り返った。
「今、何て言いました?」
温度が下がった。
夏の夜なのに。
海辺なのに。
冷房より冷たい何かが来た。
坂本さんが、静かに朝倉さんを見た。
「朝倉」
「悪い。口が滑った」
「お前の場合、滑る前に投げている」
「正確だな」
「黙れ」
怖い。
でも声は低いだけで、怒鳴ってはいない。
それが怖い。
美沙さんが、少し驚いた顔で坂本さんを見上げた。
「カズくん、そうだったの?」
坂本さんは、一瞬黙った。
これは。
これは貴重な沈黙だ。
坂本さんが詰められている。
相手は美沙さん。
勝てない。
「……最初は、そうだ」
言った。
坂本さんが言った。
仁くんの目が鋭くなる。
「最初は?」
「仁」
坂本さんが仁くんを見る。
目が細い。
しかし仁くんは怖がらない。
この二人の間だけ、職場とは別の耐性バトルが発生している。
「今は違う」
「当然です」
「顔だけで一緒にいるほど、俺は暇じゃない」
「言い方」
俺は思わず小さく突っ込んだ。
坂本さんが俺を見た。
怖い。
今のは俺が悪い。
「ミサの考え方も、人への向き合い方も、無理をしすぎるところも、笑い方も、作るものも、俺を必要以上に怖がらないところも、全部だ」
静かだった。
静かなのに、言葉がまっすぐだった。
美沙さんが、ほんの少し頬を赤くする。
「……カズくん」
「ただ、最初に目を引かれたのは、顔だ」
「そこは言うんだね」
「嘘をつく理由がない」
仁くんが複雑な顔をしていた。
怒りたい。
でも、今の言葉には怒りきれない。
そんな顔だ。
分かる。
俺も処理しきれない。
坂本さんが恋人に対して静かに「全部だ」と言った。
全部。
職場で「この設計では三日後に破綻する」と言う人が。
全部。
誰だ。
いや、坂本さんだ。
でも誰だ。
「坂本さん」
柏木くんが、いつの間にかそこにいた。
「その場合、初期認識は外見情報で、その後に内面情報による評価更新が行われた、という理解で合っていますか」
「だいたい合っている」
「合ってるんですか」
俺は頭を抱えた。
柏木くんは真面目な顔で頷いた。
「恋愛感情には、継続的なデータ更新が必要なのですね」
「柏木くん」
美沙さんがやさしく笑った。
「たぶん、データだけじゃないと思うよ」
「データだけではない」
「うん。たとえば、一緒にいて安心するとか、その人が笑うと嬉しいとか」
柏木くんは少し考えた。
「美沙さんが笑うと、場の緊張が下がります」
「そう?」
「はい。観測済みです」
「ありがとう」
美沙さんが笑う。
柏木くんは満足そうだった。
坂本さんと仁くんが、同時に柏木くんを見た。
静かに。
とても静かに。
警戒している。
まただ。
またこの二人が同じ方向を見ている。
美沙さん関係だと、坂本さんと仁くんは敵なのか味方なのか分からなくなる。
「白石さんは二名いらっしゃいますが」
柏木くんが言った。
「この場合、警戒しているのは白石仁さんと坂本さんです」
「見れば分かる」
高岡が淡々と答えた。
「分類名はありますか」
「美沙さん保護者連合」
「俺を入れるな」
坂本さんが即座に言った。
仁くんもほぼ同時に言った。
「坂本さんと連合は組みません」
息が合っている。
組んでいる。
完全に組んでいる。
「仲良しだね」
美沙さんがにこにこした。
「違う」
「違います」
また同時だった。
朝倉さんが低く笑った。
「仲良しじゃねえか」
「晴臣さんも、仁くんに唐揚げあげてるもんね」
「美沙ちゃん、それは餌付けって言う」
「言い方」
「でも食うぞ、仁は」
「一個だけです」
仁くんは、温かいほうじ茶を二つ持って戻ってきた。
一つを梢へ差し出す。
「よかったら」
「あ、ありがとうございます」
梢が両手で受け取った。
少し緊張している。
でも、嫌そうではない。
「熱いので、ゆっくり」
「はい」
「砂糖は入れていません。甘いものがよければ、はちみつがあります」
「大丈夫です。ありがとうございます」
丁寧。
仁くんが丁寧だ。
俺の妹に。
どうする。
警戒するべきか。
しかし、今の対応は普通にありがたい。
兄としては複雑である。
「お兄ちゃん」
梢が小さく俺を呼んだ。
「何」
「白石さん、優しいね」
「……そうだな」
認めざるを得ない。
仁くんは、俺の返事を聞いていないふりをした。
でも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
高岡が横で、また静かに言う。
「藤谷、白石くんへの警戒レベルが一段下がったな」
「実況するな」
「でも、まだ高め」
「分析もするな」
「兄だからな」
その言い方が、少しだけ優しかった。
高岡は、こういうところがある。
淡々としているのに、ちゃんと見ている。
そして、見た上で火を足す。
やめろ。
「藤谷さん」
美波さんが、ほうじ茶を飲む梢を見てから、俺を見た。
「妹さん、大切なのね」
「そりゃ、妹なので」
「そういうところも、いいと思うわ」
「追撃」
「今のは控えめよ」
「控えめの基準を再設定してください」
「分かった。学習する」
美波さんが微笑む。
その笑い方が、昼間より少しだけ近い。
でも、さっきよりは逃げ道があった。
俺の隣には高岡がいる。
少し離れて梢がいる。
仁くんがいる。
朝倉さんがいる。
坂本さんと美沙さんがいる。
柏木くんが何かを分類している。
面倒で、騒がしくて、情報量が多くて、処理落ちばかりで。
でも、誰も悪意で動いていない。
朝倉さんの雑さも。
美波さんの距離の近さも。
仁くんの警戒も。
坂本さんの静かな圧も。
柏木くんの直球も。
高岡の実況も。
梢の緊張も。
美沙さんの柔らかさも。
全部、誰かを傷つけるためのものではない。
だから、疲れるのに、少しあたたかい。
「藤谷」
坂本さんが言った。
「はい」
「今日は早く休め」
「はい」
「判断力を使った日は、消耗している」
職場の声だった。
でも、少しだけ違った。
詰める声ではない。
確認する声だ。
「……ありがとうございます」
「明日もある」
明日。
俺は固まった。
そうだ。
明日がある。
この夏合宿は二泊三日。
今はまだ、一日目の夜。
まだ、一日目。
嘘だろ。
俺はすでに、三日分くらい処理落ちしている。
高岡が、隣で静かに言った。
「藤谷」
「言うな」
「まだ初日だぞ」
「言うなって言っただろ!」
朝倉さんが笑った。
美波さんも笑った。
梢がほうじ茶を持ったまま、肩を揺らして笑った。
仁くんが小さく息を吐いて、唐揚げをもう一個取った。
「二個目じゃないか」
朝倉さんが言う。
「姉さんが、ちゃんと食べてって言ったので」
「無敵か」
美沙さんが笑う。
坂本さんが、その横で静かに美沙さんの上着を直す。
柏木くんが真面目に言った。
「これは、夜も楽しいに分類されますか」
高岡が即答した。
「たぶん」
俺は、深く息を吐いた。
夏合宿、夜モタノシイナ。
カタカナにするな。
頼むから。




