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21/31

あさくらみなみは、恋してる

夏合宿は、ようやく海へ向かった。


 ようやく、である。


 ここまで長かった。


 会社で朝倉さんに爆弾を落とされ、

 朝倉さんが「おぼっちゃま」だったことを知らされ、

 朝倉美波さんという「女朝倉」に出会い、

 柏木くんが観察対象になり、

 梢が少し笑えるようになり、

 坂本さんが美沙さんの近くにいる権利を静かに主張し、

 仁くんがそれに静かに対抗し、

 高岡がずっと涼しい顔で俺を面白がっていた。


 その末に、海である。


 普通、海が本編ではないのか。


 違った。


 この夏合宿において海とは、朝倉家という情報量の多すぎる前座を越えた先にある、さらなる試練だった。


 砂浜は、別荘の敷地から少し下った先にあった。


 白い砂。

 透明度の高い海。

 遠くで光る水平線。

 日差しは強いが、風は気持ちいい。


 絵に描いたような夏だった。


 普通なら、テンションが上がる。


 俺も少しは上がった。


 少しは。


 ただし、隣に朝倉家がいる。


 油断はできない。


「お兄ちゃん、海きれいだね」


 梢が帽子を押さえながら言った。


「そうだな」


「来てよかったかも」


「それはよかった」


 梢の表情は、朝よりずっとやわらいでいた。


 まだ少し緊張はしている。

 けれど、美沙さんと美波さんに部屋で少し話しかけてもらったのが効いたのか、肩の力が抜けている。


 兄としては、それだけで少し救われる。


 今回、朝倉さんに勝手に巻き込まれたことについては、まだ許していない。


 許していないが、梢が楽しそうなら、まあ、少しだけ。


 少しだけなら、悪くない。


「お兄ちゃん?」


「何」


「いま、ちょっと坂本さんみたいな顔してた」


「やめろ。兄に向かって一番怖いこと言うな」


 梢はくすっと笑った。


 妹が笑う。


 それだけで、今日の俺は少し強くなれる。


 気がする。


「藤谷」


 隣から高岡が声をかけてきた。


「何」


「妹の前だと、やっぱり少し違うな」


「見るな」


「見える」


「見るなって言ってるだろ」


「でも、悪くない」


「それもやめろ」


 高岡は笑わない。

 でも、絶対に楽しんでいる。


 こいつ、最近俺の扱いがうまくなりすぎている。


 一方、少し離れた場所では、美沙さんがパラソルの下に座っていた。


 坂本さんがその横で、日差しの角度を確認している。


「ここなら直射は当たらない」


「ありがとう、カズくん。でも、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」


「大丈夫でも気にする」


「ふふ。うん」


 美沙さんが笑う。


 坂本さんの横顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 海辺の坂本さん。

 白い砂浜。

 恋人のために日陰を調整する男。


 職場で資料の数字が一桁違っただけで、会議室の温度を下げる人と同一人物である。


 何度見ても処理が追いつかない。


 誰だ。

 いや、坂本さんだ。

 でも日陰を調整している。


 誰だ。


 その近くで、仁くんが飲み物とタオルと日焼け止めを確認していた。


「姉さん、水分取って」


「さっき飲んだよ」


「もう少し飲んで」


「仁くんもね」


「僕はいいから」


「よくないよ」


「じゃあ飲む」


 飲むんだ。


 姉さんの一言は強い。


 坂本さんの静かな指示より、仁くんには効く。


 そして柏木くんは、波打ち際に立って海を見ていた。


「海は、活動範囲が明確でないですね」


「何の話?」


 俺が聞くと、柏木くんは真剣な顔で振り返った。


「砂浜、浅瀬、遊泳可能区域、視認可能範囲、危険区域の境界を把握する必要があります」


「急にまともなことを言うな」


「常にまともです」


「そうだったな。まともな方向が独特なだけだった」


 柏木くんは少し首を傾げた。


「独特ですか」


「かなり」


 その後ろから、美波さんが歩いてきた。


 白いラッシュガードを羽織って、髪をひとつにまとめている。


 上品。

 涼やか。

 そして、強そう。


 歩き方だけで、運動神経がいいのが分かる。


「柏木さんは、海でも分類するのね」


「はい。環境把握は重要です」


「その通りね」


「美波さんは泳ぎが得意ですか」


「ええ。得意よ」


 美波さんはさらっと言った。


 謙遜しない。


 自分で分かっている人の言い方だった。


 朝倉さんが後ろから来て、低く言う。


「美波、調子乗って遠く行くなよ」


「兄さんは毎年同じことを言うのね」


「毎年お前が同じことをするからだろ」


「私は同じことをしていないわ。毎年少し上達しているもの」


「そういうところが信用ならねえんだよ」


 美波さんは兄を見て、涼しい顔で笑った。


「心配してくれるの?」


「当たり前だろ」


 朝倉さんが即答した。


 少し意外だった。


 いや、意外ではないのかもしれない。


 朝倉さんは雑だが、雑なだけではない。

 輪の外にいる人を引っ張り込むし、棘のある仁くんに唐揚げを渡すし、梢を雑に呼んで居場所を作る。


 妹を心配するくらい、当たり前なのだ。


 ただ、その言い方が雑なだけで。


 美波さんは少しだけ目を細めた。


「じゃあ、ほどほどにするわ」


「お前のほどほどは信用ならねえ」


「兄さんよりは信用できると思う」


「妹が刺す」


 いつもの調子だった。


 俺は少し笑った。


 その時、美波さんが俺を見た。


「藤谷さん」


「はい」


「あなたも泳ぐ?」


「少しは」


「普通に?」


「普通に」


「その普通、やっぱり気になるわ」


「気にしないでください」


「無理かもしれない」


 美波さんは笑った。


 上品に。


 でも目は面白がっている。


 この人は、油断ならない。


「お兄ちゃん、泳ぐの?」


 梢が驚いたように聞いた。


「少しな」


「無理しないでね」


「それはこっちの台詞だ」


「私は浅いところだけにする」


「偉い」


「また子ども扱い」


「兄だから」


「便利に使ってる」


 梢が笑う。


 それを見て、美波さんがほんの少しだけ表情を変えた。


 まただ。


 この人は、人の位置関係を見る。


 梢と俺。

 美沙さんと坂本さん。

 仁くんと美沙さん。

 柏木くんと周囲。


 誰が誰を見ているか。

 誰がどこに立っているか。

 どこに隙間があるか。


 たぶん、自然に見えてしまうのだ。


 朝倉家、情報量だけではなく観察力も多い。


 やめてほしい。


 まずは浅瀬で遊ぶことになった。


 美沙さんは足だけ海に入れて、すぐに「冷たい」と笑った。


 その瞬間、坂本さんの顔が柔らかくなる。


 仁くんがタオルを準備する。


 柏木くんが「足だけでも海水への接触です」と謎の確認をする。


 朝倉さんが「夏だなあ」と低く言う。


 高岡が「夏だな」と返す。


 梢が波に驚いて小さく跳ねる。


 俺はその横で、転ばないように少し手を伸ばす。


 平和だった。


 たぶん、平和だった。


 少なくともその時点では。


 美波さんは、少し離れたところで泳いでいた。


 綺麗なフォームだった。


 無駄がない。

 水に慣れている。


 泳げる人の泳ぎだった。


 朝倉さんが腕を組んで見ている。


「ほんと、無駄にうまいんだよな」


「無駄ではないわよ」


 美波さんが水の中から返す。


「聞こえてんのかよ」


「兄さんの声は無駄に通るもの」


「妹がずっと刺してくる」


 朝倉さんはそう言いながらも、ちゃんと美波さんを見ていた。


 俺も、なんとなく見ていた。


 美波さんは楽しそうだった。


 普段の上品な顔とは少し違う。

 水の中にいる時の彼女は、もっと自由だった。


 強くて、自信があって、少し子どもみたいに楽しそうで。


 ああ、この人は泳ぐのが好きなんだなと思った。


 そう思った。


 その少し後だった。


 美波さんが、沖の方へ向かった。


 最初は誰も大きく気にしなかった。


 泳げる人だから。

 この海を昔から知っている人だから。

 朝倉さんも「遠く行くなよ」と言っていたが、まだ笑い混じりだった。


 美波さんも手を振った。


「大丈夫よ」


 その声は明るかった。


 だから、俺も最初は、ただ見ていた。


 でも。


 波の向きが、少し変わった気がした。


 風が変わったのか。

 潮の流れか。


 美波さんの位置が、思ったより戻ってこない。


 いや、泳いでいる。

 ちゃんと泳いでいる。


 でも、進んでいない。


 むしろ、少しずつ横へ流されているように見えた。


 俺の中で、何かが切り替わった。


 音が遠くなる。


 さっきまでの会話。

 笑い声。

 波の音。

 全部が少しだけ後ろへ下がる。


 目の前の情報だけが、はっきりする。


 位置。

 距離。

 波。

 風。

 美波さんの腕の動き。

 顔の向き。

 呼吸。


 まずい。


「高岡」


 俺は言った。


 自分でも驚くくらい、声が冷静だった。


「浮き具」


 高岡の顔が変わった。


 いつもの淡々とした顔のまま、目だけが鋭くなる。


「分かった」


「柏木くん、人を呼んで。管理人さんと、近くに誰かいたら全部」


「はい」


 柏木くんは一瞬で走り出した。


 速い。


 余計な質問をしなかった。


「朝倉さん」


 俺は朝倉さんを見た。


 朝倉さんはもう、美波さんを見ていた。


 笑っていない。


「美波さんから目を離さないでください。位置を教えて」


「藤谷?」


「行きます」


 朝倉さんの目が見開かれた。


「お前、行けるのか」


 坂本さんの声がした。


 振り返ると、坂本さんが立っていた。


 美沙さんの横から離れて、こちらを見ている。


 怖くはない。


 ただ、正確に見ている目だった。


「行けます」


 俺は答えた。


「無理はするな」


「しません」


「判断は」


「できます」


 坂本さんは一拍置いた。


 それから、短く言った。


「行け」


 その一言で、身体が動いた。


 俺は近くにあった浮き具を受け取り、海へ入った。


 冷たい。


 けれど、それを考えている暇はない。


 美波さんの位置。

 流れ。

 こちらからの角度。

 真正面から行かない。

 相手がパニックになって掴んできたら、こっちも危ない。


 昔、何度も聞いたこと。

 何度も練習したこと。


 学生の頃に取ったライフセーバーの資格。

 もう使うことはないと思っていた。


 こんな形で役に立つとは思わなかった。


 海へ出る。


 美波さんがこちらに気づいた。


 顔が、さっきまでと違う。


 楽しそうだった表情が消えている。


 焦っている。

 でも、まだ完全なパニックではない。


 間に合う。


「美波さん!」


 俺は声を出した。


「大丈夫です! こっち見て!」


 美波さんの目が俺を捉える。


「藤谷、さん……?」


「力抜いて! 泳ごうとしなくていいです! 俺の声だけ聞いてください!」


 美波さんの腕が動きかける。


「戻れな……」


「喋らなくていいです! 浮いて! 大丈夫、届きます!」


 自分でも知らない声だった。


 普段の俺じゃない。


 処理落ちして、朝倉さんに振り回されて、坂本さんに震えて、高岡に遊ばれている俺じゃない。


 ただ、今やるべきことだけが見えていた。


 近づく。


 距離を詰める。


 美波さんがこちらへ手を伸ばしかけた。


「掴まないで! 浮き具見て!」


 少し強く言う。


 美波さんがびくっとして、でも止まった。


 よかった。


 聞こえている。


 俺は浮き具を渡せる距離まで近づいた。


「これに胸を預けて。そう。大丈夫です。力抜いて」


 美波さんの手が浮き具にかかる。


 震えている。


「上手です。そのまま。俺が引きます」


「……っ」


「大丈夫。岸、見なくていいです。俺の声だけ聞いてください」


 美波さんがうなずいた。


 小さく。


 俺は浮き具を支えながら、ゆっくり方向を変えた。


 焦らない。

 最短距離にこだわらない。

 流れに逆らいすぎない。


 岸の方を見ると、高岡が浮き具を持って構えているのが見えた。

 朝倉さんは立ったまま美波さんを見ている。

 坂本さんは美沙さんのそばにいるが、視線はこちらから外さない。

 柏木くんは管理人さんを連れて戻ってきている。


 梢が両手を胸の前で握っていた。


 大丈夫。


 戻る。


 戻れる。


「美波さん、呼吸」


「……はい」


「大丈夫。うまいです」


「……私、」


「今は話さないで。後で聞きます」


「……はい」


 素直だった。


 あの美波さんが。


 兄を「景色が悪い」と言い、柏木くんを観察対象にし、場を上品な顔で動かしていた美波さんが、今は俺の声に従っている。


 それどころではないのに、頭の端で少しだけ思った。


 人は、余裕を失うと、いつもの形ではいられない。


 でもそれでいい。


 今は、助かることだけでいい。


 岸が近づく。


 高岡が海に入ってきた。


「藤谷」


「美波さん先」


「分かった」


 高岡が浮き具を受け取るように支える。


 管理人さんも来る。


 朝倉さんも膝まで海に入ってきた。


 顔が怖い。


 いつもの雑な怖さではない。


 妹を心配する兄の顔だった。


「美波」


 朝倉さんの声が低く響いた。


 美波さんは浮き具につかまったまま、かすかに顔を上げた。


「兄さん……」


「馬鹿野郎」


 朝倉さんが言った。


 怒鳴りはしなかった。


 ただ、低く、震えるような声だった。


「分かってるって言っただろ」


「……ごめんなさい」


 美波さんの声が、小さくなった。


 それを聞いた瞬間、朝倉さんの顔が少し崩れた。


 怒っている。

 心配している。

 安心している。


 全部混ざった顔だった。


 美波さんが砂浜に上がる。


 管理人さんがタオルをかける。


 美沙さんがすぐに近づいた。


「美波さん、大丈夫? 寒くない?」


「……大丈夫、です」


「無理して話さなくていいからね」


 美沙さんの声は柔らかかった。


 その柔らかさが、張っていた空気を少しだけほどく。


 坂本さんが俺を見た。


「藤谷」


「はい」


「怪我は」


「ないです」


「息は」


「大丈夫です」


「座れ」


「はい」


 職場か。


 いや、今はありがたい。


 俺はその場に座った。


 急に身体が重くなった。


 水を吸った服。

 冷えた腕。

 速くなっている呼吸。


 終わった。


 終わったのだ。


 美波さんは無事だ。


 その事実が、少し遅れて身体に届く。


 梢が走ってきた。


「お兄ちゃん!」


「梢、走ると危ない」


「それ今言うこと?」


「兄だから」


「お兄ちゃん……!」


 梢の目に、涙が浮かんでいた。


 俺は少し驚いた。


「大丈夫だって」


「すごく、怖かった」


「ごめん」


「謝らなくていいけど……でも、怖かった」


 梢は俺の隣にしゃがみこんだ。


 俺はタオルを受け取りながら、少しだけ笑った。


「大丈夫。資格持ってるから」


「資格?」


 梢が目を丸くする。


 高岡が横から言った。


「ライフセーバーだよ。藤谷、持ってる」


「高岡」


「隠すことじゃない」


「いや、でも」


「今は言っていいだろ」


 梢が俺を見た。


「お兄ちゃん、そんな資格持ってたの?」


「学生の時に、少し」


「少しで人助けられるの?」


「少しじゃなくて、ちゃんと取った」


 高岡が淡々と補足した。


「藤谷、こういうところは真面目だから」


「こういうところはって何だ」


「褒めてる」


「褒め方」


 梢の表情が、少しずつ変わった。


 心配から、驚きへ。

 驚きから、誇らしさへ。


「お兄ちゃん、すごかった」


 その言葉に、俺は一瞬返せなかった。


 妹にそう言われるのは、思ったよりくる。


「……たまたまだよ」


「たまたまじゃないよ」


 梢は首を振った。


「お兄ちゃん、すごかった」


 もう一度言われた。


 逃げ場がない。


 高岡が小さく言った。


「受け取れ」


「……分かってる」


 俺は少し照れながら、タオルで髪を拭いた。


 その時、柏木くんが戻ってきた。


「藤谷さん」


「何」


「緊急時に処理速度が上がるタイプなのですね」


「通常時が低いみたいに言うな」


「違うのですか」


「違う」


「通常時は外部要因による処理負荷が高いだけですか」


「分析するな」


 高岡がうなずいた。


「でも、だいたい合ってるな」


「高岡まで乗るな」


 柏木くんは真面目な顔のまま続けた。


「先ほどの指示は明確でした。私も迷わず管理人さんを呼べました」


「それは柏木くんがすぐ動いてくれたからだよ」


「はい。指示が明確だったためです」


「……ありがとう」


「いえ」


 柏木くんは、ほんの少しだけ表情をゆるめた。


 この子も、ちゃんといい子だ。


 言葉は危ないが。


 美波さんは少し離れた場所で、タオルに包まれて座っていた。


 美沙さんがそばについている。

 朝倉さんは少し離れて立っている。


 近づきたい。

 でも、今近づくと怒りすぎる。

 そんな兄の距離だった。


 坂本さんはその少し後ろで、全体を見ていた。


 目が合う。


 坂本さんは短く言った。


「判断は悪くなかった」


 たったそれだけだった。


 でも、俺の胸の奥が、少し熱くなった。


 坂本さんにそう言われると、効く。


 怖い上司だから。

 正しい人だから。

 必要以上には褒めない人だから。


「ありがとうございます」


「浮かれるな」


「はい」


「でも、よくやった」


 え。


 今。


 今、坂本さんが。


 よくやった。


 言った。


 俺は固まった。


 高岡が横で小さく言う。


「処理落ちしたな」


「するだろ」


「今じゃないだろ」


「今だろ!」


 坂本さんが少し眉を寄せる。


「元気そうだな」


「すみません」


 元気ではない。

 でも、元気になった気がする。


 美沙さんがこちらへ来た。


 美波さんは管理人さんの奥さんに見てもらっている。

 大事には至らなかったようだった。


「藤谷くん」


「はい」


「ありがとう」


 美沙さんは、まっすぐ俺を見て言った。


「美波さんを助けてくれて、ありがとう」


 その声が優しくて、俺は少し慌てた。


「いや、俺は、その、できることをしただけで」


「それがすごいんだよ」


 美沙さんは笑った。


「藤谷くん、かっこよかったね」


 海風が吹いた。


 俺は、どう返していいか分からなくなった。


 だって、美沙さんである。


 坂本さんがあれだけ柔らかくなる人。

 仁くんが全力で守りたがる人。

 柏木くんが安心材料と認識する人。

 美波さんの優しさを見抜く人。


 その美沙さんに、かっこよかったと言われた。


 俺の処理能力は、今日も限界だった。


「……ありがとうございます」


 なんとか言った。


 坂本さんが隣で、ほんの少しだけうなずいた。


 え。


 うなずいた。


 美沙さんの「かっこよかったね」を否定しなかった。


 坂本さんが。


 俺はまた処理落ちしかけた。


 今日は忙しい。


 その時、朝倉さんが俺の前に来た。


 いつもの雑な顔ではなかった。


 低い声で言う。


「藤谷」


「はい」


「助かった」


 短い言葉だった。


 でも、重かった。


「……無事でよかったです」


「ああ」


 朝倉さんは一度、美波さんの方を見た。


 それから、俺の頭に手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「悪い。妹の前だったな」


「いや、どういう意味ですか」


「雑に撫でようかと思った」


「やめてください」


「だよな」


 朝倉さんは少し笑った。


 いつもの朝倉さんに戻りかけている。


 それが少し安心した。


「あとで唐揚げ食え」


「なぜ唐揚げ」


「俺の感謝の表現だ」


「重いのか軽いのか分からない」


「両方だ」


 朝倉さんらしい。


 重いことを、軽いものに乗せて渡す。


 唐揚げ。

 焼き菓子。

 雑な声かけ。

 おい、こっち来い。


 全部、この人なりの距離の詰め方なのだ。


 俺は少し笑った。


「じゃあ、一個だけ」


 朝倉さんが目を細めた。


「仁みたいなこと言うな」


「うつりました」


「やめろ」


 仁くんが遠くから言った。


「僕を巻き込まないでください」


「お前は毎年巻き込まれてるだろ」


「姉さんがいるので」


「理由が強すぎる」


 周囲に少し笑いが戻った。


 よかった。


 空気が戻ってきた。


 でも、全員が完全に普段通りになったわけではない。


 美波さんは、まだ少し黙っていた。


 夕方近くになって、海から上がり、別荘に戻った。


 泳ぎは当然そこで終わりになった。


 美波さんは「大丈夫」と言ったが、朝倉さんと坂本さんと美沙さんと管理人さんの全員に却下された。


 さすがの美波さんも、四方向からの却下には逆らわなかった。


 リビングに戻ると、温かい飲み物が用意されていた。


 美沙さんが美波さんの隣に座り、梢も少し離れて座っている。


 仁くんは美沙さんの近く。

 坂本さんは当然のように美沙さんの斜め後ろ。

 朝倉さんは美波さんの真正面ではなく、少し横。


 真正面だと、心配と怒りがそのままぶつかるからだろう。


 この人、雑だけど、そういう距離は分かるのだ。


 俺は少し離れて座っていた。


 疲れていた。


 身体も、頭も。


 けれど、変な高揚もあった。


 さっきのことが、自分のことではないみたいだった。


 そんな時、美波さんが立ち上がった。


 タオルを肩にかけたまま、こちらに歩いてくる。


 全員の視線が少し動く。


 美波さんは俺の前で止まった。


「藤谷さん」


「はい」


「助けてくださって、ありがとうございました」


 深く頭を下げられた。


 俺は慌てて立つ。


「いや、そんな、頭上げてください」


 美波さんが顔を上げる。


 いつもの涼しい目元ではなかった。


 少し揺れている。


 それでも、まっすぐだった。


「私、自分のことを過信していたわ」


「泳げる人ほど、戻れると思っちゃうので」


 俺は自然に言っていた。


「美波さんが悪いというより、海がそういうものなんです」


 美波さんが目を見開く。


「怒らないの?」


「怒るのは朝倉さんの役目かなと」


「兄さんはもう怒ったわ」


「たぶん、まだ怒ってます」


「そうね」


 美波さんが少しだけ笑った。


 その笑い方が、いつもより弱かった。


 弱いというより、ほどけていた。


「藤谷さん」


「はい」


「海の中で、あなたの声だけ聞こえたの」


 俺は息を止めた。


「力抜いて。俺の声だけ聞いてくださいって」


「あれは、そうした方が安全だったので」


「分かってるわ」


 美波さんは俺を見た。


「でも、怖くなくなった」


 その言葉に、返事が出なかった。


 美波さんは、続けた。


「私はいつも、自分で場を動かす側だと思っていたの。兄さんを動かして、周りを見て、配置を変えて。そうすれば大体のことは何とかなると思っていた」


 リビングが静かになった。


 朝倉さんも何も言わない。


 坂本さんも。

 美沙さんも。

 高岡も。


「でも、今日は何もできなかった。戻ろうとしても戻れなくて、少し怖くて……その時、藤谷さんの声が聞こえた」


「……はい」


「すごく、落ち着いていたわ」


「必死だっただけです」


「必死で落ち着ける人は、強いと思う」


 俺は、何も言えなかった。


 美波さんは一歩だけ近づいた。


 近い。


 朝倉家は距離が近い。


 逃げたい。


 でも、今逃げるのは違う気がする。


 美波さんは、まっすぐ俺を見て言った。


「藤谷さん」


「はい」


「私、この人好きかもしれない」


 待て。


 主語。


 主語がどこへ向いている。


 いや、俺だ。


 視線が俺だ。


 待て。


 救助後の流れとして、それは違う。


「……え?」


 俺は、かろうじて声を出した。


「美波」


 朝倉さんが低く言った。


 美波さんは振り返る。


「何、兄さん」


「今言うことか?」


「今思ったの」


「思っても今言うな」


「後で言ったら、鮮度が落ちるわ」


「恋を刺身みたいに言うな」


 高岡が小さく吹き出した。


 俺は処理落ちしていた。


 完全に。


 美波さんが、俺を。


 好き。


 かもしれない。


 かもしれない。

 かもしれないとは何だ。

 いや、そこじゃない。


 相手は朝倉さんの妹だぞ。


 中身は朝倉さんだぞ。


 上品な顔で場を勝手に動かす、女朝倉だぞ。


 俺は今、朝倉家にロックオンされたのか。


 藤谷直樹、人生最大級の危機。


 いや、救助よりこっちの方が危機なのか。


 分からない。


 何も分からない。


「藤谷」


 高岡が横から言った。


「戻ってこい」


「どこから」


「朝倉家への恐怖から」


「戻れると思うか?」


「難しいな」


「諦めるな」


 柏木くんが真面目に言った。


「藤谷さんの処理速度が通常時に戻りました」


「戻ってこれでいいのか?」


「先ほどより遅いです」


「だから通常時が低いみたいに言うな!」


 梢が小さく笑った。


 笑ったあと、少しだけ美波さんを見た。


 そして俺を見る。


「お兄ちゃん」


「何」


「すごいね」


「何が」


「助けて、告白された」


「まとめるな」


「でも、すごい」


「妹まで俺を追い込むな」


 美波さんが梢に微笑んだ。


「梢さん」


「はい」


「お兄さん、素敵ね」


 梢が少し目を丸くした。


 それから、ほんの少し誇らしそうに笑った。


「はい。今日、そう思いました」


「梢!」


 兄は耐えられない。


 妹に肯定されるのは、嬉しい。

 嬉しいが、今はタイミングが悪い。


 朝倉さんが俺の肩に手を置いた。


 重い。


「よかったな藤谷。美波は見る目あるぞ」


「祝福が怖いです」


「怖がるな」


「朝倉家の祝福は逃げ道が少ないんです」


「よく分かってるじゃねえか」


「否定してください!」


 朝倉さんは笑った。


 ひどい。


 美沙さんが口元を押さえて笑っている。


「藤谷くん、本当にかっこよかったから」


「美沙さんまで」


「ね、カズくん」


 美沙さんが坂本さんを見る。


 坂本さんは一瞬だけ俺を見た。


 それから、短く言った。


「悪くはなかった」


 高岡が即座に言う。


「褒めてるな」


「坂本さんの褒めが分かるようになりたくなかった」


 俺は頭を抱えた。


 仁くんが少し離れたところからぼそっと言った。


「姉さんが褒めたからって、調子に乗らないでください」


「白石くん、俺いま調子に乗れる状況じゃない」


「ならいいです」


「いいのか」


「姉さんが無事で、美波さんも無事なら、今日はいいです」


 仁くんの声は、少しだけやわらかかった。


 その一言に、胸が少しあたたかくなる。


 仁くんは今日も姉さん中心だ。


 でも、美波さんのこともちゃんと心配していた。


 そういうところが、分かりづらいけど優しい。


 美波さんが俺を見たまま、少し首を傾げる。


「藤谷さん」


「はい」


「今すぐ返事をしてほしいわけではないの」


「それは助かります」


「でも、逃げなくてもいいと思う」


「何からですか」


「私から」


 まっすぐだった。


 あまりにまっすぐで、俺はまた言葉に詰まった。


 朝倉さん系なのに。


 いや、朝倉さん系だからか。


 距離の詰め方が雑で、逃げ道を塞ぎがちで、情報量が多い。


 でも、悪意はない。


 美波さんの目も、そうだった。


 面白がっているだけじゃない。

 ちゃんと見ている。


 俺がさっき、海で美波さんを見ていたように。


 美波さんも今、俺を見ている。


「……逃げるかどうかは、考えます」


 俺が言うと、美波さんは少し笑った。


「慎重なのね」


「普通です」


「その普通、やっぱり好きかもしれないわ」


「追撃しないでください」


「ごめんなさい。少し面白くて」


「絶対に少しじゃない」


 美波さんは楽しそうに笑った。


 いつもの上品な顔に戻りつつある。


 でも、少し違う。


 さっきまでよりも、俺を見る目が近い。


 やめてほしい。


 いや、嫌ではない。


 嫌ではないのが怖い。


 俺は何を考えている。


 相手は朝倉さんの妹だぞ。


 朝倉家だぞ。


 高岡が横で静かに言った。


「藤谷くんもマスターだったな」


「その言い方やめろ」


「高岡くんがマスターだった日、の次だろ」


「勝手に続編にするな」


「でも、悪くない」


「今日のそれは効くからやめろ」


 高岡は少しだけ笑った。


 たぶん、本気で嬉しそうだった。


 その顔を見て、俺は少しだけ力が抜けた。


 よかった。


 みんな無事でよかった。


 美波さんも。

 梢も。

 美沙さんも。

 坂本さんも。

 仁くんも。

 柏木くんも。

 朝倉さんも。

 高岡も。


 誰も欠けずに、ここにいる。


 それだけで、今日はもう十分だった。


 夕方、海の見えるテラスで早めの夕食になった。


 朝倉さんが本当に唐揚げを出してきた。


 なぜ別荘の夕食に唐揚げがあるのか。


 分からない。


 しかし朝倉さんは当然のように皿を持ってきた。


「藤谷、食え」


「本当に唐揚げなんですね」


「感謝の表現だって言っただろ」


「じゃあ、一個だけ」


「だから仁みたいなこと言うな」


 仁くんが横から一個取った。


「一個だけです」


「お前は食うんじゃねえか」


「姉さんが食べてと言ったので」


「無敵か」


 美沙さんが笑う。


「仁くん、ちゃんと食べてね」


「うん」


 坂本さんが美沙さんの皿に、さりげなく食べやすいものを取る。


 美沙さんが「ありがとう、カズくん」と笑う。


 柏木くんは美波さんに「観察は継続ですか」と聞いている。


 美波さんは「ええ。でも少し内容が変わったわ」と答えている。


 何に変わったんだ。


 聞きたくない。


 梢は俺の隣で唐揚げを食べている。


「お兄ちゃん」


「何」


「今日、来てよかったね」


「……そうだな」


「怖かったけど」


「うん」


「でも、来てよかった」


 俺は海を見た。


 夕日が沈みかけている。


 海が金色に光っている。


 夏合宿。


 タノシイナ。


 いや、カタカナにするな。


 そう思った瞬間、高岡が隣で言った。


「夏合宿、タノシイナ」


「カタカナにするな!」


 俺は叫んだ。


 全員が笑った。


 坂本さんも、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 美沙さんがそれに気づいて、嬉しそうに笑った。


 朝倉さんが低く笑う。


 美波さんが俺を見る。


 梢が楽しそうに笑う。


 仁くんが唐揚げをもう一個取る。


 柏木くんが「これは楽しいに分類されますか」と真面目に聞く。


 高岡が「たぶん」と答える。


 俺は、ため息をついた。


 疲れた。


 ものすごく疲れた。


 でも。


 悪くない。


 そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。


 夏合宿はタノシイナ。


 カタカナにすると怖い。


 でも、たぶん。


 少しだけ、本当に楽しかった。

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