あさくらみなみは、面白がる
まともな人だと思った。
朝倉さんの妹なのに、まともそうだと思った。
淡い色のワンピース。
整えられた髪。
涼しげな目元。
立っているだけで、リビングの空気が少し整うような人。
それが、朝倉美波さんの第一印象だった。
そしてその人は、兄である朝倉さんに向かって、上品な声で言った。
「邪魔。そこにいると景色が悪いわ」
血だった。
これは血だった。
俺は静かに理解した。
朝倉家は、外見では判断してはいけない。
「おい美波、久しぶりに会った兄貴にそれか」
朝倉さんが低く言う。
美波さんは涼しい顔で首を傾げた。
「久しぶりだから、正確に伝えたの」
「正確さを坂本から学ぶな」
「坂本さんはもっと端的に言うと思うわ」
そう言って、美波さんは坂本さんを見る。
「お久しぶりです、坂本さん」
「ああ。久しぶりです」
坂本さんはいつもの落ち着いた声で返した。
職場よりは少しやわらかい。
でも、美沙さんの前ほどではない。
この微妙な温度差に気づいてしまう俺も、だいぶ訓練されてきた気がする。
嫌な訓練だ。
「美沙さん」
美波さんの声が、そこでふっと柔らかくなった。
「お会いしたかった」
「私も。美波さん、元気そうでよかった」
美沙さんが笑う。
すると、美波さんの表情が明らかにやわらいだ。
すごい。
美沙さんは、朝倉家にも効く。
いや、効くという言い方は失礼だ。
でも効いている。
朝倉さんが口を尖らせる。
「俺と扱い違いすぎねえか」
「兄さんと美沙さんを同じ扱いにする理由がないわ」
「妹が冷たい」
「温度管理は得意よ」
「その返しがもう冷たいんだよ」
美波さんは微笑んだ。
品がある。
品があるのに、やっていることは兄への切り捨てである。
藤谷直樹、学習した。
上品と安全は同義ではない。
高岡が隣でぼそっと言った。
「学習してるな」
「高岡」
「何」
「俺の心を読むな」
「顔に出てた」
「最近そればっかりだな」
「でも、悪くない」
「その言い方やめろ」
高岡は少しだけ笑った。
完全に俺で遊んでいる。
美波さんはリビングをゆっくり見渡した。
視線が、美沙さん、坂本さん、仁くん、高岡、俺、梢、そして柏木くんへと移る。
柏木くんのところで、少し止まった。
嫌な予感がした。
非常に、嫌な予感がした。
「初めまして」
美波さんがにこりと笑う。
「朝倉美波です。兄がいつもお世話になっています」
柏木くんは、まっすぐ姿勢を正した。
「柏木澄人です。朝倉さんには業務上お世話になっています」
「業務上」
美波さんが、少しだけ楽しそうに目を細めた。
あ。
目を細めた。
朝倉さんと似ている。
坂本さんの細い目とは違う。
あれは氷点下の予兆だ。
美波さんのこれは、獲物を見つけた人の目だ。
柏木くん、逃げろ。
いや、柏木くんは逃げない。
逃げるという選択肢を、まだ人間関係に実装していない。
「兄は会社でも、距離が近いですか?」
「はい」
即答だった。
朝倉さんが顔をしかめる。
「おい」
柏木くんは淡々と続ける。
「距離が近く、雑に絡み、情報量が多いです」
「お前、それ本人の前で言うなよ」
「以前から申し上げています」
「そうだったな。お前は言うやつだったな」
美波さんは、口元に手を添えた。
笑っている。
上品に笑っている。
でも、目が完全に面白がっている。
「まあ」
美波さんは柏木くんを見る。
「兄と同系統の情報量を、私にも感じますか?」
柏木くんは美波さんを見た。
そして、まじめに考えた。
考えるな。
考えた結果をそのまま出すな。
「現時点では、外見情報と発話内容に差があります」
「差」
「はい。外見上は落ち着いて上品ですが、発話内容は朝倉さんに近いです」
「柏木くん」
俺は小声で止めた。
「それ、だいぶ危ない」
「危ないですか」
「人間関係が」
「また人間関係ですか」
「そうだよ。人間関係はだいたい危ないんだよ」
美波さんは、とうとう小さく笑った。
「面白い方ね」
柏木くんが首を傾げる。
「ありがとうございます」
「褒めているわ」
「そうでしたか」
「半分くらい」
「半分」
「残り半分は、観察対象として興味があります」
柏木くんは少し考えた。
「観察されることに、同意が必要ですか」
「必要なら取るわ」
「では、観察目的を教えてください」
「面白いから」
「研究計画としては不十分です」
美波さんの目が、さらに楽しそうになった。
まずい。
この二人、噛み合っていないのに会話が成立している。
というか、美波さんが面白がっている。
柏木くんは朝倉さんが苦手だ。
距離が近く、雑に絡み、情報量が多いから。
しかし美波さんは、その情報量を上品な包装紙で包んで差し出してくる。
たぶん柏木くんは、今、逃げ場を失っている。
「兄さん」
美波さんが朝倉さんを見る。
「この方、少し貸して」
「物みたいに言うな」
「おもちゃみたいに言ったの」
「なお悪いわ」
柏木くんは真顔で言った。
「私は貸与物ではありません」
「そうね。では、少しお話ししてもいい?」
「会話であれば可能です」
「ありがとう」
「いえ」
成立した。
してしまった。
俺は頭を抱えたくなった。
高岡が横で言う。
「柏木くん、捕獲されたな」
「言葉にするな」
「逃げなかった」
「逃げる機能がないんだよ」
「朝倉家に弱いのかもしれない」
「強い人間がいるのか?」
俺は美波さんを見た。
にこやか。
涼やか。
上品。
でも中身は朝倉家。
強い。
とても強い。
その時、梢が俺の後ろに少し隠れるように立っているのに気づいた。
「梢」
「うん」
「大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと、すごい人だなって思ってるだけ」
「分かる」
俺が小声で言うと、梢は小さく笑った。
けれど、その笑いは少し緊張していた。
梢は人の輪に入るのが、あまり得意ではない。
真面目で、芯はある。
けれど、自分から強く前に出るタイプではない。
朝倉さんはそんな梢を、職場で雑に引っ張ってくれていたらしい。
その朝倉さんの妹。
そりゃ緊張する。
俺は少し身体の位置をずらして、梢が他の人の視線を真正面から受けないようにした。
妹の前だと、俺は少しだけ兄になる。
いや、普段から兄だ。
ただ、会社ではその顔をあまり出していないだけで。
「無理して話さなくていいからな」
「うん。でも、ちゃんと挨拶はする」
「偉い」
「子ども扱いしないで」
「悪い」
梢は小さく息を吸って、美波さんの方へ一歩出た。
「初めまして。藤谷梢です。兄が、お世話になっています」
美波さんの視線が、ふっと梢に向いた。
さっき柏木くんを見た時とは違う。
面白がるというより、静かに受け止める目だった。
「あなたが梢さんね」
「はい」
「兄から聞いています」
梢が少し固まった。
俺も固まった。
兄。
朝倉さんのことだ。
何を聞いているんだ。
何を言ったんだ、朝倉さん。
「小動物みたいで、でも意外と折れない子だって」
「朝倉さん」
俺は低い声で言った。
「妹の説明が雑すぎます」
「褒めてるだろ」
「褒め方が野生」
「でも合ってるだろ」
「否定しづらいから困るんです」
梢が小さく袖を引いた。
「お兄ちゃん、大丈夫」
「大丈夫じゃない。兄として抗議してる」
「ありがとう。でも……ちょっと嬉しい」
「嬉しいのか」
「折れないって言ってくれたから」
俺は黙った。
梢は、たぶんその言葉をちゃんと受け取った。
小動物みたい、と言われるのは、たまに困る。
でも、折れない、と見られていることは、きっと嬉しい。
朝倉さんの雑さは、やっぱり雑だ。
でも雑なだけではない。
人を、意外とちゃんと見ている。
腹が立つ。
いい人なのが腹立つ。
美波さんは梢に近づいた。
近づき方が自然だった。
距離を詰めているのに、圧がない。
いや、圧はある。
ただ、兄より包装が丁寧だ。
「緊張してる?」
「少し」
「正直でいいわ」
「はい」
「兄が迷惑をかけたら、私に言って」
「え」
「私から注意するから」
朝倉さんが即座に言った。
「おい、俺の信用」
「あると思っていたの?」
「妹がきつい」
「兄さんにはこのくらいでちょうどいいわ」
美波さんはそう言ってから、梢に微笑んだ。
「でも、兄があなたを気にかけているのは本当だと思う」
梢の目が少しだけ丸くなった。
「……はい」
「だから、ここでは無理しなくていいわ。話したい時に話して、休みたい時に休んで。誰かが勝手に引っ張ろうとしたら、兄を盾にして」
「俺を何だと思ってる」
「盾」
「即答すんな」
梢が、ふふっと笑った。
肩の力が少し抜けたのが分かった。
俺は少し安心した。
そして美波さんを見た。
上品な顔で場を勝手に動かす人。
たしかに、その通りだった。
美沙さんが自然に場を柔らかくする人なら、美波さんは、綺麗な指先で配置を変える人だ。
本人にその自覚があるかは分からない。
でも、場が動く。
人の立ち位置が、少しずつ変わっていく。
美沙さんが横で静かに笑っていた。
「美波さん、相変わらず優しいね」
「優しいかしら」
「うん」
「美沙さんに言われると、否定しづらいです」
美波さんが少しだけ照れたように目を伏せた。
美沙さんは笑う。
「でも、晴臣さんと似てるところもあるよね」
「それは不本意です」
「おい」
朝倉さんが低く言う。
美波さんはすました顔で返した。
「兄さんに似ていると言われて喜ぶ妹がいると思う?」
「全国の兄に謝れ」
「全国の兄は、もう少し景色を邪魔しないと思うわ」
「まだ言うか」
坂本さんがぽつりと言った。
「邪魔なのは事実だろう」
「お前まで乗るな」
「窓の前に立つな」
「景色基準で俺を裁くな」
高岡が小さく言った。
「景観法だな」
「高岡、今のは何?」
「思いついた」
「思いつきを口にするな」
「藤谷もよくしてる」
「俺は心の中でしてる」
「だいたい漏れてる」
「嘘だろ」
「本当」
俺は少し傷ついた。
いや、知ってた。
知っていたけど、人に言われると傷つく。
その時、美波さんがこちらを見た。
見た。
俺を。
正確には、俺と梢を交互に見た。
嫌な予感とは少し違う、落ち着かない感覚がした。
「藤谷さん」
「はい」
「梢さんのお兄さんなのね」
「見れば分かると思いますが」
「顔はあまり似ていないわ」
「そこを冷静に言わないでください」
「でも、雰囲気は少し似てる」
梢が隣で小さく俺を見た。
「似てるかな」
「似てるんじゃないか」
「お兄ちゃん、今ちょっと雑」
「ごめん」
高岡が淡々と言う。
「兄妹だな」
「見るな」
「さっきからそればっかりだな」
「高岡が見るからだろ」
美波さんは少し面白そうに目を細めた。
またその目だ。
柏木くんを見た時とは違う。
でも、明らかに何かを観察している。
「藤谷さんは、会社ではよく処理落ちしている方?」
「誰から聞いたんですか」
「兄さん」
「朝倉さん」
俺は朝倉さんを見た。
朝倉さんは悪びれずに水を飲んでいる。
「事実だろ」
「俺の紹介がそれなんですか」
「あと、真面目。よく働く。坂本に怯えつつ、ちゃんとついていく。高岡に遊ばれてる」
「最後いらないです」
「だいたい合ってる」
高岡が言う。
「高岡も黙ってろ」
「でも、悪くない紹介だと思う」
「坂本さん構文を便利に使うな」
美波さんは俺を見たまま、少しだけ表情を変えた。
笑っている。
でも、さっきまでの面白がる笑いとは少し違う。
「妹さんの前だと、少し違うのね」
俺は言葉に詰まった。
「……そうですか」
「ええ」
「自覚はないです」
「そういうものかもしれないわ」
美波さんは梢を見る。
「梢さんが緊張していると、自然に前に立つのね」
「兄なので」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
兄なので。
何を真面目に答えているんだ俺は。
朝倉さんがにやっと笑った。
「お兄ちゃんだなあ」
「朝倉さん、二回目です」
「何回でも言うぞ」
「やめてください」
「お兄ちゃん」
「やめてください」
梢が小さく笑う。
「お兄ちゃん、顔赤い」
「赤くない」
「赤いよ」
「海風のせい」
「まだ外じゃないよ」
「じゃあ室内の何かのせい」
「何かって何」
「朝倉家」
高岡が頷いた。
「原因としては妥当だな」
「妥当にするな」
美波さんは楽しそうに笑った。
笑い方は上品だった。
けれど、完全に朝倉家だった。
そのあと、部屋割りの話になった。
これがまた、面倒だった。
「女性陣はこちら側の部屋を使ってください」
美波さんがさらっと言う。
「美沙さん、梢さん、私で近い部屋にしましょう。何かあった時も分かりやすいですし」
「ありがとう、美波さん」
「梢さんも、それで大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
美沙さんと梢には丁寧。
兄には景色が悪い。
距離感の使い分けがすごい。
坂本さんが短く言った。
「俺はミサの近くでいい」
空気が止まった。
いや、止まったのは俺だけかもしれない。
美沙さんが少し頬を染める。
「カズくん」
「何かあった時にすぐ動ける方がいい」
理由はもっともだ。
もっともなのに、声がやわらかい。
俺の中の坂本さん認識がまた少し揺れる。
仁くんがすっと目を細めた。
「姉さんの近くは僕でもいいです」
「仁」
坂本さんの声が一段低くなる。
「お前はお前の部屋で寝ろ」
「坂本さんこそ」
「俺はミサの恋人だ」
「知ってます。納得してません」
「仁くん」
美沙さんがやわらかく呼ぶと、仁くんは一瞬で黙った。
強い。
姉さん、強い。
美沙さんはにこっと笑った。
「近くにいてくれるのは嬉しいけど、ちゃんと休んでね」
「……姉さんがそう言うなら」
仁くんが引いた。
坂本さんが少し勝った顔をした。
いや、表情はほとんど変わっていない。
でも俺には分かる。
この人、今ちょっと勝ったと思っている。
美波さんがその様子を見て、ふっと笑った。
「美沙さんがいると、男性陣の温度管理が大変ですね」
「そうかな?」
「ええ」
「温度が下がる時はだいたい柏木くんも関係してます」
俺が思わず言うと、柏木くんがこちらを見た。
「私ですか」
「かなり」
「自覚がありません」
「それは知ってる」
美波さんが柏木くんに視線を戻す。
「柏木さんは、美沙さんが好きなの?」
リビングの空気が、再び止まった。
坂本さん。
細い。
目が。
仁くん。
鋭い。
目が。
柏木くんは、ごく普通に答えた。
「はい」
「柏木くん!」
俺は叫んだ。
もう遅い。
坂本さんの周囲が、ほんのり低温になった。
仁くんが一歩前に出かけた。
美沙さんが慌てる。
「柏木くん、それは」
柏木くんは首を傾げた。
「好きという言葉の範囲が広すぎましたか」
「広すぎるし、今の場では危ない」
「では訂正します」
柏木くんはまっすぐ美波さんを見る。
「美沙さんは、安心できる方です。以前、苦手なものを無理しなくていいと言ってくださいました。そのため、私は美沙さんに対して心理的抵抗が少ないです」
美沙さんの表情が、やわらかくなった。
坂本さんの低温が少しだけ戻る。
仁くんも、ぎりぎり踏みとどまった。
俺は深く息を吐いた。
危なかった。
海に入る前から遭難するところだった。
美波さんは柏木くんをじっと見ていた。
そして言った。
「言葉が危ないのに、根はまっすぐなのね」
「根ですか」
「ええ。兄さんとは違う方向で面白い」
「朝倉さんとは違う方向ですか」
「同じ方向だったら困るわ」
「私も困ります」
「柏木、お前な」
朝倉さんが低い声で言う。
柏木くんは真顔だ。
美波さんは楽しそうだ。
俺は疲れている。
高岡は涼しい顔をしている。
たぶんこの中で一番状況を楽しんでいるのは、高岡かもしれない。
「お昼のあと、海に行きましょうか」
美波さんが言った。
「せっかく来たのだし、今日は天気もいいから」
「泳げるの?」
梢が聞くと、美波さんは微笑んだ。
「ええ。小さい頃からこの海で泳いでいるから」
その言い方は、自信に満ちていた。
嫌な感じはしない。
ただ、少しだけ強い。
自分の身体能力を知っている人の声だった。
朝倉さんが肩をすくめる。
「美波は昔から無駄に運動神経いいからな」
「無駄ではないわ」
「海で兄貴を置いて泳いでく妹だった」
「兄さんが遅いだけ」
「俺は泳ぎで勝負するタイプじゃねえんだよ」
「何で勝負するの?」
「声量」
「でしょうね」
美波さんは即答した。
兄に容赦がない。
柏木くんが真面目に言う。
「海での活動には、安全管理が必要です」
「急に正しいことを言ったな」
俺が言うと、柏木くんは不思議そうに見た。
「常に正しいことを言っているつもりです」
「そうだったな」
正しさと場の温度は別なのだ。
坂本さんが静かに言った。
「海に行くなら、時間と範囲を決める。無理はしない」
仕事中の声に少し近い。
でも、隣に美沙さんがいるからか、角は立っていない。
美沙さんが頷いた。
「私、今日は浅いところで少しだけにするね」
「それでいい」
坂本さんの声がまたやわらかくなる。
仁くんが即座に言う。
「姉さん、日差し強いから帽子持っていこう」
「うん。ありがとう」
「飲み物も」
「うん」
「タオルも」
「仁くん」
「何?」
「私、自分でも持てるよ」
「知ってる。でも持つ」
仁くんは一貫している。
その一貫性だけは、ちょっと尊敬する。
美波さんは、そのやり取りを微笑みながら見ていた。
「白石さんたちは、相変わらず仲がいいですね」
仁くんの表情が少しだけ柔らかくなる。
「姉弟なので」
「兄妹でもこうはならないわね」
朝倉さんが即座に言った。
「おい」
「兄さんは景色を邪魔するから」
「今日それ何回言うんだよ」
「景色が変わるまで」
「俺に移動しろってことか」
「やっと通じたのね」
朝倉さんが本当に少し横へ動いた。
動くんだ。
藤谷直樹、本日何度目かの学習。
朝倉さんは妹に弱い。
いや、弱いというより、言い返しながら従っている。
美波さんは窓の外を見た。
海が光っている。
その横顔は、本当に綺麗だった。
上品で、涼やかで、少し強い。
美沙さんとは違う。
美沙さんが、陽だまりみたいに人を包む人なら、
美波さんは、海風みたいに人の立ち位置を変えていく人だ。
冷たいわけではない。
でも、遠慮がない。
その遠慮のなさが、朝倉家なのだろう。
「藤谷さん」
突然、美波さんが俺を呼んだ。
「はい」
「海、得意ですか?」
俺は一瞬だけ迷った。
得意か、と言われると、少し違う。
でも、不得意ではない。
「普通です」
「普通」
「泳げますけど、遊びで得意ってほどでは」
高岡がこちらを見た。
何か言いたげだった。
やめろ。
今は言うな。
俺は視線でそう訴えた。
高岡は何も言わなかった。
珍しく空気を読んだ。
美波さんは、俺の返答を聞いて少しだけ笑った。
「慎重なのね」
「普通です」
「その普通、少し面白いわ」
「面白がらないでください」
「無理かもしれない」
「そこは努力してください」
美波さんは笑った。
上品に。
でも、朝倉家らしく。
俺は思った。
この人は危ない。
朝倉さんとは違う危なさだ。
朝倉さんは雑に爆弾を投げてくる。
美波さんは、綺麗な箱に入れて手渡してくる。
受け取ったら爆発する。
たぶんそういうタイプだ。
梢が俺の横で小さく言った。
「美波さん、素敵な人だね」
「そうだな」
「でも、ちょっと怖いね」
「それもそうだな」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「今のところは」
「今のところ」
「未来は分からない」
梢はまた少し笑った。
その笑顔を見て、俺は少し安心した。
妹が楽しそうなら、それでいい。
巻き込まれたとはいえ、来てよかったのかもしれない。
まだ、そう思える。
まだ。
昼食は、管理人さんたちが用意してくれた軽い料理だった。
軽い、と言っても、俺の知っている軽いではなかった。
冷たいスープ。
魚介のサラダ。
焼きたてのパン。
果物。
何かよく分からないけど上品な小皿。
柏木くんが真剣に皿を見つめている。
「これは昼食ですか」
「そうよ」
美波さんが答える。
「量に対して皿の種類が多いです」
「兄さんの家ではよくあることよ」
「情報量が多いですね」
「食事にも情報量を感じるのね」
「はい」
「面白いわ」
「また観察ですか」
「ええ」
「目的は」
「面白いから」
「研究計画としてはまだ不十分です」
「改善するわ」
改善するのか。
しなくていい。
朝倉さんがパンを取りながら言った。
「柏木、美波に気に入られたな」
「気に入られるとは、どういう状態ですか」
「逃げ遅れたってことだ」
「困ります」
「俺も昔から困ってる」
「兄さんは自業自得よ」
「妹が冷たい」
「温度管理は得意だと言ったでしょう」
この兄妹は、会話のテンポが速い。
しかも、二人とも声がいい。
兄は低く渋い。
妹は涼やかで上品。
やっていることは口喧嘩なのに、なぜか画になる。
ずるい。
顔と声がいい朝倉家、ずるい。
食後、美波さんが立ち上がった。
「少し休んだら、海へ行きましょう」
美沙さんが頷く。
「うん。楽しみ」
「美沙さんは、日陰に椅子を用意しますね」
「ありがとう」
「坂本さんも、その方が安心でしょう?」
坂本さんが美波さんを見る。
「助かります」
「でしょうね」
美波さんはさらっと言った。
坂本さんの美沙さんへの気遣いを、当たり前のように読んでいる。
美沙さんもそれを自然に受け取っている。
この四人には、俺の知らない毎年の夏がある。
美沙さん。
坂本さん。
朝倉さん。
美波さん。
そして仁くん。
そこに今年、俺たちが放り込まれた。
高岡。
柏木くん。
梢。
俺。
なんだこの夏合宿。
タノシイナ?
いや、まだカタカナにするのは早い。
たぶん、これからだ。
美波さんが窓の外を見て、少しだけ目を細めた。
「今日は沖の方も綺麗ね」
その声が、少しだけ弾んでいた。
朝倉さんが顔を向ける。
「あんまり遠く行くなよ」
「分かってるわ」
「お前の分かってるは信用ならねえ」
「兄さんに言われたくないわ」
「俺は海では無茶しねえ」
「海以外でしてる自覚はあるのね」
「妹が刺してくる」
みんなが笑った。
俺も笑った。
けれど、ほんの少しだけ引っかかった。
沖の方。
綺麗。
美波さんの、少し弾んだ声。
何かが起こる予感、というほどではない。
ただ、俺の中のどこかが、ほんの少しだけ反応した。
たぶん、気のせいだ。
夏だし。
海だし。
朝倉家だし。
俺の神経が、いつもより過敏になっているだけだ。
そう思った。
そう思うことにした。
高岡が、俺の横で低く言った。
「藤谷」
「何」
「今、ちょっと顔が変わった」
「そうか?」
「うん」
「気のせいだろ」
「ならいいけど」
高岡はそれ以上言わなかった。
その沈黙が、少しだけ珍しかった。
美波さんはすでに、楽しそうに海を見ている。
梢は美沙さんと帽子の話をしている。
柏木くんは「海での活動分類」を小声で整理している。
仁くんは美沙さんの飲み物とタオルを確認している。
坂本さんは美沙さんの横で、日差しの強さを見ている。
朝倉さんは、美波さんを見て、少しだけ苦い顔をしていた。
夏合宿は、ようやく海へ向かおうとしていた。
俺はまだ知らなかった。
このあと、自分がこの夏で一番処理落ちしない瞬間を迎えることになるなんて。
そんなこと、知るわけがなかった。
だって俺は、藤谷直樹だ。
処理落ち担当。
そのはずだった。




