朝倉さんはおぼっちゃまだった
別荘、と聞いていた。
だから俺は、なんとなく想像していたのだ。
海の近くにある、少し大きめの貸別荘。
木のデッキがあって、バーベキューができて、近所にコンビニが一軒あって、夜になると虫の声がして、朝倉さんが雑に「ほら夏っぽいだろ」とか言うような。
そういうやつを。
そういうやつを、想像していた。
甘かった。
車が坂道を上がりきった瞬間、視界が開けた。
海だった。
青い。
広い。
光っている。
その海を見下ろす高台に、白い壁の大きな建物があった。
いや、大きな建物、では足りない。
敷地が広い。
門がある。
門から建物まで距離がある。
庭がある。
庭というより、手入れされた公園みたいなものがある。
そして、門のところに人がいた。
人が、いた。
管理人さんっぽい人が、いた。
俺は助手席の後ろで、静かに固まった。
隣で高岡が窓の外を見ている。
「……別荘だったな」
「言葉の意味を確認するな」
「いや、これは別荘だろ」
「俺の知ってる別荘と違う」
「藤谷の知ってる別荘が何かは知らないけど、たぶん違うな」
違う。
絶対に違う。
これはもう、夏休みに来る場所ではない。
ドラマで事件が起きる場所だ。
俺が内心でそんな失礼なことを考えているうちに、先頭を走っていた朝倉さんの車がゆっくりと停まった。
その後ろに、坂本さんの車。
さらに俺たちが乗っている車。
今回は、朝倉さんが「人数いるから車分けるぞ」と言って、勝手に割り振った。
ちなみに俺は高岡と柏木くんと一緒だった。
運転は高岡。
理由は、朝倉さんいわく、
「藤谷に運転させると、途中で処理落ちして海に向かって走りそうだから」
だった。
失礼だ。
否定しきれないのが悔しい。
車を降りると、潮の匂いがした。
坂本さんが先に降りて、助手席から美沙さんが降りるのを自然に待つ。
美沙さんは白いワンピースに薄手のカーディガンで、海風に髪を押さえながら笑った。
「わあ、きれい」
その一言で、坂本さんの顔が少しだけ柔らかくなる。
「風、強くないか」
「大丈夫。気持ちいいよ」
「疲れたらすぐ言え」
「うん。ありがとう、カズくん」
カズくん。
海より先に、俺の精神が揺れた。
慣れたはずなのに。
何度見ても、職場の坂本さんと、美沙さんの前の坂本さんが同一人物だという事実に、脳が一拍遅れる。
誰だ。
いや、坂本さんだ。
でも海辺で恋人の体調を気にしている。
誰だ。
その横で、仁くんが荷物を片手に降りてきた。
「姉さん、足元気をつけて」
「仁くんも荷物重くない?」
「全然。姉さんの分も持つ」
「大丈夫よ」
「持つ」
仁くんは今日も姉への圧が強い。
その圧を、坂本さんが静かに見ていた。
細い目で。
仁くんも見返す。
怖がらない。
海風の中で、うっすら気温が下がった気がした。
夏なのに。
「お兄ちゃん」
後ろから小さな声がして、俺は振り返った。
梢だった。
俺の妹。
同じ会社の別部署にいる。
小動物みたいだと朝倉さんに勝手に表現されていた、俺の妹。
朝倉さんの車に割り振られた。
「大丈夫か。酔ってないか」
「大丈夫。お兄ちゃんこそ、顔色悪いよ」
「俺は景色に酔ってる」
「景色に?」
「あと朝倉さんに」
梢は少し困った顔をして、それから小さく笑った。
「朝倉さん、すごいね」
「どの意味で」
「全部」
「分かる」
兄妹で意見が一致した。
その時だった。
門の近くにいた管理人さんらしき男性が、朝倉さんに向かって深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、おぼっちゃま」
時間が止まった。
風も止まった気がした。
いや、実際には吹いている。
美沙さんの髪が揺れている。
高岡のシャツも揺れている。
柏木くんが瞬きをしている。
でも俺の中の時間は止まった。
おぼっちゃま。
今、確かに聞こえた。
お帰りなさいませ、おぼっちゃま。
誰に?
朝倉さんに。
朝倉さんに?
朝倉さんが?
おぼっちゃま?
朝倉さんは、ものすごく嫌そうな顔をした。
「やめろって言ってんだろ、それ」
「申し訳ございません、晴臣様」
「それもやめろ」
「では、晴臣さん」
「急に近いな」
管理人さんはにこにこしている。
慣れている。
このやり取りに慣れている。
つまりこれは、昔からのやり取りだ。
朝倉さんが、おぼっちゃまと呼ばれていた歴史がある。
俺は静かに高岡の袖をつかんだ。
「高岡」
「何」
「俺の耳がおかしいのかもしれない」
「おぼっちゃまだったな」
「言葉にするな」
「でも、悪くない」
「坂本さんみたいに言うな」
高岡は少しだけ笑った。
ほんの少しだけだが、完全に面白がっている。
柏木くんは管理人さんと朝倉さんを見比べて、真面目に言った。
「朝倉さんは、おぼっちゃま属性だったんですね」
「属性って言うな」
朝倉さんが低い声で返す。
柏木くんは首を傾げた。
「では、分類ですか」
「分類もするな」
「敬称ですか」
「お前、時々ほんとに逃げ場なく詰めてくるよな」
「詰めているつもりはありません」
「そこが怖ぇんだよ」
朝倉さんが疲れた顔をした。
珍しい。
朝倉さんが柏木くんに少し負けている。
坂本さんはというと、特に驚いた様子もなく、荷物を下ろしていた。
知っていた顔だ。
美沙さんも自然に笑っている。
そして仁くんも、驚いていなかった。
普通に荷物を持ち替えている。
俺は思わず見た。
「白石くん」
「何ですか」
「知ってたの」
「何をですか」
「おぼっちゃま」
仁くんは少しだけ眉を寄せた。
「毎年来てますから」
「毎年」
「姉さんが来るので」
「理由が一貫してる」
「当然です」
当然だった。
仁くんにとって、姉さんが来る場所には自分も来る。
姉さんの近くに自分がいる。
それはもう、太陽が東から昇るのと同じくらい自然なことらしい。
高岡が淡々と言った。
「藤谷だけが知らなかったな」
「高岡と柏木くんも知らなかっただろ」
「俺は今知った」
「俺も今知った」
「では、同時取得情報ですね」
柏木くんが真面目に言う。
同時取得情報。
俺たちは何をインストールされたんだ。
美沙さんが朝倉さんに笑いかけた。
「晴臣さん、久しぶりに言われた?」
「毎回言われる。毎回やめろって言ってる」
「でも、似合わなくはないよ?」
「美沙ちゃんまでやめてくれ」
朝倉さんが低く拗ねた。
低く渋い声で拗ねるな。
妙にかわいいのが腹立つ。
いや、腹は立ってない。
ただ情報が多い。
仁くんが横でぼそっと言った。
「朝倉さん、毎年嫌がってますよね」
「仁、お前は慣れた顔で言うな」
「慣れてますから」
「そういうところ、可愛くねえな」
「朝倉さんに可愛がられたくないです」
「毎年唐揚げ食ってるくせに」
「それとこれとは別です」
「別じゃねえよ」
仁くんはぷいっと顔をそらした。
でも否定はしなかった。
唐揚げは食べているらしい。
毎年。
なんだそれは。
知らない夏の風物詩が多すぎる。
玄関へ向かう途中、庭の向こうに海が見えた。
きれいだった。
悔しいけど、ものすごくきれいだった。
白い石の小道。
低く整えられた植え込み。
風に揺れる木。
遠くで光る海。
梢が小さく息をのむ。
「すごい……」
「無理してないか」
「してない。びっくりしてるだけ」
「俺も」
「お兄ちゃん、ずっとびっくりしてるね」
「今日の俺の役割だから」
言ってから、少し情けなくなった。
でも事実だ。
俺は今日も、処理落ち担当である。
玄関前に着くと、別の女性が出迎えてくれた。管理人さんの奥さんらしい。
美沙さんとは顔なじみなのか、柔らかく挨拶を交わしている。
「美沙さん、お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。今年もお世話になります」
「いえいえ、こちらこそ。晴臣様が皆さんをお連れになると伺って、楽しみにしておりました」
「晴臣様」
俺は小声で復唱してしまった。
高岡が横で言う。
「おぼっちゃまの別表現だな」
「やめろ。俺が保てない」
朝倉さんが振り返った。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
「藤谷、お前、だんだん俺に遠慮なくなってきたな」
「朝倉さんに遠慮してたら生き残れないので」
「いい傾向だ」
「褒められたくない」
朝倉さんは笑っていた。
その笑い方は、職場で爆弾を落とす時と同じようで、少し違った。
この場所では、朝倉さんは少しだけ居心地が悪そうだった。
でも、嫌っているわけではない。
古い服を久しぶりに着た時のような。
似合うと分かっているのに、今の自分には少し窮屈なような。
そんな顔だった。
荷物を一通り部屋に運んだ後、俺たちはリビングに集まった。
リビング。
と呼んでいいのか分からない広さだった。
天井が高い。
窓が大きい。
海が見える。
ソファがいくつもある。
照明がいちいち上品だ。
柏木くんが部屋の中央で立ち止まり、真剣な顔で言った。
「ここは個人宅ですか」
「別荘だっつってんだろ」
「個人宅の一種ではありますよね」
「分類すんな」
「広さが業務施設に近いです」
「ここで仕事すんな」
朝倉さんが即座に返した。
そのやり取りを聞きながら、美沙さんがくすっと笑う。
「柏木くん、疲れてない?」
「大丈夫です。美沙さんがいるので」
空気が止まった。
坂本さんの目が、ほんの少し細くなった。
仁くんの目も、すっと鋭くなった。
夏なのに、また気温が下がった。
柏木くんはまったく気づいていない。
「前回より環境の変化は大きいですが、美沙さんはもう知らない方ではないので、安心材料として機能しています」
「柏木くん」
俺は小声で言った。
「その説明、たぶん今いらない」
「なぜですか」
「室温が下がるから」
「空調ですか」
「人間関係の」
柏木くんは少し考えた。
「難しいですね」
「難しいよな」
俺も難しいと思う。
美沙さんは困ったように笑いながら、坂本さんの方を見た。
「カズくん」
「……何でもない」
「ほんと?」
「何でもない」
何でもある顔だった。
美沙さんは分かっているのか、少しだけ目元をゆるめる。
「あとでちゃんとお茶いれるね」
「……あぁ」
坂本さんの声が柔らかくなった。
単純だ。
いや、違う。
これは単純ではない。
恋人同士の何かだ。
俺にはまだ解析できない何かだ。
仁くんが小さく舌打ちしそうな顔をしたが、しなかった。
成長している。
そこへ朝倉さんが、冷蔵庫から勝手にペットボトルを出しながら言った。
「まあ、好きにくつろげ。自分の家みたいにしていいぞ」
「朝倉さんの家じゃないんですよね」
俺が言うと、朝倉さんは水を一口飲んだ。
「親父の資産だ。俺のじゃねえ」
否定するところがそこなのか。
俺が黙っていると、高岡が淡々と言った。
「親父さんの資産で育ったおぼっちゃま」
「高岡、お前も意外と刺してくるな」
「事実を整理しただけです」
「坂本みたいなこと言うな」
「学習してます」
「学習する相手を選べ」
坂本さんがちらっと高岡を見る。
その視線は怖くはない。
いや、少し怖い。
でも、いつもの職場の氷みたいな怖さではなく、どこか呆れたような顔だ。
高岡は平然としている。
高岡も最近、坂本さんへの耐性が上がっている気がする。
俺だけ取り残されている。
いや、取り残されたい。
その領域には入りたくない。
ふと、梢がぽつりと言った。
「朝倉さん、長男なんですよね」
朝倉さんが梢を見る。
「ああ。そうだぞ、小動物」
「その呼び方……」
梢は少し困った顔をしたけれど、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
俺は兄として一応口を挟む。
「朝倉さん、妹を小動物って呼ぶのやめてもらえますか」
「似てるだろ」
「似てますけど」
「認めるなよ、お兄ちゃん」
高岡がぼそっと言った。
「お兄ちゃんだったな」
「見るな」
朝倉さんは面白そうに笑ってから、ソファの背に腕をかけた。
「継いでねえよ。弟が親父のとこで修行中」
弟。
ああ、と思った。
前に聞いた、あの弟さんだ。
昔荒れていたという話だけでもかなり情報量が多かったのに、今度はこの別荘とセットで出てきた。
朝倉家、背景が濃い。
濃すぎる。
「前に話してた弟さんですよね」
俺が言うと、朝倉さんは軽くうなずいた。
「そうそう。昔は一番荒れてたけどな。今は親父の横で跡継ぎ修行中」
「弟さんも、この家で育ったんですよね」
「まあな」
それだけで、少し分かる気がした。
この広すぎる場所。
管理人さんたちの丁寧すぎる呼び方。
親の資産。
朝倉家の名前。
そういうものの中で育った兄弟。
高岡が静かに言った。
「朝倉家が、現地で立体化してるな」
「やめろ高岡。俺の頭の中で朝倉家が三Dになってる」
「解像度が上がった」
「上げたくなかった」
仁くんが横でペットボトルを開けながら言った。
「毎年来てたら慣れますよ」
「白石くんは慣れてる側なんだな」
「姉さんが来ますから」
「そこに戻るんだ」
「当然です」
当然だった。
仁くんの世界の中心は今日も姉さんで回っている。
朝倉さんが仁くんにペットボトルを一本投げた。
「ほら、仁」
「いりません」
「受け取ってから言うな」
仁くんは受け取っていた。
「……一応もらいます」
「素直じゃねえな」
「朝倉さんに言われたくないです」
「お前ほんと可愛くねえ」
「可愛がられたくないです」
「そういうとこだぞ」
この二人は不思議だ。
仁くんは坂本さんには対抗心が出る。
柏木くんには地雷が爆発する。
でも朝倉さんには、怒ったまま少しだけ預けるようなところがある。
多分、朝倉さんは人の棘を腫れ物みたいに扱わない。
刺さっても「痛ぇな」で済ませる。
だから、仁くんも棘をしまわなくていいのかもしれない。
朝倉さんは、雑だ。
でも、雑なまま受け止める。
それがこの人の強さなのかもしれない。
俺がそんなことを考えていると、朝倉さんが突然こちらを見た。
「なんだ藤谷。俺に惚れたか」
「考察を返してください」
「顔が真面目だったから」
「朝倉さんのせいで俺の感情が迷子なんです」
「じゃあついでに教えてやるよ」
朝倉さんはソファにどかっと座った。
座り方が、別荘の品の良さと合っていない。
でも、不思議と浮いてはいない。
ここが朝倉さんの場所なのだと分かる。
「俺がガキの頃、ジャイアンだったって話しただろ」
「あの、脅しても坂本さんが動じなかった話ですね」
「ああ。ただ、今思うと普通のジャイアンじゃねえな」
「普通のジャイアンとは」
「親の威を借るジャイアン」
自分で言った。
俺は思わず黙った。
朝倉さんは、あっけらかんとしていた。
「うちの親父に言うぞ、とか。うちの別荘来たいなら言うこと聞け、とか。これやるから俺のチーム入れ、とか。まあ、そういうガキだった」
軽い口調だった。
でも、その言葉の奥には、少しだけ苦みがあった。
「人との距離の詰め方が、それしか分かんなかったんだろうな。強く出るか、何か渡すか。そうすりゃ人は動くと思ってた」
誰も茶化さなかった。
坂本さんも。
美沙さんも。
高岡も。
仁くんも。
柏木くんも。
梢も、静かに聞いていた。
「で、そこにこいつが転校してきた」
朝倉さんが坂本さんを指さした。
坂本さんは嫌そうな顔をした。
「指をさすな」
「いいだろ、主役だぞ」
「いらない」
「俺が何言っても動かねえ。親父の名前出しても、物で釣っても、全部無駄」
「必要なかっただけだ」
「そういうとこだよ」
朝倉さんは笑った。
その笑い方は、さっきより少し柔らかかった。
「俺が『怖くないのか』って聞いたら、こいつ、『何が』って言ったんだぞ」
想像できる。
小学生の坂本さん。
すでに今の坂本さんの原型があるに違いない。
静かで、動じなくて、相手が何を言っても必要なければ受け取らない。
朝倉少年から見たら、どれだけ異質だっただろう。
「それで気に入ったんですか」
「ああ」
「変わってますね」
「知ってる」
朝倉さんは悪びれない。
坂本さんが静かに言った。
「迷惑だった」
「でも今も隣にいるだろ」
「職場が同じなだけだ」
「照れんなよ」
「照れていない。不快だ」
いつものやり取り。
でも、少し違って聞こえた。
朝倉さんが、家の力でも物でも動かせなかった相手。
坂本さんが、朝倉さんの雑さを迷惑だと言いながら、それでも切らなかった相手。
腐れ縁。
簡単な言葉だけど、たぶん中身はもっと濃い。
俺はふと、聞いてしまった。
「でも、朝倉さん」
「ん?」
「長男なのに、どうして継がなかったんですか」
今度こそ踏み込みすぎた。
そう思った。
でも朝倉さんは、海の見える窓の方を見ながら、いつもの調子で言った。
「俺は坂本のとなりにいたいからな」
一瞬、空気が変わった。
海風の音が、少し遠くなった気がした。
朝倉さんの声は軽かった。
でも、軽いだけではなかった。
長男。
実家。
親の資産。
弟。
跡継ぎ。
その全部を横に置いて、自分で選んだ場所。
坂本さんのとなり。
俺は、思わず息をのんだ。
そして、口が勝手に動いた。
「……愛し……てるんですね?」
「気持ち悪いからやめろ」
坂本さんの返答が速すぎた。
食い気味だった。
怖い。
でも正しい。
朝倉さんが腹を抱えて笑う。
「照れんなよ、坂本」
「照れてない。不快だ」
「ひでえ」
「事実だ」
「お前なあ、もうちょっと情緒を持て」
「その言葉をお前にだけは言われたくない」
高岡が横でぼそっと言った。
「相棒感だったな」
「高岡」
「何」
「まとめ方が冷静すぎて腹立つ」
「でも、悪くない」
「だから坂本さんみたいに言うな」
高岡はまた少しだけ笑った。
柏木くんは真剣に考え込んでいる。
「つまり、朝倉さんは家業より坂本さんとの職務上および人生上の隣接性を選択したということですか」
「言い方」
俺は頭を抱えた。
朝倉さんは笑いながら柏木くんを見た。
「まあ、そういうことだ」
「理解しました」
「ほんとか?」
「はい。恋愛ではない親密性ですね」
柏木くん。
たまに一番正確なところに着地する。
坂本さんが短く言った。
「それでいい」
「いいんですね」
「それ以上言うな」
「承知しました」
美沙さんが静かに笑っていた。
柔らかい笑いだった。
「晴臣さん、カズくんのこと、本当に大事なんですね」
朝倉さんは一瞬だけ黙った。
それから、少し照れたように顔をそらす。
「まあな」
坂本さんが嫌そうな顔をする。
「こっちを見るな」
「見てねえよ」
「気配がうるさい」
「気配に文句言うな」
そのやり取りを見て、美沙さんがまた笑った。
坂本さんの表情が、ほんの少しだけゆるむ。
ああ、と思った。
朝倉さんが坂本さんの隣にいたいと思った理由は、きっと一つではない。
坂本さんが動じなかったから。
家の力も物も関係なく、自分を見たから。
そして多分、今でも、隣にいると面白いから。
坂本さんは迷惑そうにしている。
でも、切らない。
それは、拒否ではない。
坂本さんなりの、許可なのだと思う。
……いや、俺は何をしんみりしているんだ。
相手は朝倉さんだぞ。
おぼっちゃまだぞ。
情報が多い。
俺が頭を抱えていると、梢が隣に来た。
「お兄ちゃん」
「何」
「朝倉さんって、すごい人だったんだね」
「すごいの方向が多すぎるけどな」
「でも、優しいよ」
梢は小さな声で言った。
「職場でもね、私がうまく話に入れない時、朝倉さんが雑に呼んでくれるの。『おい小動物、こっち来い』って」
「それは優しいのか」
「最初はびっくりしたけど……でも、呼ばれると、行っていいんだって分かるから」
俺は言葉に詰まった。
朝倉さんは本当に雑だ。
人の距離感を勝手に踏み越える。
情報量が多い。
爆弾を落とす。
でも、その雑さで助かる人もいる。
梢みたいに、自分から輪に入りづらい人間にとって、朝倉さんの「来い」は、乱暴だけど扉になるのかもしれない。
親の威を借るジャイアンだった子どもが。
物で人を動かそうとしていた子どもが。
今は、唐揚げや焼き菓子や雑な声かけで、人を輪に入れている。
それはたぶん、成長だ。
とても朝倉さんらしい、不器用で雑な成長。
俺がそんなことを思っていると、朝倉さんがこちらを見た。
「藤谷、また真面目な顔してる」
「してません」
「してる。妹の前だからか?」
「うるさいです」
「お兄ちゃんだなあ」
「うるさいです」
梢が少し笑った。
「お兄ちゃん、朝倉さんと仲いいね」
「どこを見てそう思った」
「楽しそう」
「助けてくれ高岡」
高岡は水を飲みながら言った。
「楽しそうだな」
「裏切り者」
「でも、悪くない」
「今日それ何回言うんだよ」
高岡は涼しい顔をしている。
完全に面白がっている。
その時、リビングの奥の扉が開いた。
管理人さんの奥さんが顔を出す。
「晴臣様、美波様がまもなく到着されるそうです」
美波。
さっきから何度か出ていた名前。
朝倉さんの妹。
俺の脳裏に、なぜか甲子園のマネージャーが一瞬浮かぶ。
違う。
違うぞ俺。
前回もそれで処理落ちしただろ。
朝倉さんが「ああ」と返事をする。
「美波、もう来るってよ」
美沙さんの顔がぱっと明るくなった。
「美波さん、久しぶり。楽しみ」
「美沙ちゃん、美波と仲いいよな」
「うん。美波さん、素敵な人だもの」
素敵な人。
美沙さんが言うなら、きっと本当に素敵な人なのだろう。
俺は少し安心した。
朝倉さんの妹。
でも美沙さんが素敵と言う人。
上品で落ち着いた、まともな人かもしれない。
そう思った瞬間、玄関の方から声がした。
「兄さん、また勝手に人を巻き込んだの?」
上品な声だった。
涼やかで、落ち着いていて、よく通る。
全員がそちらを見る。
リビングの入口に、一人の女性が立っていた。
淡い色のワンピース。
きれいに整えられた髪。
涼しげな目元。
立っているだけで、部屋の空気が少し整うような人だった。
まともだ。
俺は思った。
朝倉さんの妹なのに、まともそうだ。
その女性は、にこりと微笑んだ。
「美沙さん、お久しぶりです。お会いしたかった」
「美波さん、私も」
美波さんは美沙さんに柔らかく微笑んだあと、朝倉さんを見た。
「兄さん」
「なんだよ」
「邪魔。そこにいると景色が悪いわ」
俺は静かに目を閉じた。
血だ。
これは、血だ。
高岡が隣で小さく言った。
「朝倉家だったな」
「言葉にするな」
夏合宿は、まだ始まったばかりだった。




