夏合宿はタノシイナ?
平和な午前だった。
俺――藤谷直樹は、そう思っていた。
平和。
つまり、坂本さんの目が細くなっていない。
柏木くんがまだ余計なことを言っていない。
朝倉さんが来ていない。
この三つがそろっている状態を、俺は最近、平和と呼ぶようになった。
基準が低い。
だが、この職場で生きていくには、それくらいでちょうどいい。
「藤谷」
「はい」
「この数字、昨日の報告と差がある」
坂本さんが、モニターから目を離さずに言った。
声は静かだった。
静かなのに、心臓に直接届く。
「確認します」
「原因まで」
「はい」
平和ではなかった。
訂正する。
朝倉さんが来ていないだけだった。
俺が資料を開き直していると、隣の高岡が小さく言った。
「藤谷」
「何」
「今、平和だったのに、って顔してる」
「してない」
「してる」
なぜ分かる。
俺の顔は、最近、高岡専用の通知欄みたいになっている。
高岡は淡々とマウスを動かしながら、続けた。
「でも今日は、まだ朝倉さんが来てない」
「言うな」
「来るかもしれない」
「言うな」
そういうことを言うと来る。
朝倉さんは、そういう人だ。
噂とか、予感とか、甘い匂いとか、面白そうな気配とか、そういうものにやたら強い。
そして、だいたい雑に来る。
俺が嫌な予感を振り払うように画面へ視線を戻した、その時だった。
「おー、坂本」
来た。
入口から、低い声がした。
高岡がほんの少しだけ目を伏せた。
「来たな」
「お前が呼んだんじゃないのか」
「俺にその権限はない」
あってたまるか。
朝倉晴臣さんは、今日も当然のようにチームの島へやってきた。
手には何も持っていない。
紙袋もない。
唐揚げもない。
甘い匂いもない。
なのに来た。
つまり、もっと大きな何かを持っている可能性がある。
爆弾だ。
たぶん情報の爆弾だ。
「坂本」
「何だ」
坂本さんは画面から目を離さない。
この二人の会話は、いつも始まり方が雑だ。
朝倉さんが投げる。
坂本さんが最低限だけ返す。
それで会話が成立する。
小学生からの腐れ縁というものは、どうやら省略が多い。
「今年の夏休みも、恒例のあそこ行くだろ?」
恒例。
あそこ。
俺は手を止めた。
よくない。
朝倉さんの口から出る「恒例」と「あそこ」は、だいたい俺の知らない世界の扉である。
俺はちらりと坂本さんを見た。
これは断る案件だ。
朝倉さんの雑な誘い。
勤務時間中。
夏休み。
恒例のあそこ。
情報がすべて怪しい。
坂本さんなら、短く切る。
そう思った。
「あぁ」
坂本さんは、普通に答えた。
普通に。
俺は固まった。
「ミサも楽しみにしてるからな」
ミサ。
白石美沙さん。
坂本さんの恋人。
その名前が出た瞬間、坂本さんの声が、ほんの少し柔らかくなった。
やめろ。
職場で急に温度を変えるな。
俺の処理が追いつかない。
「美波さんにも会いたがってる」
みなみ。
俺の中で、何かが止まった。
みなみ。
朝倉、みなみ。
朝倉南?
いや、アニメか。
アニメなのか。
いや、待て。坂本さんが今、普通に「美波さん」と言った。
つまり現実の人物だ。
現実の朝倉美波さん。
誰だ。
いや、名前からして朝倉さん側だ。
でも誰だ。
俺の頭の中で、甲子園と職場が一瞬だけ混線した。
「藤谷」
高岡が言った。
「顔が、タッチになってる」
「なってない」
「なってる」
「なってない!」
小声で返す。
高岡は少しだけ口元を緩めた。
楽しんでいる。
こいつ、最近、俺の処理落ちを楽しんでいる。
朝倉さんは俺たちの様子など気にせず、坂本さんの机に手をついた。
「美沙ちゃん、美波に会うの楽しみにしてるって言ってたぞ」
「聞いてる」
「相変わらず連絡早いな、お前ら」
「用件は」
「冷てぇな」
「勤務中だ」
「そういうとこだぞ」
朝倉さんは笑った。
坂本さんは笑わなかった。
通常運転だった。
俺はそこでようやく、恐る恐る口を開いた。
「あの……美波さんって、どなたですか」
聞いてしまった。
聞かなければよかったかもしれない。
でも、聞かないと俺の脳内でずっとアニメの主題歌が流れそうだった。
朝倉さんがこちらを向く。
「俺の妹」
妹。
朝倉さんの妹。
いるのか。
いや、いてもおかしくない。
おかしくないのに、ものすごくおかしい気がする。
朝倉さんに妹。
あの低音で雑に人を巻き込み、唐揚げで仁くんを餌付けし、坂本さんの恋人モードを全部知っている男に、妹。
「妹さん……」
「おう。美波」
朝倉美波。
現実だった。
俺の脳内のアニメ疑惑が、静かに倒れた。
「藤谷」
高岡が言った。
「現実だったな」
「うるさい」
「まだ少し疑ってただろ」
「うるさい」
疑っていた。
少し。
いや、かなり。
柏木くんが、隣の席から真面目に顔を上げた。
「朝倉さんには妹さんがいらっしゃるのですね」
「いるぞ」
「情報として把握しました」
「お前、相変わらず反応が業務っぽいな」
「業務中ですので」
「そういうとこ、ちょっと坂本に似てきたな」
柏木くんの表情が、少しだけ真剣になった。
「それは、改善した方がよい点ですか」
「いや、面白い」
「面白さは目標にしていません」
「じゃあ、なおさら面白いな」
柏木くんが、わずかに眉を寄せた。
朝倉さんが苦手な顔だ。
分かる。
距離が近い。
情報量が多い。
しかも雑。
柏木くんの処理機能と相性が悪い。
坂本さんはそこでようやく、朝倉さんを見た。
「美波さんは来るのか」
「来る。向こうで合流する」
「そうか」
坂本さんが短く返す。
普通だ。
坂本さんが、朝倉さんの妹さんを普通に知っている。
しかも美沙さんも会いたがっている。
俺だけが知らない。
まただ。
俺だけが世界の追加設定を知らない。
このシリーズ、いや、この職場は、俺に事前資料を配らない。
「で」
朝倉さんが、急にこちらを向いた。
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
「藤谷、高岡、柏木」
呼ばれた。
俺たちは同時に顔を上げた。
「今年はお前らも来いよ」
来いよ。
何に。
朝倉さんはにやりと笑った。
「夏合宿だ!」
夏合宿。
職場で聞く言葉ではない。
少なくとも、俺の知っている会社員生活には出てこない言葉だ。
夏。
合宿。
合宿?
俺は一瞬、自分がいつの時代にいるのか分からなくなった。
大学生か。
部活か。
研修か。
いや、朝倉さんだ。
全部違うかもしれない。
「断る」
坂本さんが言った。
食い気味だった。
今までで一番早かった。
俺が「え」と思う前に、坂本さんは続けた。
「こいつらを巻き込むな」
こいつら。
俺たち。
巻き込まれていた。
いや、巻き込まれかけていた。
坂本さんが止めてくれた。
怖い上司だが、こういうところは正しい。
やっぱり坂本さんは正しい。
俺は少しだけ感動した。
だが、朝倉さんはまったく動じなかった。
「無理」
「無理じゃない」
「各方面に許可取り済んでる」
出た。
各方面。
この言葉ほど怖いものはない。
誰の方面だ。
どこの方面だ。
俺の方面にはまだ届いていない。
「朝倉」
坂本さんの目が細くなった。
「誰に話を通した」
「いろいろ」
「答えろ」
「美沙ちゃん」
「……」
坂本さんが一瞬黙った。
白石美沙さん。
強い。
坂本さんの沈黙を作れる人、美沙さん。
「ミサは何て言った」
「みんなで行ったら楽しそうだねって」
坂本さんの眉間が、ほんの少し動いた。
負けた。
今、少し負けた。
恋人の「楽しそう」は強い。
「それから高岡」
「俺ですか」
高岡が淡々と返した。
「お前、行けるって言ってたよな」
「日程次第とは言いました」
「行けるってことだろ」
「雑ですね」
「雑でいいだろ。夏だし」
「理由になっていません」
高岡、強い。
だが、否定はしていない。
つまり、行ける可能性がある。
おい。
いつの間に聞いてた?
俺を置いていくな。
「柏木」
「はい」
「お前も行けるよな」
「業務上必要ですか」
柏木くんが即座に聞いた。
正しい。
非常に正しい。
俺はうなずきそうになった。
朝倉さんは、にやっと笑った。
「美沙ちゃんも来るぞ」
「行きます」
即答だった。
柏木くん。
お前。
「判断が早い」
高岡が言った。
「白石さんはもう知らない方ではありませんので」
柏木くんは真面目に言った。
「また、前回の二次会での料理は大変おいしかったです」
理由が食事寄りだ。
いや、白石さんに懐いている。
どちらにしても坂本さんの周囲の温度が一度下がった。
坂本さんは柏木くんを見た。
目が細い。
柏木くんは平然としていた。
「坂本さん」
「何だ」
「白石さんがいらっしゃる場合、参加の心理的抵抗が下がります」
「上げろ」
「分かりました。努力します」
努力するところなのか。
俺には分からない。
朝倉さんは、満足そうに俺を見た。
「で、藤谷」
「俺は聞いてません」
「聞いてるだろ、今」
「そういう意味じゃないです」
「大丈夫だ。お前の方面にも許可取ってある」
「俺の方面とは」
「妹」
時間が止まった。
俺の中で、何かが派手に落ちた。
妹。
俺の妹。
梢。
「……はい?」
声が裏返った。
高岡がこちらを見た。
柏木くんも見た。
坂本さんまで見た。
やめろ。
全員で見るな。
朝倉さんは、何でもないことのように言った。
「うちの部にいる小動物みたいな子、お前の妹だろ」
「その呼び方やめてもらっていいですか」
「藤谷梢。俺の部下だからな」
「だからって、なぜ」
「兄貴も来るからって誘っといたぞ」
俺は口を開けた。
閉じた。
もう一度開けた。
言葉が出なかった。
処理が。
処理が。
俺の妹まで、勝手に巻き込まれている。
「何してるんですか!」
ようやく声が出た。
朝倉さんは少しも悪びれなかった。
「誘った」
「だから、それを何してるんですかって言ってるんです!」
「梢、最近ちょっと馴染んできたからな。こういうの、一回入れとくと楽になるだろ」
俺は固まった。
朝倉さんの言い方は雑だった。
でも。
その雑さの奥に、少しだけ違うものが見えた。
梢は、たしかに人見知りだ。
芯はある。
仕事も真面目にやる。
でも、人の輪に入るのはうまくない。
去年、同じ会社に入ってからも、俺はそれを少し心配していた。
本人は「大丈夫」と言う。
大丈夫じゃない時も、そう言う。
そういうところがある。
その梢が、最近少しだけ会社の話をするようになった。
朝倉さんが声をかけてくれた、と言っていた。
雑だけど、自然に周りとつないでくれる人がいる、と。
少しだけ、憧れているような声で。
まさか、その人がここまで雑に巻き込んでくるとは思わなかった。
「……梢、何て言ってました?」
俺は小さく聞いた。
朝倉さんは肩をすくめた。
「兄も行くなら行きます、だと」
終わった。
俺の拒否権が消えた。
兄という肩書きが、俺の逃げ道を塞いだ。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「兄だな」
「見るな」
「今、完全に兄の顔だった」
「見るな!」
高岡は少しだけ笑った。
こいつ、楽しんでいる。
坂本さんは、朝倉さんを見たまま、静かに言った。
「朝倉」
「何だよ」
「人を巻き込むなら、先に本人に言え」
「今言った」
「順番が違う」
「細けぇな」
「細かくない」
坂本さんの声は低かった。
怖い。
だが、正しい。
正しすぎる。
朝倉さんは、少しだけ頭をかいた。
「悪かったよ。けど、梢は楽しみにしてたぞ」
「それを盾にするな」
「盾じゃねえよ。事実だ」
朝倉さんは、俺を見た。
「お前も来い。妹が兄がいると安心するって言ってんだから」
言い方が雑だ。
雑なのに、逃げられない。
俺は机の上の資料を見た。
数字が見えない。
夏合宿。
朝倉さんの恒例のあそこ。
坂本さんと白石美沙さん。
朝倉美波さん。
高岡。
柏木くん。
梢。
俺。
情報が多すぎる。
「藤谷さん」
柏木くんが言った。
「何」
「夏合宿とは、業務外の集団活動ですか」
「たぶんね」
「参加目的は親睦ですか」
「たぶんね」
「白石さんの料理は含まれますか」
「知らないよ」
坂本さんの視線が柏木くんに向いた。
低温。
柏木くんは気づかない。
「含まれるなら、参加意義は上がります」
「柏木」
坂本さんが言った。
「はい」
「そこを判断基準にするな」
「では、朝倉さんの情報量に慣れる訓練として参加します」
「それもやめろ」
朝倉さんが笑った。
「いいじゃねえか。慣れとけ」
「慣れる必要がある状況を作らないでください」
俺は心から言った。
高岡が横で、静かに言う。
「でも、悪くないんじゃないか」
「ショウ」
「妹さんも来るんだろ」
「そこを突くな」
「美沙さんもいる。坂本さんも行く。朝倉さんの妹さんも来る」
「情報量で殴るな」
「夏だな」
「雑にまとめるな」
高岡は少しだけ口元を緩めた。
最近、本当に朝倉さん寄りの雑さを覚えてきている気がする。
怖い。
静かな進化が怖い。
「それで」
坂本さんが言った。
「場所は」
「いつもの別荘」
「期間」
「二泊三日」
「人数」
「今のとこ、美沙ちゃん、坂本、俺、美波、藤谷、高岡、柏木、梢」
「仁は?」
「誘ってある」
坂本さんの目が細くなった。
さらに温度が下がった。
「誰が」
「俺」
「なぜ」
「美沙ちゃん来るなら来るだろ」
「……」
来る。
たぶん来る。
仁くんは来る。
姉さんが海辺の別荘に行くと聞いて、来ないわけがない。
俺はその未来が見えた。
坂本さんと仁くんと柏木くんと朝倉さんと高岡と梢と、そして朝倉美波さん。
そこに美沙さん。
情報が。
情報が多い。
「朝倉」
坂本さんが言った。
「これ以上増やすな」
「増やさねえよ」
「本当だな」
「たぶん」
「断る」
「もう遅い」
「遅くない」
「美沙ちゃん、楽しみにしてるぞ」
坂本さんが黙った。
白石さんの「楽しみにしてる」は、やはり強い。
朝倉さんは、それを分かって使っている。
ずるい。
坂本さんはしばらく沈黙したあと、低く言った。
「……勝手なことをするな」
「善処する」
「しろ」
「おう」
善処。
朝倉さんの善処ほど信用できないものはない。
俺は深く息を吐いた。
夏合宿。
行くことになったらしい。
俺の意思は、途中でどこかに置いていかれた。
たぶん「各方面」の外に。
朝倉さんは、満足そうに手を叩いた。
「じゃ、詳細送るわ」
「勤務時間中に送るな」
坂本さんが即座に言う。
「昼休みに送る」
「業務端末に送るな」
「個人の方に送る」
「俺の部下のまで、なぜ知ってる」
「各方面」
「朝倉」
「冗談だって」
本当か。
本当に冗談か。
俺には分からない。
朝倉さんはひらひらと手を振り、入口へ向かう。
そして、去り際に振り返った。
「あ、藤谷」
「はい」
「梢、泳げるのか?」
「……普通には」
「じゃあ浅いとこだな」
朝倉さんはそれだけ言って、出ていった。
低い声と雑な足音が遠ざかる。
嵐のようだった。
いや、嵐はもう少し自然現象として筋が通っている。
朝倉さんは、人為的な災害だ。
ただし、たまに人の居場所を作っていく。
それが厄介だった。
フロアに、少しだけ沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは高岡だった。
「夏合宿だな」
「言わないで」
「タノシイナ?」
「カタカナにするな!」
俺が小声で叫ぶと、高岡は肩を揺らした。
笑っている。
完全に笑っている。
柏木くんが真面目にメモを取っていた。
「柏木くん、何してるの」
「持ち物リストを作成しています」
「早いな」
「不確定要素が多いため、先に分類しておきます」
「何を?」
「海、宿泊、白石さんの料理、朝倉さんの情報量、坂本さんの監視範囲、藤谷さんの妹さん」
「最後何」
「保護対象ですか」
俺は固まった。
高岡がこちらを見た。
「兄だな」
「だから見るな!」
坂本さんは、画面に視線を戻した。
「藤谷」
「はい」
「資料」
「はい」
「夏合宿の前に終わらせろ」
夏合宿の前。
それはもう、行く前提だった。
俺はうなずくしかなかった。
「はい……」
坂本さんは、いつも通り仕事に戻った。
怖い。
正しい。
そして、夏休みに美沙さんと朝倉さんの別荘へ行く人。
情報が増えた。
また増えた。
俺は資料を開き直しながら、心の中でつぶやいた。
夏合宿。
タノシイナ。
いや、楽しいのか。
怖いのか。
分からない。
ただ一つだけ分かる。
この夏、俺の処理能力は試される。
そしてたぶん。
俺の知らないところで、もう持ち物リストが作られている。
各方面によって。




