坂本さんは独占したい
デイキャンプから数日後。
俺――藤谷直樹は、朝から少しだけ平和だった。
平和。
このチームにおける平和とは、坂本さんの目がまだ細くなっていない状態を指す。
決して、穏やかで牧歌的な朝という意味ではない。
坂本一志さんは、今日もいつも通りだった。
白いシャツに、黒い眼鏡。無駄のない姿勢。無駄のないキーボード音。無駄のない指摘。
「藤谷」
「はい」
「この進捗率、昨日の報告と合わない」
合わなかった。
平和は、午前十時十二分に終わった。
「すみません、修正します」
「理由も確認しておけ」
「はい」
いつも通りだった。
つまり、怖い。
だが、今日は少し違った。
昼前に、白石仁くんが来ることになっていた。
白石仁。
白石美沙さんの弟。
坂本さんの細い目を怖がらない人間。
そして、姉さんのことになると、会議室の温度を下げるタイプの大学生兼Webデザイナー。
俺は朝から、その情報だけで胃が少し重かった。
「藤谷」
隣で高岡が言った。
「顔が、白石仁待ちだな」
「その顔、何」
「巻き込まれる前の顔」
「分かるのかよ」
「分かる」
最近、高岡の俺に対する読解精度が怖い。
もしかすると、俺の顔は社内共有ドキュメントより読みやすいのかもしれない。
やめてほしい。
*
午前十一時過ぎ。
仁くんは、大き目の紙袋を持って現れた。
その瞬間、フロアの空気が変わった。
中には白い箱が入っていた。
しかも、菓子店で見かけるような、少し背のある箱。
花模様のきれいな紙がふたの真ん中あたりにかかっていた。
甘いものだ。
俺は思った。
そして、坂本さんの手が止まった。
ほんの一瞬。
普通の人なら気づかないくらいの、わずかな停止。
だが、俺は見た。
藤谷直樹、こういうところばかり見てしまう。
「お疲れさまです」
仁くんが頭を下げた。
「今日、姉さんから預かってきました」
姉さん。
白石美沙さん。
その単語が出た瞬間、坂本さんの周囲の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
いや、柔らかくなったというより、凍っていたものが一ミリだけ解けた。
俺には分かる。
分かりたくなかった。
「この間のデイキャンプのお礼だそうです。みなさんでどうぞって」
仁くんが箱を机の上に置いた。
ふたを開ける。
中には、シュークリームが並んでいた。
丸くて、きれいに揃っていて、粉砂糖がうっすらかかっている。
店で売っているものみたいだった。
いや、店で売っているものより、なんというか。
やさしい。
見た目だけで、やさしい。
「え、シュークリーム?」
俺は思わず声を出した。
高岡も少しだけ目を上げる。
「うまそうだな」
高岡の「うまそう」は信用できる。
柏木くんも自席から顔を上げた。
「これは、白石さんのお姉さまが作られたものですか」
「はい」
仁くんが答える。
柏木くんは、少し考えてからうなずいた。
「では、いただけます」
俺は一瞬、感動した。
成長している。
焼き菓子事件を経て、柏木くんは確実に成長している。
いや、正確には「直接お会いしていない方の手作り食品」から、「直接お会いして、情報処理が柔らかいと判断した方の手作り食品」に分類変更されたのだろう。
言い方。
自分で考えておいてなんだが、言い方。
「藤谷さん」
柏木くんが言った。
「はい」
「このシュークリームは、白石さんの厚意として受け取ってよいものですね」
「うん。そうだね」
「先に感謝を伝えるべきですね」
「そうだね」
学習している。
方向は独特だが、確実に学習している。
俺が感動している間に、仁くんは箱からシュークリームを一つ取り出した。
「藤谷さん、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
俺の机に一つ。
「高岡さんも」
「ありがとう」
高岡の机に一つ。
「柏木さんも」
「ありがとうございます。いただきます」
柏木くんの机に一つ。
チームの他の人にも、一つずつ。
丁寧に。
順番に。
配っていく。
そして。
坂本さんの机の前を、通り過ぎた。
通り過ぎた。
俺は見た。
坂本さんの目が、少しだけ細くなった。
終わった。
シュークリームで、終わった。
仁くんは何食わぬ顔で箱を閉じた。
「以上です」
以上。
今、明らかに一人分なかったのに。
以上。
「仁」
坂本さんが静かに言った。
声は低い。
怒鳴ってはいない。
怒鳴ってはいないが、シュークリームの箱の周辺だけ気圧が下がった。
「何ですか」
仁くんは平然としていた。
怖がれ。
少しでいいから、怖がれ。
「俺の分は」
短い。
怖い。
でも、少しだけ拗ねているようにも聞こえた。
いや。
坂本さんが拗ねる?
そんな馬鹿な。
だが、今の「俺の分は」には、確かに何かがあった。
資料の数字を詰める声ではなかった。
シュークリームを詰められなかった男の声だった。
「ありません」
仁くんは即答した。
坂本さんが、少し黙った。
「理由は」
「オーブンの容量の問題です」
俺は天井を見た。
オーブンの容量。
今、世界で一番それらしい顔をした理由が出た。
「仁」
坂本さんの声がさらに静かになる。
「はい」
「話が違う」
「何の話ですか」
「みなさんで、と言ったんだろう」
「はい。みなさんで」
「俺は含まれないのか」
「一志さんは、みなさんではなく、姉さんの彼氏なので」
理屈が強い。
いや、強いのか。
ただの屁理屈ではないのか。
俺には判断できない。
高岡がシュークリームを手に持ったまま、小さく言った。
「分類の問題になったな」
「分類するな」
俺は小声で返した。
柏木くんが真面目に言った。
「関係性によって配布対象が変わるということですか」
「柏木くん、今は入らないで」
「分かりました」
分かってくれてよかった。
仁くんは坂本さんを見た。
「姉さん、昨日から仕込んでたんです。シュー生地って、ちゃんと膨らませるの難しいんですよ」
「知っている」
坂本さんが短く言った。
知っているんだ。
俺は思った。
坂本さん、シュー生地の難しさを知っているんだ。
なぜだ。
いや、理由は一つしかない。
美沙さんだ。
「シュークリームなんて、家で作れるもんなんですね」
俺は思わず言った。
言ってから、少し後悔した。
でも、本当にそう思ったのだ。
シュークリームは、店で買うものだ。
コンビニで買うものだ。
家で作るものではない。
少なくとも、俺の世界ではそうだった。
仁くんが、少しだけ誇らしそうにした。
「姉さん、元パティシエなんで」
「え」
俺と高岡の声が重なった。
柏木くんも顔を上げた。
「元パティシエ」
「はい」
情報量が増えた。
白石美沙さん。
坂本さんをカズくんと呼び、残業の日に夕食を差し入れ、焼き菓子でフロアの空気を変え、柏木くんの情報処理を柔らかく分類変更した人。
元パティシエ。
強い。
属性が強い。
「でも」
俺はシュークリームを見ながら言った。
「それなら、今もお店で働いてたり……」
言いかけて、しまったと思った。
美沙さんが今、休養中だという話は聞いている。
仁くんが、少しだけ表情を落とした。
坂本さんが、静かに言った。
「体力を使う仕事だ」
短い言葉だった。
「朝が早い。立ち仕事で、温度管理も時間管理も細かい。重いものも持つ」
坂本さんは、シュークリームの箱を見ていた。
声はいつも通り静かだった。
でも、そこにだけ少し温度があった。
「体調を崩している時に、無理をして続ける仕事じゃない」
フロアが、少しだけ静かになった。
仁くんが、坂本さんを見た。
いつものように噛みつく顔ではなかった。
少しだけ、悔しそうで。
でも、そこだけは否定できない顔だった。
「……そうです」
仁くんは小さく言った。
「姉さんには、もう無理してほしくないので」
「同じだ」
坂本さんが言った。
短い。
でも、はっきりしていた。
俺は思った。
ああ。
この二人は、シュークリームの配分では氷河期を起こすのに。
美沙さんの体のことになると、同じ場所に立つのだ。
ちょっといい話になりそうだった。
なりそうだったのに。
「なので、一志さんの分はありません」
仁くんが言った。
戻った。
一瞬で戻った。
坂本さんの目が細くなる。
「話が戻ったな」
「戻してます」
「なぜ」
「姉さんのシュークリームを一志さんが一番たくさん食べるのは、納得できないので」
「俺の彼女だ」
「僕の姉さんです」
出た。
また始まった。
白石姉弟と坂本さんの、関係性配分会議。
議題はシュークリーム。
平和なのか。
地獄なのか。
俺にはもう分からない。
*
その時だった。
「おー」
低い声がフロアの入口からした。
来た。
声だけで分かる。
朝倉さんだ。
朝倉晴臣さんは、今日も来る時の気配が雑だった。
足音、ドアの開け方、声の低さ。
全部の情報量が多い。
柏木くんが、ほんの少しだけ背筋を固くした。
坂本さんの目が細くなっている時より、朝倉さんが普通に来た時のほうが固くなるの、やっぱり面白い。
いや、本人には悪いが。
「何、甘い匂いすんな」
朝倉さんは、まっすぐこちらに来た。
そして、箱を見た。
「シュークリーム?」
仁くんが少し警戒したように箱を寄せた。
「姉さんのです」
「美沙ちゃんの?」
朝倉さんの目が少し明るくなった。
低い声なのに、分かりやすい。
「俺のは?」
第一声がそれだった。
この人も、この人である。
「ありません」
仁くんが即答した。
「なんでだよ」
「オーブンの容量です」
「オーブンで俺を弾くな」
朝倉さんは不満そうに言った。
低くて渋い声で、シュークリームがないことに拗ねている。
やめてほしい。
面白い。
「坂本のは?」
「ありません」
「お前もないのかよ」
朝倉さんが坂本さんを見た。
「何してんだ彼氏」
「俺に聞くな」
「彼氏だろ」
「彼氏だ」
言った。
坂本さんが、自分で彼氏だと言った。
俺はシュークリームを落としそうになった。
高岡が横で、静かに俺の手元を見た。
「落とすな」
「分かってる」
分かっているが、処理が追いつかない。
朝倉さんは腕を組んだ。
「美沙ちゃんのシュークリーム、久しぶりだな」
久しぶり。
また出た。
朝倉さんの「昔から」と同じくらい、俺を揺らす単語。
久しぶり。
朝倉さんは、美沙さんのシュークリームを食べたことがある。
普通にある。
坂本さんの家に行き、焼き菓子をもらい、シュークリームも知っている。
この人は、どれだけ知っているのか。
朝倉さんは全部知っている。
タイトルみたいなことを、俺はまた思った。
いや、今回、そのタイトルではないけども。
「坂本、お前、美沙おちゃんのシュークリーム好きだもんな」
爆弾が落ちた。
坂本さんの手が止まった。
仁くんの目が鋭くなった。
俺の心拍数が上がった。
高岡が小さく言った。
「言ったな」
「言った」
朝倉さんは悪びれなかった。
「昔から好きなもん食う時、お前、無駄に静かになるから分かる」
「黙れ」
「照れんなよ」
「黙れ」
二回言った。
坂本さんが「黙れ」を二回言った。
シュークリームはすごい。
仁くんがゆっくり坂本さんを見た。
「一志さん」
「何だ」
「姉さんのシュークリーム、そんなに好きなんですか」
坂本さんは黙った。
沈黙。
それは、ほぼ肯定だった。
「……普通だ」
嘘だ。
俺は思った。
普通なら、今こんなに空気が張り詰めない。
普通なら、スマホを気にしない。
普通なら、さっきから箱の位置を目で追わない。
普通ではない。
美沙さんのシュークリームは、坂本さんにとって普通ではない。
「普通なら、俺に一個くれよ」
朝倉さんが手を伸ばす。
仁くんが箱を避ける。
「朝倉さんの分はありません」
「仁、お前まで俺を弾くな」
「姉さんの手作りは有限です」
「言い方が坂本っぽいな」
「やめてください」
仁くんが本気で嫌そうな顔をした。
坂本さんが少しだけ目を細める。
「そこまで嫌がるな」
「嫌です」
言う。
普通に言う。
俺はもう慣れてきた。
慣れてきた自分が怖い。
*
結局、俺たちはシュークリームを食べた。
おいしかった。
信じられないくらい、おいしかった。
生地は軽いのに、ちゃんと香ばしい。
クリームは甘すぎず、でも濃くて、バニラの香りがふわっと残る。
コンビニのシュークリームとは違う。
ケーキ屋さんのとも少し違う。
家で作ったものなのに、ちゃんとプロの手が入っている感じがした。
「……おいしいです」
俺が言うと、仁くんの表情が少しだけ明るくなった。
「姉さん、甘さ控えめにしたって言ってました。会社で食べるなら、そのほうが食べやすいからって」
美沙さん。
やっぱり周りを見る人だ。
高岡も一口食べて、短く言った。
「うまい」
仁くんの機嫌が、さらに少し戻る。
柏木くんは、シュークリームを慎重に持っていた。
「白石さんのお姉さまは、クリームの充填量を均一にされていますね」
「そこ?」
俺は思わず言った。
「はい。食べた時の圧が安定しています」
「圧」
「良い意味です」
褒めている。
柏木くんは本気で褒めている。
でも、シュークリームに「圧」という言葉を使うな。
仁くんは少しだけ戸惑っていたが、悪い気はしていなさそうだった。
「……姉さんに伝えておきます」
「お願いします。とてもおいしいです」
柏木くんは真面目に頭を下げた。
成長している。
本当に成長している。
その横で、坂本さんはシュークリームを食べていない。
食べられないからだ。
ないからだ。
かわいそう。
いや、坂本さんに対して「かわいそう」と思う日が来るとは。
人生は分からない。
坂本さんは画面に向き直って仕事をしていた。
いつも通りに見える。
だが、俺には分かった。
いつもより、キーボードの音が少し静かだ。
静かすぎる。
これは、すねている。
たぶん。
坂本さんが。
シュークリームで。
すねている。
俺の脳が処理を拒否した。
その時、坂本さんのスマホが震えた。
短く。
机の上で。
坂本さんが画面を見る。
俺は見ないようにした。
見ないようにしたのに、見えた。
通知名。
ミサちゃん。
やめろ。
会社の机の上で、急に「ちゃん呼び」を出すな。
俺の心臓に悪い。
坂本さんは画面を見た。
そして。
ほんの少しだけ、目元が緩んだ。
来た。
恋人前の坂本さんだ。
仕事中なのに。
シュークリーム前なのに。
いや、シュークリーム前だからかもしれない。
坂本さんは短く返信した。
その顔を、仁くんが見ていた。
朝倉さんも見ていた。
俺も見ていた。
高岡もたぶん見ていた。
柏木くんは、シュークリームの断面を見ていた。
そこじゃない。
「坂本」
朝倉さんが言った。
「美沙ちゃん?」
「そうだ」
「何て?」
「お前には関係ない」
「ある。俺のシュークリームがかかってる」
「ない」
「あるだろ」
坂本さんは黙った。
黙って、スマホを伏せた。
そして、仁くんを見た。
何も言わない。
でも、勝っていた。
完全に勝っていた。
静かに。
非常に静かに。
仁くんの眉が寄る。
「……何ですか」
坂本さんは短く言った。
「帰る頃には、俺の分ができているそうだ」
フロアの空気が止まった。
仁くんの顔が、分かりやすく悔しそうになった。
朝倉さんが「は?」と言った。
俺は思った。
勝った。
坂本さんが、シュークリームで勝った。
「姉さん……」
仁くんが低くつぶやく。
「甘すぎる」
坂本さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「否定はしない」
藤谷直樹、見た。
今のは、笑み未満だ。
でも、勝利宣言に近い。
シュークリームによる勝利宣言。
「いや待て」
朝倉さんが身を乗り出した。
「俺のは?」
坂本さんは画面に目を戻した。
「知らない」
「冷てぇな、お前」
「俺の分だ」
「独占すんな」
「俺の分だ」
二回言った。
坂本さんが、俺の分だ、を二回言った。
これはもう、完全に独占したい男の声だった。
朝倉さんはすぐにスマホを取り出した。
「美沙ちゃんに聞く」
「やめろ」
「やめない。俺のシュークリームがかかってる」
「お前のではない」
「まだ分かんねえだろ」
朝倉さんの指が画面を叩く。
この人は本当に言う。
焼き菓子の時も言った。
シュークリームでも言う。
食べ物に対する行動力がすごい。
数秒後、朝倉さんのスマホが震えた。
返信が早い。
美沙さん、やさしい。
朝倉さんは画面を見て、少しだけ表情を緩めた。
「ほら」
「何だ」
坂本さんが低く言う。
朝倉さんは勝ち誇った顔で読み上げた。
「『晴臣さんの分もあるよ。カズくんの分より少ないけど』」
フロアが静かになった。
そのあと、高岡が小さく咳をした。
咳ではない。
笑いだ。
俺も危なかった。
カズくんの分より少ないけど。
美沙さん。
自然に、強い。
朝倉さんは一瞬止まったあと、不満そうに言った。
「少ないのかよ」
坂本さんは静かに言った。
「当然だ」
「当然じゃねえよ」
「俺の分だ」
「だから独占すんなって」
仁くんが低く言った。
「姉さんのシュークリームで争わないでください」
君が始めたんだ。
俺は思った。
でも言わなかった。
命が惜しい。
柏木くんが真面目に言った。
「白石さんのお姉さまのシュークリームは、関係者間の緊張を高める食品なのですね」
「柏木くん」
「はい」
「一般化しないで」
「分かりました」
分かってくれてよかった。
*
その日の終業時間。
坂本さんは、定時ぴったりに立ち上がった。
いつも通りだ。
坂本さんは基本的に定時で帰る人である。
ただし、今日の定時には明確な目的が詰まっていた。
クリームが。
「藤谷」
「はい」
「明日の資料、十時までに直しておけ」
「はい」
通常業務の指示。
声はいつも通り。
でも、その手はもう鞄に伸びている。
早い。
シュークリームが絡むと、坂本さんの撤収判断がさらに速い。
朝倉さんも立ち上がった。
「俺も行く」
坂本さんが朝倉さんを見る。
「来るな」
「俺の分もある」
「少ない」
「少なくてもある」
「来るな」
「行く」
二人のやり取りを見て、仁くんがため息をついた。
「一志さん」
「何だ」
「姉さんに、食べすぎないように言っておいてください」
「俺が言うことじゃない」
「一志さんが食べすぎる側だからです」
正しい。
今回ばかりは仁くんが正しい。
坂本さんは少しだけ黙った。
「……分かった」
言った。
坂本さんが、折れた。
シュークリームの前では、坂本さんも少しだけ折れる。
美沙さん、強い。
会社のロビーへ向かう坂本さんの背中を見ながら、俺は思った。
坂本さんは独占したい。
たぶん、美沙さん本人を束縛するような意味ではない。
そんな人ではない。
美沙さんが誰にでもやさしいことも、周りを自然に見ていることも、たぶん坂本さんは分かっている。
分かっていて、好きなのだと思う。
でも。
美沙さんが、坂本さんのためだけに作ったシュークリーム。
それだけは。
静かに、かなり、独占したいらしい。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「食べ終わってるのに、まだシュークリーム見てる顔してる」
「俺、そんな顔してる?」
「してる」
「……美沙さんのシュークリーム、おいしかったな」
「うまかった」
高岡は短く言った。
そして少しだけ笑った。
「でも、坂本さんの分は、たぶんもっとおいしいんだろうな」
「なんで」
「美沙さんが、カズくんのために作るから」
俺は一瞬黙った。
高岡が、たまにこういうことを言う。
淡々と。
まっすぐ。
ちょっといいことを。
「……ショウ」
「何」
「お前、たまに坂本さんみたいに言うな」
「学習してるな」
「坂本さんみたいに言うな」
高岡は少しだけ口元を緩めた。
「でも、悪くない」
「だから坂本さんみたいに言うな!」
フロアの外から、朝倉さんの低い声が聞こえた。
「坂本、置いてくなって!」
続いて、坂本さんの声。
「来るなと言った」
「俺のシュークリーム!」
「少ない」
「少ない言うな!」
俺は、シュークリームの甘い余韻が残る口で、深く息を吐いた。
今日も、俺の世界観は忙しい。
坂本さんは怖い。
坂本さんは仕事ができる。
坂本さんは美沙さんに甘い。
そして。
坂本さんは、美沙さんのシュークリームを独占したい。
新しい情報が、また一つ増えた。
俺はもう、どこに分類すればいいのか分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
明日、坂本さんの機嫌はたぶん少し良い。
そして俺の資料は、たぶん普通に詰められる。
シュークリームは甘い。
でも、仕事は甘くない。
それが、坂本さんだった。




