白石美沙さんは、もう知らない方ではありません
新入社員歓迎会というものは、本来、穏やかに終わるべきだと思う。
少なくとも俺は、そう思っている。
新人の自己紹介を聞き、上司が少しだけ長い話をし、先輩たちが適度に場を温め、新人がほどよく緊張を解き、最後は「これからよろしくお願いします」で締める。
それでいい。
社会人の夜は、それくらいでいい。
なのに。
「二次会行くか」
朝倉さんが言った。
他部署の人なのに、毎回、うちの飲み会に紛れ込んでいる。
俺は、箸を置いた。
高岡も、静かにグラスを置いた。
坂本さんは、即答した。
「断る」
早い。
食い気味だった。
「まだ場所言ってないだろ」
「お前が言う二次会の時点で、だいたいろくでもない」
「ひどいな」
「事実だ」
その通りだと思った。
俺は心の中で坂本さんに拍手した。
しかし、朝倉晴臣という人は、正論で止まる人ではない。
「坂本んちで」
「断る」
二回目も早い。
いいぞ坂本さん。
そのまま断ってください。
俺は今日、居酒屋の座敷でほどよく疲れ、ほどよく胃もたれし、ほどよく帰りたい。
坂本さんの家に行くと、情報量が増える。
シャチがいる。
美沙さんがいる。
仁くんが来る可能性がある。
俺の脳がもたない。
「今回はちゃんと許可取ってる」
朝倉さんが、妙に得意げに言った。
坂本さんの目が、静かに細くなった。
「誰に」
「ミサちゃん」
俺は目を閉じた。
出た。
許可権限の所在が、今日も俺の理解を超えている。
「俺の家だが」
「知ってる」
「俺の許可は」
「今取ってる」
「順番が違う」
「前より進歩しただろ。前回は飲み会終わってからだった」
「比較対象が低すぎる」
高岡が小さく言った。
「改善はしてるな」
「ショウ、そこ拾うな」
俺は小声で返した。
改善。
改善とは何か。
坂本さんの家で二次会をする許可を、坂本さん本人より先に美沙さんから取ることなのか。
社会人マナーの研修に入っていなかった。
たぶん一生入らない。
その時、隣で柏木くんがまっすぐ手を上げた。
「質問してもよろしいでしょうか」
柏木澄人。
今年入った新人。
坂本さんのレビューを「三日前に分かってよかったです」と受け止める、怖さの翻訳機能がまだ入っていない男。
そして、朝倉さんの雑な距離感だけは苦手な男。
柏木くんは、澄んだ声で言った。
「二次会に参加する業務上の必要性はありますか」
ない。
ないに決まっている。
誰も答えなかった。
答えなくても分かるからだ。
朝倉さんだけが、低い声で笑った。
「ない」
「では、僕は帰ります」
判断が早い。
正しい。
非常に正しい。
俺も帰りたい。
柏木くん、俺も連れて帰ってくれ。
「でも」
朝倉さんが、にやっと笑った。
嫌な予感がした。
「美沙ちゃんもいるぞ」
「行きます」
即答だった。
さっきより早かった。
俺は固まった。
高岡も少しだけ眉を動かした。
坂本さんの周囲の温度が、一度下がった気がした。
判断が早い。
理由も明確だ。
でも、その理由でいいのか。
「柏木」
坂本さんが低く言った。
「はい」
「なぜ即答した」
「白石美沙さんに、先日のお礼を改めて言える機会だからです」
真面目。
まっすぐ。
悪気ゼロ。
ただし、坂本さんの目が少し細くなった。
怖い。
この細さは、資料レビューの細さではない。
別ジャンルの細さだ。
「藤谷」
高岡が小さく言った。
「何」
「今、温度下がったな」
「言うな。俺はまだ気づいてないことにしたかった」
現実逃避は、社会人に残された数少ない防衛手段である。
*
坂本さんの家は、二度目でもやっぱり慣れなかった。
玄関がきれいだった。
空気が整っていた。
そして、生活の気配があった。
怖いくらい整っているのに、人がちゃんと暮らしている。
たぶん、その理由は美沙さんだ。
「いらっしゃい。みなさん、お疲れさま」
玄関で迎えてくれた美沙さんは、柔らかい色の部屋着にカーディガンを羽織っていた。
声がやさしい。
居酒屋の油と煙と上司の話で疲れた心に、すっと入ってくる声だった。
「夜遅くにすみません」
俺と高岡は、ほぼ同時に頭を下げた。
「いいの。晴臣さん、今日はちゃんと先に連絡くれたものね」
「だろ」
朝倉さんが胸を張った。
坂本さんが横で言った。
「威張ることではない」
「進歩は褒めて伸ばせ」
「伸ばす気はない」
美沙さんが、くすっと笑った。
その瞬間、坂本さんの声が少し柔らかくなる。
「ミサ、無理してないか」
「大丈夫。今日はお味噌汁と、おにぎりと、少しだけ小鉢を出すくらいだから」
「十分多い」
「飲んだあとでしょう? 温かいものがあったほうがいいかなと思って」
まただ。
美沙さんは、誰かを押したりしない。
強い言葉で場を支配したりもしない。
なのに、気づいたら場の中心にいる。
そして全員が、なんとなく逆らえない。
坂本さんですら、少し目元を緩めている。
怖い。
いや、怖くない。
すごい。
たぶん、すごい。
柏木くんが一歩前に出た。
「白石美沙さん」
「はい」
「柏木澄人です。先日は失礼な表現をしてしまい、申し訳ありませんでした」
きちんと頭を下げた。
美沙さんは、穏やかに笑った。
「この前も謝ってくれたでしょう? もう大丈夫よ」
「はい。ただ、二度目の謝罪機会があるなら、実施したほうがよいと判断しました」
実施。
謝罪を。
実施。
俺は少しだけ目を伏せた。
言葉選びは独特だが、気持ちはちゃんとしている。
美沙さんは、やっぱり怒らなかった。
「ありがとう。ちゃんと考えてくれたのね」
「はい。差し入れを断る際は、先に感謝を伝えるべきだと学びました」
「うん。苦手なものは、無理しなくていいのよ」
「はい」
柏木くんはまっすぐ頷いた。
そして、言った。
「今日は食べられます」
俺は、動きを止めた。
坂本さんも止まった。
朝倉さんが、面白そうに目を細めた。
美沙さんは、少しだけ首を傾げた。
「無理しなくていいのよ?」
「無理ではありません」
「そう?」
「はい。白石美沙さんは、もう知らない方ではありません」
来た。
分類変更。
俺は心の中で頭を抱えた。
美沙さん本人に会った。
穏やかに受け止めてもらった。
だから、もう知らない人ではない。
理屈としては分かる。
分かるのだが。
坂本さんの周囲の温度が、静かに下がった。
「柏木」
「はい」
「距離を測れ」
「物理的距離ですか。心理的距離ですか」
「両方だ」
怖い。
両方だ、が怖い。
朝倉さんが低い声で笑った。
「いいなあ、柏木くん。ほんと飽きねえな」
「飽きられないことを目的にしていません」
「分かってるって」
「分かっているなら、なぜ笑うのですか」
「面白いから」
「困ります」
困っている。
柏木くんが、朝倉さん相手にだけ本当に困っている。
坂本さんの細い目には「追加修正でしょうか」と聞くくせに、朝倉さんの笑いには一歩引く。
この新人の怖さ判定が、いまだに分からない。
*
リビングには、今日もシャチがいた。
ソファの端。
定位置。
俺はもう驚かない。
驚かないつもりだった。
でも、柏木くんがシャチを見て言った。
「これは、参加者ですか」
俺は止まった。
「違うと思う」
「では、なぜ中央に近い位置に」
「定位置らしい」
「役割があるのですか」
「たぶん、ない」
「ないのに定位置があるんですね」
やめてくれ。
シャチの存在意義を論理で詰めないでくれ。
坂本さんが、味噌汁のお椀を並べながら言った。
「邪魔にならない場所に置いているだけだ」
美沙さんが台所から笑った。
「カズくんがいつもそこに戻してくれるから、もうその子の席みたいになってるの」
「席ではない」
「でも、柏木くんが参加者かって聞くくらいには馴染んでるね」
「馴染ませていない」
坂本さん。
無理です。
もう馴染んでいます。
黒と白の丸い身体で、シャチは今日も堂々とそこにいた。
歴史の証人みたいな顔をして。
美沙さんが出してくれたのは、しじみのお味噌汁、小さなおにぎり、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、きゅうりの浅漬けだった。
居酒屋の二次会の概念が、完全に浄化されている。
胃と肝臓が泣いて喜ぶメニューだった。
「食べられるものだけでいいからね」
美沙さんが、柏木くんに言った。
柏木くんは、真剣に皿を見た。
「すべて食べられます」
「よかった」
「いただきます」
柏木くんは、だし巻き卵を一口食べた。
俺は、なぜか息を止めた。
坂本さんも見ていた。
朝倉さんも見ていた。
高岡も見ていた。
シャチも見ている気がした。
「おいしいです」
柏木くんが言った。
まっすぐな声だった。
美沙さんは、ふわっと笑った。
「よかった」
「味が穏やかです」
「そう?」
「はい。強制力がありません」
褒め方。
褒め方が独特。
俺は箸を止めた。
でも美沙さんは、また笑った。
「ふふ。ありがとう。たぶん、褒めてくれたのよね」
「はい。褒めました」
柏木くんは、次にお味噌汁を飲んだ。
「温かいです」
「飲んだあとだから、少し薄めにしたの」
「判断が適切です」
褒め方。
業務評価か。
美沙さんは怒らない。
押しつけない。
否定しない。
ただ、自然に受け止めて、場を柔らかくする。
坂本さんの声が低くなった。
「柏木」
「はい」
「感想は簡潔でいい」
「承知しました」
朝倉さんが低く笑った。
「坂本、嫉妬?」
「違う」
早い。
否定が早い。
でも、声が少し冷たい。
俺は味噌汁を飲んだ。
温かい。
とても温かい。
なのに、リビングの一角だけ寒い。
*
インターホンが鳴ったのは、柏木くんが二つ目のおにぎりに手を伸ばした時だった。
坂本さんが立ち上がるより早く、美沙さんが言った。
「あ、仁かな」
俺の背筋が伸びた。
仁くん。
来るのか。
やはり来るのか。
白石仁。
坂本さんの細い目を怖がらない人間。
姉さんガチ勢。
前回、柏木くんの「他人の手作り」発言で氷河期を発生させた人。
ドアが開く音がした。
今回は蹴らなかった。
えらい。
いや、普通だ。
「姉さん、無理してない?」
リビングに入ってきた仁くんの第一声は、それだった。
ブレない。
「してないよ。今日はみんな、ちゃんと手伝ってくれてるし」
「坂本さん、手伝ってますか」
「手伝っている」
「姉さん基準で?」
「俺基準だ」
「だめじゃないですか」
「だめではない」
いつものやり取りだった。
坂本さん相手に、普通に言う。
そして坂本さんも普通に返す。
何度見ても、俺には慣れない。
仁くんはリビングに入って、朝倉さんを見た。
「朝倉さん、またですか」
「今回は事前許可済み」
「姉さんに?」
「そう」
「坂本さんには?」
朝倉さんは黙った。
仁くんが、ものすごく冷たい目をした。
「最低限、家主にも取ってください」
「はい」
朝倉さんが素直に返事をした。
強い。
仁くんも強い。
この家、強い人が多すぎる。
そして仁くんの視線が、柏木くんで止まった。
止まった。
俺の心臓も止まりかけた。
柏木くんは、だし巻き卵を箸で持っていた。
食べる直前だった。
仁くんの目が細くなる。
坂本さんとは違う細さ。
冷気を帯びた、姉さん関連の細さ。
「食べるんですか」
来た。
俺は心の中で避難訓練を始めた。
柏木くんは、箸を止めて、まっすぐ答えた。
「はい」
「姉さんの手料理を」
「はい」
「この前は、他人の手作りのものは食べられないって言いましたよね」
「はい」
「食べるんですか」
「はい。白石美沙さんは、もう知らない方ではありません」
温度が下がった。
分かりやすく下がった。
俺は本気で、床暖房の有無を確認したくなった。
仁くんの表情がすっと消えた。
坂本さんの目も静かに細くなった。
二方向から寒い。
何だこれは。
クロス氷河期か。
「知らない方ではないと、食べるんですか」
「はい」
「姉さんを分類更新したんですか」
「表現としては、そうなります」
「表現としては」
仁くんの声が低い。
柏木くん。
やめろ。
正確に答えれば答えるほど、温度が下がるタイプの会話がある。
今がそれだ。
美沙さんが、そっと笑った。
「仁」
「姉さん」
「食べられるものがあってよかったじゃない」
その声は、本当に穏やかだった。
怒らない。
押さえつけない。
でも、その一言で、空気が少しだけ動いた。
仁くんが美沙さんを見る。
坂本さんも、わずかに視線を落とす。
朝倉さんは、何も言わずに味噌汁を飲んだ。
珍しい。
黙ることがあるんだ。
「前は食べられなかったけど、今日は食べられるなら、私は嬉しいよ」
美沙さんは、柏木くんのほうを見た。
「無理してないんでしょう?」
「はい。無理ではありません」
「なら、よかった」
柔らかい。
でも、強い。
仁くんはまだ不満そうだった。
かなり不満そうだった。
だが、美沙さんがそう言うなら、強くは出られない。
「……姉さんがいいなら」
出た。
最強の結論。
姉さんがいいなら。
この家の一部ルールは、それで閉じる。
柏木くんは、真面目な顔で仁くんを見た。
「白石仁さん」
「何ですか」
「前回は、言葉を間違えました。すみませんでした」
仁くんは少しだけ黙った。
「……それは、もう聞きました」
「はい。ですが、僕の発言によって室温が下がったため、再発防止の必要があります」
「室温」
「はい」
「室温じゃないです」
「では、場の温度ですか」
「そういう問題でもないです」
仁くんが額に手を当てた。
分かる。
その気持ちは分かる。
柏木くんは続けた。
「白石美沙さんは、仁さんと坂本さんにとって大事な方だと理解しました」
リビングが、一瞬だけ静かになった。
坂本さんが柏木くんを見る。
仁くんも見る。
柏木くんは、本当にまっすぐだった。
「なので、今後は分類ではなく、関係性を先に考慮します」
言い方は硬い。
でも、言っていることは悪くなかった。
むしろ、かなりちゃんとしている。
仁くんは少しだけ目を伏せた。
「……分かってるならいいです」
よかった。
戻った。
少し戻った。
俺は心の中で拍手した。
高岡が小さく言った。
「学習してるな」
「方向が独特だけどな」
「でも、悪くない」
俺は高岡を見た。
「坂本さんみたいに言うな」
「言ってみたかった」
高岡、お前。
*
その後の二次会は、意外にも穏やかに進んだ。
いや、穏やかの基準がおかしくなっているだけかもしれない。
朝倉さんは、美沙さんの胡麻和えを食べながら、
「これ、うまい」
と低い声で言い、仁くんに、
「朝倉さん、食べるならちゃんと座ってください」
と怒られていた。
懐かれている。
怒られているのに、懐かれている。
坂本さんは、おにぎりを二つ目まで食べたところで、美沙さんに、
「カズくん、ゆっくり食べて」
と言われ、ほんの少しだけ手を止めた。
会社で資料を切る速度と、家でおにぎりを食べる速度は、別にしてほしい。
高岡は静かに味噌汁を飲み、
「ありがたいな」
と呟いた。
それは本当にそうだった。
柏木くんは、だし巻き卵を食べ終えたあと、美沙さんに言った。
「白石美沙さん」
「はい」
「また、食べてもよろしいでしょうか」
俺は止まった。
仁くんも止まった。
坂本さんの箸も止まった。
朝倉さんだけが、にやっと笑った。
美沙さんは、少し驚いたあと、ふわっと笑った。
「もちろん。食べられるものがあれば、いつでも」
「ありがとうございます」
柏木くんは、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
本当に、少しだけ。
でも分かった。
懐いた。
これは懐いた。
柏木澄人が、美沙さんに懐いた。
俺は、目の前で新しい生態系が成立する瞬間を見た。
坂本さんが、静かに言った。
「柏木」
「はい」
「頻度を考えろ」
「訪問頻度ですか。食事頻度ですか」
「全部だ」
本日二回目の、全部だ。
仁くんが低く言った。
「姉さんは忙しいんです」
「はい。負担はかけません」
「本当に?」
「はい。食べるだけなら負担でしょうか」
「負担です」
「では、片付けをします」
「そういうことでもないです」
仁くんが頭を抱えた。
気持ちは分かる。
ものすごく分かる。
でも柏木くんは悪気がない。
そして、片付けをする気は本当にある。
素直で、いい子だ。
いい子なのに、場の温度を下げる。
厄介だ。
美沙さんは、そんな二人を見て、また柔らかく笑った。
「仁、ありがとう。でも大丈夫よ。柏木くん、ちゃんと聞いてくれる人だと思うから」
「姉さん」
「ね?」
美沙さんがそう言うと、仁くんは黙った。
坂本さんも黙った。
朝倉さんが小さく笑った。
「美沙ちゃん、強いなあ」
「強くないわよ」
「いや、強い」
俺もそう思った。
強い。
でも、怖い強さではない。
相手を押さえつける強さではなく、怒りを飲み込んで我慢する強さでもない。
その人のままでいて、場をやわらかく変えてしまう強さ。
坂本さんが美沙さんの前で柔らかくなる理由が、少し分かる気がした。
少しだけ。
*
帰り際。
玄関で靴を履きながら、柏木くんが美沙さんに頭を下げた。
「本日はありがとうございました。食事、とてもおいしかったです」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
「はい。また機会があれば、よろしくお願いいたします」
坂本さんの背後の空気が静かに冷えた。
仁くんの背後の空気も静かに冷えた。
ダブルである。
俺はもう、寒暖差に身体が追いつかない。
美沙さんは、その冷気に気づいているのかいないのか、ふふっと笑った。
「無理のない機会があればね」
「はい。無理のない機会を待ちます」
待つんだ。
柏木くん、待つんだ。
朝倉さんが、玄関で笑いをこらえていた。
「坂本、仁」
「何だ」
「何ですか」
「顔、似てるぞ」
「似てない」
「似てません」
同時だった。
似ている。
かなり似ている。
俺は言わなかった。
命は大事だ。
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
でも、胃のあたりは温かかった。
しじみのお味噌汁と、だし巻き卵と、美沙さんの柔らかい声のせいだと思う。
高岡が隣で言った。
「今日も濃かったな」
「濃かった」
「柏木、懐いたな」
「懐いたな」
「坂本さんと仁くん、大変だな」
「俺も大変だよ」
「お前は見てるだけだろ」
「見てるだけで削れるものがあるんだよ」
高岡は少し笑った。
俺は駅へ向かいながら、今日の出来事を頭の中で整理しようとした。
坂本さんを怖がらない新人。
朝倉さんは苦手。
美沙さんには懐く。
そして、美沙さんの手料理は食べる。
この新人の分類が、もう分からない。
でも。
柏木くんが、前より少しだけ人の大事なものを考えるようになって。
仁くんが、不満そうにしながらもそれを見ていて。
坂本さんが、静かに圧を出しながらも、最後まで何も否定しなくて。
美沙さんが、全部をやわらかく受け止めていた。
それはたぶん、少しだけいい夜だった。
少しだけ。
いや、かなり疲れたけど。
翌営業日。
坂本さんは俺の資料を見て、いつも通り目を細めた。
「藤谷」
「はい」
「この導線は、昨日の話を聞いていなかったのか」
俺の背中に冷たいものが走った。
その横で、柏木くんが小さく言った。
「藤谷さん、場の温度が下がっています」
「分かってる」
俺は思った。
家では海苔を取られ、二次会では美沙さんの手料理を静かに守り、柏木くんに圧を出していた坂本さん。
でも仕事では、普通に怖い。
やっぱり坂本さんだった。




