表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/29

白石美沙さんは、もう知らない方ではありません

  新入社員歓迎会というものは、本来、穏やかに終わるべきだと思う。


 少なくとも俺は、そう思っている。


 新人の自己紹介を聞き、上司が少しだけ長い話をし、先輩たちが適度に場を温め、新人がほどよく緊張を解き、最後は「これからよろしくお願いします」で締める。


 それでいい。


 社会人の夜は、それくらいでいい。


 なのに。


「二次会行くか」


 朝倉さんが言った。


 他部署の人なのに、毎回、うちの飲み会に紛れ込んでいる。


 俺は、箸を置いた。


 高岡も、静かにグラスを置いた。


 坂本さんは、即答した。


「断る」


 早い。


 食い気味だった。


「まだ場所言ってないだろ」


「お前が言う二次会の時点で、だいたいろくでもない」


「ひどいな」


「事実だ」


 その通りだと思った。


 俺は心の中で坂本さんに拍手した。


 しかし、朝倉晴臣という人は、正論で止まる人ではない。


「坂本んちで」


「断る」


 二回目も早い。


 いいぞ坂本さん。


 そのまま断ってください。


 俺は今日、居酒屋の座敷でほどよく疲れ、ほどよく胃もたれし、ほどよく帰りたい。


 坂本さんの家に行くと、情報量が増える。


 シャチがいる。


 美沙さんがいる。


 仁くんが来る可能性がある。


 俺の脳がもたない。


「今回はちゃんと許可取ってる」


 朝倉さんが、妙に得意げに言った。


 坂本さんの目が、静かに細くなった。


「誰に」


「ミサちゃん」


 俺は目を閉じた。


 出た。


 許可権限の所在が、今日も俺の理解を超えている。


「俺の家だが」


「知ってる」


「俺の許可は」


「今取ってる」


「順番が違う」


「前より進歩しただろ。前回は飲み会終わってからだった」


「比較対象が低すぎる」


 高岡が小さく言った。


「改善はしてるな」


「ショウ、そこ拾うな」


 俺は小声で返した。


 改善。


 改善とは何か。


 坂本さんの家で二次会をする許可を、坂本さん本人より先に美沙さんから取ることなのか。


 社会人マナーの研修に入っていなかった。


 たぶん一生入らない。


 その時、隣で柏木くんがまっすぐ手を上げた。


「質問してもよろしいでしょうか」


 柏木澄人。


 今年入った新人。


 坂本さんのレビューを「三日前に分かってよかったです」と受け止める、怖さの翻訳機能がまだ入っていない男。


 そして、朝倉さんの雑な距離感だけは苦手な男。


 柏木くんは、澄んだ声で言った。


「二次会に参加する業務上の必要性はありますか」


 ない。


 ないに決まっている。


 誰も答えなかった。


 答えなくても分かるからだ。


 朝倉さんだけが、低い声で笑った。


「ない」


「では、僕は帰ります」


 判断が早い。


 正しい。


 非常に正しい。


 俺も帰りたい。


 柏木くん、俺も連れて帰ってくれ。


「でも」


 朝倉さんが、にやっと笑った。


 嫌な予感がした。


「美沙ちゃんもいるぞ」


「行きます」


 即答だった。


 さっきより早かった。


 俺は固まった。


 高岡も少しだけ眉を動かした。


 坂本さんの周囲の温度が、一度下がった気がした。


 判断が早い。


 理由も明確だ。


 でも、その理由でいいのか。


「柏木」


 坂本さんが低く言った。


「はい」


「なぜ即答した」


「白石美沙さんに、先日のお礼を改めて言える機会だからです」


 真面目。


 まっすぐ。


 悪気ゼロ。


 ただし、坂本さんの目が少し細くなった。


 怖い。


 この細さは、資料レビューの細さではない。


 別ジャンルの細さだ。


「藤谷」


 高岡が小さく言った。


「何」


「今、温度下がったな」


「言うな。俺はまだ気づいてないことにしたかった」


 現実逃避は、社会人に残された数少ない防衛手段である。


     *


 坂本さんの家は、二度目でもやっぱり慣れなかった。


 玄関がきれいだった。


 空気が整っていた。


 そして、生活の気配があった。


 怖いくらい整っているのに、人がちゃんと暮らしている。


 たぶん、その理由は美沙さんだ。


「いらっしゃい。みなさん、お疲れさま」


 玄関で迎えてくれた美沙さんは、柔らかい色の部屋着にカーディガンを羽織っていた。


 声がやさしい。


 居酒屋の油と煙と上司の話で疲れた心に、すっと入ってくる声だった。


「夜遅くにすみません」


 俺と高岡は、ほぼ同時に頭を下げた。


「いいの。晴臣さん、今日はちゃんと先に連絡くれたものね」


「だろ」


 朝倉さんが胸を張った。


 坂本さんが横で言った。


「威張ることではない」


「進歩は褒めて伸ばせ」


「伸ばす気はない」


 美沙さんが、くすっと笑った。


 その瞬間、坂本さんの声が少し柔らかくなる。


「ミサ、無理してないか」


「大丈夫。今日はお味噌汁と、おにぎりと、少しだけ小鉢を出すくらいだから」


「十分多い」


「飲んだあとでしょう? 温かいものがあったほうがいいかなと思って」


 まただ。


 美沙さんは、誰かを押したりしない。


 強い言葉で場を支配したりもしない。


 なのに、気づいたら場の中心にいる。


 そして全員が、なんとなく逆らえない。


 坂本さんですら、少し目元を緩めている。


 怖い。


 いや、怖くない。


 すごい。


 たぶん、すごい。


 柏木くんが一歩前に出た。


「白石美沙さん」


「はい」


「柏木澄人です。先日は失礼な表現をしてしまい、申し訳ありませんでした」


 きちんと頭を下げた。


 美沙さんは、穏やかに笑った。


「この前も謝ってくれたでしょう? もう大丈夫よ」


「はい。ただ、二度目の謝罪機会があるなら、実施したほうがよいと判断しました」


 実施。


 謝罪を。


 実施。


 俺は少しだけ目を伏せた。


 言葉選びは独特だが、気持ちはちゃんとしている。


 美沙さんは、やっぱり怒らなかった。


「ありがとう。ちゃんと考えてくれたのね」


「はい。差し入れを断る際は、先に感謝を伝えるべきだと学びました」


「うん。苦手なものは、無理しなくていいのよ」


「はい」


 柏木くんはまっすぐ頷いた。


 そして、言った。


「今日は食べられます」


 俺は、動きを止めた。


 坂本さんも止まった。


 朝倉さんが、面白そうに目を細めた。


 美沙さんは、少しだけ首を傾げた。


「無理しなくていいのよ?」


「無理ではありません」


「そう?」


「はい。白石美沙さんは、もう知らない方ではありません」


 来た。


 分類変更。


 俺は心の中で頭を抱えた。


 美沙さん本人に会った。


 穏やかに受け止めてもらった。


 だから、もう知らない人ではない。


 理屈としては分かる。


 分かるのだが。


 坂本さんの周囲の温度が、静かに下がった。


「柏木」


「はい」


「距離を測れ」


「物理的距離ですか。心理的距離ですか」


「両方だ」


 怖い。


 両方だ、が怖い。


 朝倉さんが低い声で笑った。


「いいなあ、柏木くん。ほんと飽きねえな」


「飽きられないことを目的にしていません」


「分かってるって」


「分かっているなら、なぜ笑うのですか」


「面白いから」


「困ります」


 困っている。


 柏木くんが、朝倉さん相手にだけ本当に困っている。


 坂本さんの細い目には「追加修正でしょうか」と聞くくせに、朝倉さんの笑いには一歩引く。


 この新人の怖さ判定が、いまだに分からない。


     *


 リビングには、今日もシャチがいた。


 ソファの端。


 定位置。


 俺はもう驚かない。


 驚かないつもりだった。


 でも、柏木くんがシャチを見て言った。


「これは、参加者ですか」


 俺は止まった。


「違うと思う」


「では、なぜ中央に近い位置に」


「定位置らしい」


「役割があるのですか」


「たぶん、ない」


「ないのに定位置があるんですね」


 やめてくれ。


 シャチの存在意義を論理で詰めないでくれ。


 坂本さんが、味噌汁のお椀を並べながら言った。


「邪魔にならない場所に置いているだけだ」


 美沙さんが台所から笑った。


「カズくんがいつもそこに戻してくれるから、もうその子の席みたいになってるの」


「席ではない」


「でも、柏木くんが参加者かって聞くくらいには馴染んでるね」


「馴染ませていない」


 坂本さん。


 無理です。


 もう馴染んでいます。


 黒と白の丸い身体で、シャチは今日も堂々とそこにいた。


 歴史の証人みたいな顔をして。


 美沙さんが出してくれたのは、しじみのお味噌汁、小さなおにぎり、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、きゅうりの浅漬けだった。


 居酒屋の二次会の概念が、完全に浄化されている。


 胃と肝臓が泣いて喜ぶメニューだった。


「食べられるものだけでいいからね」


 美沙さんが、柏木くんに言った。


 柏木くんは、真剣に皿を見た。


「すべて食べられます」


「よかった」


「いただきます」


 柏木くんは、だし巻き卵を一口食べた。


 俺は、なぜか息を止めた。


 坂本さんも見ていた。


 朝倉さんも見ていた。


 高岡も見ていた。


 シャチも見ている気がした。


「おいしいです」


 柏木くんが言った。


 まっすぐな声だった。


 美沙さんは、ふわっと笑った。


「よかった」


「味が穏やかです」


「そう?」


「はい。強制力がありません」


 褒め方。


 褒め方が独特。


 俺は箸を止めた。


 でも美沙さんは、また笑った。


「ふふ。ありがとう。たぶん、褒めてくれたのよね」


「はい。褒めました」


 柏木くんは、次にお味噌汁を飲んだ。


「温かいです」


「飲んだあとだから、少し薄めにしたの」


「判断が適切です」


 褒め方。


 業務評価か。


 美沙さんは怒らない。


 押しつけない。


 否定しない。


 ただ、自然に受け止めて、場を柔らかくする。


 坂本さんの声が低くなった。


「柏木」


「はい」


「感想は簡潔でいい」


「承知しました」


 朝倉さんが低く笑った。


「坂本、嫉妬?」


「違う」


 早い。


 否定が早い。


 でも、声が少し冷たい。


 俺は味噌汁を飲んだ。


 温かい。


 とても温かい。


 なのに、リビングの一角だけ寒い。


     *


 インターホンが鳴ったのは、柏木くんが二つ目のおにぎりに手を伸ばした時だった。


 坂本さんが立ち上がるより早く、美沙さんが言った。


「あ、仁かな」


 俺の背筋が伸びた。


 仁くん。


 来るのか。


 やはり来るのか。


 白石仁。


 坂本さんの細い目を怖がらない人間。


 姉さんガチ勢。


 前回、柏木くんの「他人の手作り」発言で氷河期を発生させた人。


 ドアが開く音がした。


 今回は蹴らなかった。


 えらい。


 いや、普通だ。


「姉さん、無理してない?」


 リビングに入ってきた仁くんの第一声は、それだった。


 ブレない。


「してないよ。今日はみんな、ちゃんと手伝ってくれてるし」


「坂本さん、手伝ってますか」


「手伝っている」


「姉さん基準で?」


「俺基準だ」


「だめじゃないですか」


「だめではない」


 いつものやり取りだった。


 坂本さん相手に、普通に言う。


 そして坂本さんも普通に返す。


 何度見ても、俺には慣れない。


 仁くんはリビングに入って、朝倉さんを見た。


「朝倉さん、またですか」


「今回は事前許可済み」


「姉さんに?」


「そう」


「坂本さんには?」


 朝倉さんは黙った。


 仁くんが、ものすごく冷たい目をした。


「最低限、家主にも取ってください」


「はい」


 朝倉さんが素直に返事をした。


 強い。


 仁くんも強い。


 この家、強い人が多すぎる。


 そして仁くんの視線が、柏木くんで止まった。


 止まった。


 俺の心臓も止まりかけた。


 柏木くんは、だし巻き卵を箸で持っていた。


 食べる直前だった。


 仁くんの目が細くなる。


 坂本さんとは違う細さ。


 冷気を帯びた、姉さん関連の細さ。


「食べるんですか」


 来た。


 俺は心の中で避難訓練を始めた。


 柏木くんは、箸を止めて、まっすぐ答えた。


「はい」


「姉さんの手料理を」


「はい」


「この前は、他人の手作りのものは食べられないって言いましたよね」


「はい」


「食べるんですか」


「はい。白石美沙さんは、もう知らない方ではありません」


 温度が下がった。


 分かりやすく下がった。


 俺は本気で、床暖房の有無を確認したくなった。


 仁くんの表情がすっと消えた。


 坂本さんの目も静かに細くなった。


 二方向から寒い。


 何だこれは。


 クロス氷河期か。


「知らない方ではないと、食べるんですか」


「はい」


「姉さんを分類更新したんですか」


「表現としては、そうなります」


「表現としては」


 仁くんの声が低い。


 柏木くん。


 やめろ。


 正確に答えれば答えるほど、温度が下がるタイプの会話がある。


 今がそれだ。


 美沙さんが、そっと笑った。


「仁」


「姉さん」


「食べられるものがあってよかったじゃない」


 その声は、本当に穏やかだった。


 怒らない。


 押さえつけない。


 でも、その一言で、空気が少しだけ動いた。


 仁くんが美沙さんを見る。


 坂本さんも、わずかに視線を落とす。


 朝倉さんは、何も言わずに味噌汁を飲んだ。


 珍しい。


 黙ることがあるんだ。


「前は食べられなかったけど、今日は食べられるなら、私は嬉しいよ」


 美沙さんは、柏木くんのほうを見た。


「無理してないんでしょう?」


「はい。無理ではありません」


「なら、よかった」


 柔らかい。


 でも、強い。


 仁くんはまだ不満そうだった。


 かなり不満そうだった。


 だが、美沙さんがそう言うなら、強くは出られない。


「……姉さんがいいなら」


 出た。


 最強の結論。


 姉さんがいいなら。


 この家の一部ルールは、それで閉じる。


 柏木くんは、真面目な顔で仁くんを見た。


「白石仁さん」


「何ですか」


「前回は、言葉を間違えました。すみませんでした」


 仁くんは少しだけ黙った。


「……それは、もう聞きました」


「はい。ですが、僕の発言によって室温が下がったため、再発防止の必要があります」


「室温」


「はい」


「室温じゃないです」


「では、場の温度ですか」


「そういう問題でもないです」


 仁くんが額に手を当てた。


 分かる。


 その気持ちは分かる。


 柏木くんは続けた。


「白石美沙さんは、仁さんと坂本さんにとって大事な方だと理解しました」


 リビングが、一瞬だけ静かになった。


 坂本さんが柏木くんを見る。


 仁くんも見る。


 柏木くんは、本当にまっすぐだった。


「なので、今後は分類ではなく、関係性を先に考慮します」


 言い方は硬い。


 でも、言っていることは悪くなかった。


 むしろ、かなりちゃんとしている。


 仁くんは少しだけ目を伏せた。


「……分かってるならいいです」


 よかった。


 戻った。


 少し戻った。


 俺は心の中で拍手した。


 高岡が小さく言った。


「学習してるな」


「方向が独特だけどな」


「でも、悪くない」


 俺は高岡を見た。


「坂本さんみたいに言うな」


「言ってみたかった」


 高岡、お前。


     *


 その後の二次会は、意外にも穏やかに進んだ。


 いや、穏やかの基準がおかしくなっているだけかもしれない。


 朝倉さんは、美沙さんの胡麻和えを食べながら、


「これ、うまい」


 と低い声で言い、仁くんに、


「朝倉さん、食べるならちゃんと座ってください」


 と怒られていた。


 懐かれている。


 怒られているのに、懐かれている。


 坂本さんは、おにぎりを二つ目まで食べたところで、美沙さんに、


「カズくん、ゆっくり食べて」


 と言われ、ほんの少しだけ手を止めた。


 会社で資料を切る速度と、家でおにぎりを食べる速度は、別にしてほしい。


 高岡は静かに味噌汁を飲み、


「ありがたいな」


 と呟いた。


 それは本当にそうだった。


 柏木くんは、だし巻き卵を食べ終えたあと、美沙さんに言った。


「白石美沙さん」


「はい」


「また、食べてもよろしいでしょうか」


 俺は止まった。


 仁くんも止まった。


 坂本さんの箸も止まった。


 朝倉さんだけが、にやっと笑った。


 美沙さんは、少し驚いたあと、ふわっと笑った。


「もちろん。食べられるものがあれば、いつでも」


「ありがとうございます」


 柏木くんは、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


 本当に、少しだけ。


 でも分かった。


 懐いた。


 これは懐いた。


 柏木澄人が、美沙さんに懐いた。


 俺は、目の前で新しい生態系が成立する瞬間を見た。


 坂本さんが、静かに言った。


「柏木」


「はい」


「頻度を考えろ」


「訪問頻度ですか。食事頻度ですか」


「全部だ」


 本日二回目の、全部だ。


 仁くんが低く言った。


「姉さんは忙しいんです」


「はい。負担はかけません」


「本当に?」


「はい。食べるだけなら負担でしょうか」


「負担です」


「では、片付けをします」


「そういうことでもないです」


 仁くんが頭を抱えた。


 気持ちは分かる。


 ものすごく分かる。


 でも柏木くんは悪気がない。


 そして、片付けをする気は本当にある。


 素直で、いい子だ。


 いい子なのに、場の温度を下げる。


 厄介だ。


 美沙さんは、そんな二人を見て、また柔らかく笑った。


「仁、ありがとう。でも大丈夫よ。柏木くん、ちゃんと聞いてくれる人だと思うから」


「姉さん」


「ね?」


 美沙さんがそう言うと、仁くんは黙った。


 坂本さんも黙った。


 朝倉さんが小さく笑った。


「美沙ちゃん、強いなあ」


「強くないわよ」


「いや、強い」


 俺もそう思った。


 強い。


 でも、怖い強さではない。


 相手を押さえつける強さではなく、怒りを飲み込んで我慢する強さでもない。


 その人のままでいて、場をやわらかく変えてしまう強さ。


 坂本さんが美沙さんの前で柔らかくなる理由が、少し分かる気がした。


 少しだけ。


     *


 帰り際。


 玄関で靴を履きながら、柏木くんが美沙さんに頭を下げた。


「本日はありがとうございました。食事、とてもおいしかったです」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


「はい。また機会があれば、よろしくお願いいたします」


 坂本さんの背後の空気が静かに冷えた。


 仁くんの背後の空気も静かに冷えた。


 ダブルである。


 俺はもう、寒暖差に身体が追いつかない。


 美沙さんは、その冷気に気づいているのかいないのか、ふふっと笑った。


「無理のない機会があればね」


「はい。無理のない機会を待ちます」


 待つんだ。


 柏木くん、待つんだ。


 朝倉さんが、玄関で笑いをこらえていた。


「坂本、仁」


「何だ」


「何ですか」


「顔、似てるぞ」


「似てない」


「似てません」


 同時だった。


 似ている。


 かなり似ている。


 俺は言わなかった。


 命は大事だ。


 外に出ると、夜風が少し冷たかった。


 でも、胃のあたりは温かかった。


 しじみのお味噌汁と、だし巻き卵と、美沙さんの柔らかい声のせいだと思う。


 高岡が隣で言った。


「今日も濃かったな」


「濃かった」


「柏木、懐いたな」


「懐いたな」


「坂本さんと仁くん、大変だな」


「俺も大変だよ」


「お前は見てるだけだろ」


「見てるだけで削れるものがあるんだよ」


 高岡は少し笑った。


 俺は駅へ向かいながら、今日の出来事を頭の中で整理しようとした。


 坂本さんを怖がらない新人。


 朝倉さんは苦手。


 美沙さんには懐く。


 そして、美沙さんの手料理は食べる。


 この新人の分類が、もう分からない。


 でも。


 柏木くんが、前より少しだけ人の大事なものを考えるようになって。


 仁くんが、不満そうにしながらもそれを見ていて。


 坂本さんが、静かに圧を出しながらも、最後まで何も否定しなくて。


 美沙さんが、全部をやわらかく受け止めていた。


 それはたぶん、少しだけいい夜だった。


 少しだけ。


 いや、かなり疲れたけど。


 翌営業日。


 坂本さんは俺の資料を見て、いつも通り目を細めた。


「藤谷」


「はい」


「この導線は、昨日の話を聞いていなかったのか」


 俺の背中に冷たいものが走った。


 その横で、柏木くんが小さく言った。


「藤谷さん、場の温度が下がっています」


「分かってる」


 俺は思った。


 家では海苔を取られ、二次会では美沙さんの手料理を静かに守り、柏木くんに圧を出していた坂本さん。


 でも仕事では、普通に怖い。


 やっぱり坂本さんだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ