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14/30

朝倉さんは焼き菓子が好き

 白石仁くんが帰ったあと、フロアにはようやく平和が戻った。


 たぶん。


 少なくとも、俺の体感温度は少し戻った。


 さっきまでここには氷河期が来ていた。


 原因は、白石美沙さんの焼き菓子。


 正確には、柏木澄人くんがそれを見て、


「僕、他人の手作りのものは食べられません」


 と言ったことだった。


 あれはすごかった。


 白石仁くんの周囲の温度が二度下がり、坂本さんの一言でさらに下がった。


 俺は今日、人間関係の地軸が傾くところを見た。


 もう帰りたい。


 しかし、まだ終業時間ではない。


 社会人はつらい。


「藤谷」


 隣で高岡が言った。


「何」


「顔が帰宅してる」


「心だけ先に帰ってる」


「戻してこい」


「無理」


 俺は机に置かれた空の袋を見た。


 美沙さんの焼き菓子は、ほぼなくなっていた。


 柏木くんは食べなかった。


 俺と高岡とチームの数人が食べた。


 坂本さんは、無言で複数個食べた。


 複数個。


 あえて数は言わない。


 言うと、何かが起きそうだからだ。


 その時だった。


「おー」


 低い声が、フロアの入口からした。


 来た。


 声だけで分かる。


 朝倉さんだ。


 朝倉陽翔さんは、相変わらず来る時の気配が雑だった。


 ドアを開ける音、足音、声の低さ、全部の情報量が多い。


 柏木くんが、わずかに背筋を固くした。


 坂本さんのレビューでは一切見せなかった反応である。


 やっぱり苦手なんだな。


 なぜ坂本さんは平気で朝倉さんは苦手なのか、俺にはまだ分からない。


 分かりそうで、分からない。


「坂本」


 朝倉さんはまっすぐ坂本さんの席へ来た。


「俺の分、残ってる?」


 何の話だ。


 いや、分かる。


 分かってしまう。


 焼き菓子だ。


 朝倉さんの視線は、坂本さんの机の上にある空の袋に向いていた。


 坂本さんは画面から目を離さずに言った。


「ない」


「ない?」


「ない」


「美沙ちゃん、俺の分もあるって言ってたぞ」


 俺は少しだけ目を伏せた。


 美沙さん。


 朝倉さんにも連絡していたのか。


 本当に周りを見る人だ。


 そして、その人の厚意は今、空の袋になっている。


 主に坂本さんの手によって。


 朝倉さんが坂本さんを見た。


「お前、食ったな」


 坂本さんは沈黙した。


 沈黙。


 それは、ほぼ肯定だった。


 高岡が小さく言った。


「藤谷」


「何」


「黙秘してる」


「してるな」


 朝倉さんが腕を組んだ。


 低い声が、少しだけ拗ねた響きになる。


「坂本、お前さあ。俺の分まで食うか?」


「名前は書いてなかった」


「小学生か」


 高岡が咳をした。


 咳ではない。


 笑いだ。


 俺も危なかった。


 低くて渋い声で拗ねている大人。


 破壊力がある。


 朝倉さんは空の袋を一つ持ち上げた。


「これ、ミサちゃんのだろ」


「そうだ」


「うまかっただろ」


「普通だ」


 嘘だ。


 俺は思った。


 普通なら、あんなに無言で二個も三個も取らない。


 いや、三個目は未遂だったか。


 仁くんに止められていた。


 未遂も含めたら、かなりの情状がある。


「普通の顔じゃなかったぞ」


 朝倉さんが言う。


 坂本さんの目が細くなった。


「見ていたのか」


「見てなくても分かるわ。お前、昔から好きなもん食う時、無駄に静かになる」


 昔から。


 出た。


 朝倉さんの「昔から」。


 この人は時々、爆弾を落とす。


 しかも本人は爆弾だと思っていない。


 俺は心の中で身構えた。


 しかし、坂本さんは特に動じなかった。


「知らない」


「知らない顔すんな」


「仕事中だ」


「俺の焼き菓子の話も仕事中に発生してる」


「発生させたのはお前だ」


「食ったのはお前だろ」


 会話がくだらない。


 くだらないのに、なぜか聞いてしまう。


 坂本さんと朝倉さんのこういうやり取りは、同期というより、小学生の頃から続いている何かに見える。


 大人なのに。


 いや、大人だからこそなのかもしれない。


 分からない。


「美沙ちゃんに言う」


 朝倉さんがスマホを取り出した。


 言うんだ。


 本当に言うんだ。


 俺は思わず見てしまった。


 朝倉さんの指が画面を叩く。


「何て送るんですか」


 聞いてしまったのは、俺だ。


 なぜ聞いた。


 自分でも分からない。


 朝倉さんは平然と答えた。


「坂本に俺の焼き菓子食われたって」


「そのままですね」


「事実だからな」


 坂本さんが静かに言った。


「余計なことをするな」


「お前が余計に食ったんだろ」


 正論。


 今回は朝倉さんのほうが正論かもしれない。


 珍しい。


 いや、珍しいと言っていいのか分からない。


 数秒後、朝倉さんのスマホが震えた。


 返信が早い。


 朝倉さんは画面を見て、少しだけ表情を緩めた。


 あ。


 これは。


 美沙さんからだ。


 たぶん。


「何て?」


 高岡が聞いた。


 高岡も聞くんだ。


 朝倉さんは画面を読み上げた。


「『晴臣さんの分、ちゃんと家にもあるよ。今日はカズくんと待ち合わせで外食する予定だから、会社に寄って持って行くね』」


 フロアの空気が、変わった。


 まず、坂本さんの肩が一瞬だけ止まった。


 次に、俺の心臓が少し跳ねた。


 そして、柏木くんが顔を上げた。


 会社に来る。


 美沙さんが。


 今日。


 終業後に。


 つまり。


 柏木くんが、美沙さん本人に会う可能性がある。


 俺は柏木くんを見た。


 柏木くんも、俺を見た。


「藤谷さん」


「はい」


「白石さんのお姉さまで、坂本さんの恋人の方が来られるということですか」


「そうだね」


「直接お会いしていない方、ではなくなりますね」


 言い方。


 頼む。


 本人の前でそれを言わないでくれ。


 朝倉さんが面白そうに柏木くんを見た。


「何、お前、美沙ちゃんに会うの?」


 柏木くんの背筋が、ほんの少し固くなる。


「予定としては、同じ空間にいる可能性があります」


「言い方が硬いな」


「柔らかくする必要がありますか」


「ある時もある」


「検討します」


「出た、検討」


 朝倉さんが笑った。


 柏木くんは笑わなかった。


 やっぱり苦手そうだ。


 坂本さんが低く言った。


「朝倉。柏木で遊ぶな」


「遊んでない。観察」


「それを遊ぶと言う」


「坂本、お前だって面白いと思ってるだろ」


「思っていない」


 嘘だ。


 たぶん少しは思っている。


 坂本さんは柏木くんを「悪くない」と言ったのだ。


 坂本さんの「悪くない」は、かなり良い評価である。


 柏木くんは真面目な顔で言った。


「先ほど、僕は白石さんのお姉さまに失礼な表現をしました」


 フロアが少しだけ静かになった。


 焼き菓子事件の残響が戻ってくる。


 俺の体感温度が下がる。


 もうやめてほしい。


 朝倉さんは、少しだけ目を細めた。


 坂本さんとは違う。


 雑なようで、変に逃がさない目だった。


「何て言ったんだ」


「他人の手作りのものは食べられません、と」


「あー」


 朝倉さんは一瞬で察した顔をした。


 さすがだ。


 情報量が多いだけではない。


 こういうところは妙に早い。


「仁、怒っただろ」


「はい」


「坂本も?」


「はい」


「だろうな」


 朝倉さんは納得したようにうなずいた。


 そして、空の袋を見た。


「で、その菓子は坂本が食ったと」


「はい」


「坂本、お前さあ」


「何だ」


「怒りながら食うなよ」


 俺は耐えた。


 高岡も耐えた。


 たぶん。


 坂本さんは、かなり冷たい目で朝倉さんを見た。


「怒ってはいない」


「怒ってない顔で三つ食ったのか」


「二つだ」


「未遂入れたら三つだろ」


「未遂は数えない」


「裁判かよ」


 もうだめだ。


 高岡が横で肩を震わせている。


 俺も口元が危ない。


 柏木くんだけが、真剣に言った。


「未遂は数量に含めないのが一般的だと思います」


「柏木くん!」


 俺は思わず止めた。


 そこに入らないで。


 今、その法律みたいな話をしないで。


 朝倉さんは、柏木くんを見てにやりと笑った。


「お前、ほんと面白いな」


「面白さを目的にしていません」


「知ってる」


「では、なぜ毎回面白いと言うんですか」


「面白いから」


「困ります」


 このやり取り、もう二度目だ。


 柏木くんが朝倉さんを苦手な理由が、回を重ねるごとに分かってくる。


 朝倉さんは距離が近い。


 反応を楽しむ。


 退路をふわっと塞ぐ。


 坂本さんのように論理で詰めるのではない。


 人懐っこさで逃げ場をなくす。


 これはこれで怖い。


 柏木くんにとっては、たぶん坂本さんより厄介だ。


     *


 美沙さんが来ることになってから、フロアには微妙な緊張が残った。


 いや、緊張しているのは主に俺だけかもしれない。


 坂本さんはいつも通り仕事をしている。


 ただし、少しだけ時計を見る回数が増えた。


 見逃さなかった。


 藤谷直樹、そういうところばかり見てしまう。


 朝倉さんは、なぜか当然のようにうちのフロアに居座っていた。


「朝倉さん、戻らなくていいんですか」


 俺が聞くと、朝倉さんは椅子に雑に座ったまま言った。


「焼き菓子待ち」


「仕事は」


「してる」


「どこで」


「心で」


 高岡が小さく言った。


「便利な言葉だな」


「高岡、真似すんなよ」


「しません」


 坂本さんが画面を見たまま言った。


「朝倉、自分のフロアに戻れ」


「美沙ちゃん来たら戻る」


「来る前に戻れ」


「俺の菓子が来る前に戻れるか」


「子どもか」


「お前に言われたくない。人の分食った男」


 今日の朝倉さんは強い。


 焼き菓子を失った悲しみが、謎の正当性を与えている。


 柏木くんは、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。


「藤谷さん」


「何?」


「朝倉さんは、焼き菓子がかなり好きなのですか」


「たぶん、好きなんだと思う」


「食べ物への執着でしょうか」


「本人の前で言わないほうがいい」


「分かりました」


 分かってくれてよかった。


「ただ」


「ただ?」


「美沙さんの焼き菓子だから、という要素もあるかもしれない」


 俺が言うと、柏木くんは少し考えた。


「味だけでなく、作った人との関係性が価値に影響するということですか」


「うん。そういうこと」


「なるほど」


 柏木くんは、真面目にうなずいた。


 学習している。


 焼き菓子事件を経て、確実に何かを学習している。


 方向が少し独特だが。


「では、僕は先ほど、その価値の一部を理解せずに断ったということですね」


 俺は少し驚いた。


 柏木くんの声は、いつも通り澄んでいた。


 でも、少しだけ慎重だった。


「そうかもしれない」


「分かりました」


 柏木くんは、自分の手元を見た。


「本人にお会いしたら、改めて謝ります」


「うん。それがいいと思う」


 いい子だ。


 やっぱりいい子だ。


 言葉は変だし、空気の読み方も変だし、朝倉さんを苦手がるくせに坂本さんを怖がらないけど、悪い子ではない。


 むしろ、素直すぎる。


 素直なのに強い。


 強いのに、時々危ない。


 新人教育って、こんなに難しかっただろうか。


     *


 終業時間が近づいたころ、坂本さんのスマホが震えた。


 坂本さんが画面を見る。


 ほんの一瞬、目元が柔らかくなった。


 見てしまった。


 また見てしまった。


 そして画面に表示された名前も、うっかり見えてしまった。


 ミサちゃん


 やめてほしい。


 慣れない。


 何度見ても、慣れない。


 坂本さんが短く返信する。


 朝倉さんがすぐに反応した。


「美沙ちゃん?」


「そうだ」


「来た?」


「下に着いた」


「よし」


 朝倉さんが立ち上がった。


 なぜあなたが一番嬉しそうなんですか。


 坂本さんも立ち上がった。


「俺が行く」


「俺も行く」


「来るな」


「俺の焼き菓子だぞ」


「会社の受付で騒ぐな」


「騒がねえよ。焼き菓子を受け取るだけだ」


「その言い方がすでに騒がしい」


 高岡が静かに言った。


「藤谷、見に行くか」


「行かない」


「本当に?」


「……行く」


 行くに決まっている。


 ここまで来て見ない選択肢があるだろうか。


 いや、ない。


 柏木くんも立ち上がった。


「僕もご挨拶したほうがよいでしょうか」


 俺は一瞬迷った。


 しかし、ここで逃げても、いずれ会う。


 そして美沙さん本人は、たぶん怒らない。


 むしろ今が一番いい。


「行こう」


 俺が言うと、柏木くんはうなずいた。


「はい」


 エレベーターホールへ向かう途中、朝倉さんが低い声で言った。


「柏木」


「はい」


「美沙ちゃん、怖くないから大丈夫だぞ」


 柏木くんは少し考えた。


「怖い可能性は想定していません」


「じゃあ何を想定してんの」


「自分の失礼を訂正できるかどうかです」


 朝倉さんは一瞬黙った。


 それから、少しだけ笑った。


「お前、そこはちゃんとしてんだな」


「はい。間違いは修正します」


 朝倉さんは坂本さんを見た。


「坂本、いい新人じゃん」


 坂本さんは前を向いたまま言った。


「悪くない」


 出た。


 坂本さんの「悪くない」。


 柏木くんは、少しだけ嬉しそうにした。


 俺は、なぜか少しだけ悔しかった。


 俺は三年かかったのに。


     *


 一階のロビーに、美沙さんはいた。


 柔らかい色のコートを着て、手に小さな紙袋を持っている。


 会社の明るい照明の下でも、空気が少しだけやわらかく見えた。


 坂本さんが近づく。


 その瞬間、声が変わった。


「ミサ」


 やわらかい。


 知っている。


 知っているのに、毎回驚く。


 美沙さんは坂本さんを見て、ふわっと笑った。


「カズくん、お疲れさま」


 ロビーの空気が変わった。


 俺の心拍数も変わった。


 隣で高岡が小さく息を吐いた。


 朝倉さんは完全に平気な顔で片手を上げた。


「美沙ちゃん、俺の焼き菓子」


「晴臣さん、ほんとに楽しみにしてくれてたのね」


「楽しみにしてたのに、坂本が食った」


「カズくん?」


 美沙さんが坂本さんを見る。


 坂本さんは少しだけ視線を逸らした。


 逸らした。


 坂本さんが。


 俺は見た。


「……名前は書いてなかった」


「もう」


 美沙さんは困ったように笑った。


 怒らない。


 でも、ちゃんと「もう」と言う。


 その声が、また柔らかい。


 朝倉さんは紙袋を受け取って、満足そうに中を覗いた。


「これこれ」


「今日は多めに入れておいたから、みんなで食べてね」


「いや、これは俺の分」


「晴臣さん」


「はい」


 朝倉さんが素直に返事をした。


 強い。


 美沙さん、強い。


 坂本さんを柔らかくし、朝倉さんを素直にさせる。


 何者なんだ。


 いや、美沙さんだ。


 白石美沙さんだ。


 その時、柏木くんが一歩前に出た。


 背筋が伸びている。


「白石さん」


 美沙さんが柏木くんを見た。


「はい」


「柏木澄人と申します。本日は、焼き菓子を持ってきてくださったにもかかわらず、失礼な断り方をしました。申し訳ありません」


 ロビーの空気が、少しだけ止まった。


 美沙さんは一瞬きょとんとしたあと、すぐにやさしく笑った。


「ああ、仁から少し聞いたわ。あなたが柏木くんなのね」


「はい」


「苦手なものは、無理しなくていいのよ」


 柏木くんが、ほんの少しだけ目を開いた。


「……怒らないんですね」


「怒らないわよ」


「失礼な表現だったと思います」


「そうね。仁はちょっとびっくりしたと思う」


「はい」


「でも、ちゃんと謝ってくれたから」


 美沙さんは、紙袋を胸の前で持ち直した。


「それに、苦手なものを無理して食べるほうが、私は心配になるかな」


 柏木くんは黙った。


 いつものように即答しない。


 坂本さんが、静かに柏木くんを見ていた。


 朝倉さんも、珍しく口を挟まなかった。


 俺は思った。


 あ。


 これは。


 柏木くんの中で、何かが分類変更されている。


「白石さんは」


 柏木くんが言った。


「はい」


「否定の仕方が、穏やかですね」


 褒め方が独特。


 俺は思った。


 でも、美沙さんは笑った。


「そう?」


「はい。情報処理が柔らかいです」


 やっぱり独特。


 朝倉さんが吹き出した。


 坂本さんの目が少し細くなった。


 俺は背筋を伸ばした。


 美沙さんは、ふふ、と笑った。


「ありがとう。たぶん、褒めてくれたのよね」


「はい。褒めました」


 柏木くんは真面目に言った。


 美沙さんはまた笑った。


 その笑い方が、とても自然だった。


 怒らない。


 無理に受け入れさせない。


 でも、距離を遠ざけもしない。


 柏木くんが少しだけ安心したように見えた。


 その横で、坂本さんが静かに言った。


「柏木」


「はい」


「距離を測れ」


 柏木くんは振り向いた。


「物理的距離ですか、心理的距離ですか」


 聞くな。


 俺は心の中で叫んだ。


 朝倉さんが声を出して笑った。


 美沙さんは首を傾げた。


 坂本さんは、とても静かに目を細めていた。


 俺は思った。


 焼き菓子事件は終わった。


 たぶん。


 でも、新しい事件が始まった。


 柏木澄人が、美沙さんに懐くかもしれない事件。


 そしてそれはたぶん、仁くんと坂本さんの温度を、また下げる。


 俺の世界観の修復は、まだ終わりそうにない。

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