部屋の温度が下がった日
その日、白石仁くんが会社に来ると聞いた時点で、俺は少し身構えていた。
白石仁。
大学生。
Webデザインの仕事もしている。
そして、坂本さんの細い目を怖がらない人間。
この時点で、俺の中ではかなり危険人物である。
いや、仁くん本人が危険というわけではない。たぶん。
たぶん、いい子だ。
姉である白石美沙さんを大切にしていて、頭もよくて、仕事もできる。
坂本さんのことも、実力としては認めている。
ただし。
美沙さんのことになると、温度が変わる。
上がるのではない。
下がる。
怒りが熱ではなく、冷気として出るタイプだった。
「藤谷」
隣で高岡が言った。
「朝から顔が寒い」
「顔が寒いって何」
「これから白石仁が来ることを考えてる顔」
「分かるのかよ」
「分かる」
最近、高岡の俺に対する読解精度が上がっている気がする。
怖い。
俺は小さく息を吐いた。
「いや、だってさ。仁くん来るんだろ」
「来るな」
「坂本さんいるだろ」
「いるな」
「柏木くんもいるだろ」
「いるな」
「何も起きないと思うか?」
高岡は少し考えた。
「起きるだろうな」
「だよな」
即答しないところに、高岡の優しさを感じた。
いや、感じていいのか分からない。
柏木澄人。
今年入ってきた新人。
坂本さんのレビューを「早めに気づけて助かりました」と受け止める、怖さの翻訳機能がまだ入っていない男。
坂本さんが、
「このまま進めると、三日後に破綻する」
と言っても、
「三日前に分かってよかったです」
と返す男。
強い。
素直なのに強い。
いや、強いというより、ダメージ判定の場所が違う。
そんな柏木くんと、姉さんガチ勢の白石仁くん。
この二人が同じ空間にいる。
何も起きないはずがない。
*
午後三時過ぎ。
会議室での打ち合わせを終えた仁くんが、坂本さんと一緒にフロアに戻ってきた。
今日の仁くんは、少しきれいめのジャケットを着ていた。
大学生というより、若い外部スタッフという雰囲気だ。
黙っていれば、優秀そうな青年である。
黙っていれば。
「坂本さん」
仁くんが言った。
「さっきの仕様変更、デザイン側に戻すなら今日中にください。明日の朝だと、僕の予定がずれます」
「分かっている」
「前回も“分かっている”って言って、二十三時に送ってきましたよね」
「今回は早く送る」
「信用してません」
言う。
坂本さんに、普通に言う。
しかも坂本さんも、特に怒らない。
「今回は藤谷に確認させてから送る」
「藤谷さんに負荷かけないでください」
「俺に言うな」
俺?
なぜ今、俺の名前が出た。
俺は何もしていない。
高岡が隣で小さく言った。
「巻き込まれてるな」
「見れば分かる」
仁くんは俺たちのほうを見ると、少し表情を緩めた。
「あ、藤谷さん、高岡さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
礼儀は正しい。
普通にいい子だ。
坂本さん相手の時だけ、距離感が謎になる。
「今日、姉さんから預かってきたものがあるんです」
仁くんはそう言って、手に持っていた紙袋を掲げた。
フロアの空気が、少しだけ明るくなる。
白石美沙さんから。
その単語には、このチームの空気を変える力がある。
少なくとも、坂本さんの周辺の空気は変わる。
坂本さんの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
藤谷直樹、見逃さなかった。
いや、見逃したかった。
「姉さんが、みなさんで食べてくださいって。焼き菓子です」
「え、美沙さんの?」
思わず声が出た。
仁くんがうなずく。
「はい。昨日焼いたみたいで。坂本さんだけに渡すと、どうせ会社で食べないで持って帰るから、みなさんでって」
坂本さんは紙袋を見た。
「……余計なことを」
声が柔らかい。
言葉は、余計なことを、なのに、声が柔らかい。
藤谷直樹、処理落ちしかける。
高岡が横で静かに言った。
「いい人だな、美沙さん」
「ほんとにな」
俺は心からうなずいた。
残業の日に全員分の夕食を差し入れてくれた時も思ったが、美沙さんは本当に自然に周りを見る人だ。
ありがたい。
非常にありがたい。
仁くんは紙袋から透明な袋に入った焼き菓子を取り出した。
小さな丸いクッキーと、細長いパウンドケーキのようなものが入っている。
丁寧に包まれていた。
ラベルには、手書きで「みなさんでどうぞ」と書いてある。
字までやさしい。
何だこの平和な時間は。
俺は少し油断した。
してしまった。
「ありがとうございます」
高岡が一つ受け取る。
「いただきます」
俺も受け取った。
「わあ、いい匂いですね」
同じチームの先輩も嬉しそうに言った。
フロアに、ほんのり甘い香りが広がる。
その瞬間だった。
「すみません」
柏木くんの声がした。
澄んだ声だった。
嫌な予感がした。
俺は、ゆっくり柏木くんを見た。
柏木くんは、いつものまっすぐな顔で言った。
「僕、他人の手作りのものは食べられません」
空気が止まった。
いや。
止まっただけではない。
下がった。
温度が。
確実に。
仁くんの表情が、すっと消えた。
「……他人?」
第一寒波。
到来。
俺は心の中で、何かの警報が鳴るのを聞いた。
違う。
柏木くん。
言っていること自体は、分からなくはない。
手作りが苦手な人はいる。
衛生面が気になる人もいる。
心理的に抵抗がある人もいる。
それはいい。
無理に食べる必要はない。
ただ。
今。
その言い方。
相手。
状況。
全部だめだ。
「柏木くん」
俺は小さく声を出した。
しかし柏木くんは、まだ危険を察知していなかった。
「申し訳ありません。お気持ちはありがたいのですが、僕は直接面識のない方の手作り食品は避けています」
丁寧。
丁寧なのに、燃料。
いや、冷却剤。
仁くんの周囲の温度がさらに下がった気がした。
「直接面識のない方」
「はい」
「姉さんが」
「はい」
「直接面識のない方」
「現時点では、そうなります」
正確に言い直せばいいと思っている。
違う。
そういう問題ではない。
俺は高岡を見た。
高岡は焼き菓子を手に持ったまま、口に運ぶタイミングを完全に失っていた。
珍しい。
高岡が迷っている。
それほどの寒波だった。
柏木くんは、少し考えたあと、なぜか坂本さんのほうを向いた。
やめろ。
そっちに振るな。
そこは安全地帯じゃない。
「坂本さんも、無理に食べる必要はないと思われますよね」
俺は内心で叫んだ。
やめろ。
やめてくれ。
今そこに同意を求めるな。
坂本さんは、柏木くんを見た。
目が細くなった。
いつものレビューの目ではなかった。
もっと静かだった。
静かすぎた。
「俺の彼女が作った菓子だが」
第二寒波。
氷河期、開始。
俺は本気で、空調の設定温度を確認したくなった。
違う。
これは空調ではない。
人間関係の地軸が傾いた。
柏木くんは、そこでようやく少しだけ瞬きをした。
「……そうでしたか」
そうでしたか。
そうでしたか、ではない。
いや、本人としてはたぶん、情報が更新されたのだろう。
他人の手作りのもの。
直接面識のない方。
坂本さんの彼女。
分類変更。
そういう顔だった。
違う。
分類の話ではない。
仁くんが静かに言った。
「姉さんの焼き菓子を、他人の手作りって言ったんですか」
「白石さんのお姉さまで、坂本さんの恋人であることは理解しました。ただ、僕にとってはまだ直接お会いしていない方なので」
「まだ言う」
仁くんの声が低くなった。
俺は思った。
誰か。
誰か暖房を入れてくれ。
いや、暖房でどうにかなる寒さではない。
これは、心の防寒具がいる。
高岡が小さく言った。
「藤谷」
「何」
「食べるか、置くか迷ってる」
「今は置け」
「だよな」
高岡がそっと焼き菓子を机に置いた。
その動きすら慎重だった。
*
坂本さんは、しばらく柏木くんを見ていた。
仁くんは、紙袋を持つ手に少しだけ力を入れている。
柏木くんは、さすがに何かを感じ取ったらしい。
「……すみません。僕は、一般論として申し上げました」
「一般論で、姉さんを他人扱いしたんですか」
「表現を誤りました」
謝った。
柏木くんが謝った。
藤谷直樹、少しだけ希望を持った。
いける。
ここからなら、まだ戻れる。
高岡が小さく言った。
「初めて危険を認識したな」
「遅いんだよ」
俺は小声で返した。
坂本さんが口を開いた。
「柏木」
「はい」
「食べられないものを無理に食べる必要はない。それは正しい」
柏木くんの表情が少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます」
早い。
安心するのが早い。
坂本さんは続けた。
「ただし、相手の厚意を処理する言葉を間違えた」
「……はい」
「手作りのものが苦手なら、そう言えばいい。相手を“他人”と分類して口に出す必要はない」
「承知しました」
「それから」
坂本さんの目がさらに細くなった。
俺は背筋を伸ばした。
柏木くんも、たぶん俺の心理的安定のために、少しだけ身構えた。
前に頼んだやつだ。
実施している。
そこは偉い。
「白石さんは、俺にとって他人ではない」
うわ。
言った。
静かに、はっきり言った。
俺は見てはいけないものを見た気がした。
仁くんの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
怒っているのに、そこだけ否定できない顔だった。
そうだろうな。
坂本さんが美沙さんを大切にしていることは、仁くんも分かっているのだ。
ただ、腹は立つ。
その顔だった。
「……それは、知ってます」
仁くんは小さく言った。
「でも、姉さんを雑に扱われるのは嫌です」
「雑に扱ったわけではありません」
柏木くんが言った。
俺は心臓を押さえた。
なぜ今、そこを正面から返す。
仁くんが柏木くんを見る。
「じゃあ何ですか」
「僕自身の食べられないものの範囲を説明しました」
「説明が雑なんですよ」
「……なるほど」
柏木くんは真剣にうなずいた。
「食べられない範囲ではなく、受け取った厚意への返答を先にするべきでした」
お。
合っている。
柏木くん、学習している。
坂本さんが短く言った。
「そうだ」
柏木くんは仁くんに向き直った。
「白石さん」
「はい」
「焼き菓子を持ってきてくださって、ありがとうございます。食べることはできませんが、作ってくださったお姉さまにも、ありがとうございますとお伝えください」
フロアの温度が、ほんの少しだけ戻った気がした。
第一氷河期、終息の兆し。
仁くんは、まだ不満そうだった。
かなり不満そうだった。
でも、完全には怒れない顔になっていた。
「……それならいいです」
よかった。
戻った。
少し戻った。
俺は心の中で拍手した。
このまま穏便に終われ。
どうか、これ以上何も起きるな。
そう思った瞬間、仁くんが俺たちのほうを見た。
「藤谷さん、高岡さんは食べられますよね」
「はい!」
即答した。
自分でも驚くほど元気な声が出た。
高岡も静かにうなずいた。
「いただく」
俺は袋を開けて、クッキーを一つ食べた。
バターの香りがした。
さくっとしていて、ほんの少しだけ塩気があって、甘すぎない。
おいしい。
とてもおいしい。
「おいしいです」
俺が言うと、仁くんの機嫌が、たぶん0.5℃くらい戻った。
「姉さん、甘すぎるの苦手な人もいるからって、砂糖控えめにしてました」
「すごく食べやすいです」
「そうですか」
仁くんは少しだけ誇らしそうだった。
分かりやすい。
姉さんを褒めると、温度が戻る。
俺は学んだ。
高岡も一口食べた。
「うまい」
短い。
でも高岡の「うまい」は信用できる。
仁くんの機嫌がさらに0.3℃戻った。
合計0.8℃。
まだ寒いが、氷河期ではない。
その時、坂本さんが無言で袋を一つ取った。
開けた。
食べた。
何も言わない。
でも、二つ目を取った。
俺は見た。
無言で二つ目を取った。
坂本さん。
怒っているのか。
彼女の焼き菓子が好きなのか。
たぶん両方だ。
いや、両方って何だ。
処理できない。
仁くんがそれを見て、少しだけ目を細めた。
「坂本さん」
「何だ」
「食べすぎないでください。姉さん、みなさんでって言ってました」
「分かっている」
「分かってない顔です」
「顔で判断するな」
「僕が中学の時からその顔してる時、だいたい分かってないです」
言う。
坂本さんに、普通に言う。
しかも坂本さんも、特に怒らない。
やっぱりこの関係性、俺には難しい。
*
焼き菓子事件は、どうにか収束した。
たぶん。
柏木くんは食べなかったが、きちんと礼を言った。
仁くんはまだ少し納得していなかったが、俺と高岡が食べたことで、最低限の温度は戻った。
坂本さんは無言で三つ目を取ろうとして、仁くんに止められた。
そこは少し面白かった。
いや、笑える空気ではなかったので、俺は笑わなかった。
高岡も笑わなかった。
たぶん、少し口元は動いていた。
「藤谷さん」
柏木くんが、俺の席に来た。
「はい」
「先ほどの件ですが」
「うん」
「僕は、かなり場の判断を誤りましたか」
かなり。
かなり誤った。
でも本人が気づいたことは偉い。
「うん。まあ、ちょっと」
「ちょっとですか」
「……かなり」
「分かりました」
柏木くんは真剣にうなずいた。
「今後、差し入れを断る際は、先に感謝を伝えます」
「それがいいと思う」
「それから、『他人』という表現は避けます」
「それもいいと思う」
「坂本さんの彼女を他人と言うと、室温が下がることも理解しました」
「そこは一般化しないで」
違う。
学び方が独特だ。
でも、間違ってはいない。
いや、間違っている。
高岡が隣で言った。
「柏木」
「はい」
「坂本さんの彼女に限らず、人の大事な人を雑に分類しないほうがいい」
柏木くんは、少し考えた。
「大事な人」
「そう」
「なるほど」
柏木くんは、仁くんのほうを見た。
仁くんは紙袋を片付けながら、坂本さんに何か小言を言っている。
坂本さんは聞いているのか聞いていないのか分からない顔をしていた。
でも、たぶん聞いている。
柏木くんは言った。
「白石さんにとって、お姉さまは大事な人なんですね」
「かなりね」
俺が言うと、高岡が補足した。
「かなり、では足りないかもしれない」
「そうなんですね」
柏木くんは、また一つ情報をしまうようにうなずいた。
その素直さは、やっぱり悪くない。
言葉は間違える。
空気も読むのは得意ではない。
でも、間違えたと分かれば直そうとする。
だから厄介で、だから少し憎めない。
「柏木くん」
「はい」
「次からは、分からなかったら一回俺に聞いて」
「藤谷さんに」
「うん」
「分かりました。藤谷さんは、人間関係の危険信号を検知する係ですね」
「係じゃない」
「では、担当ですか」
「担当でもない」
「役割」
「やめて」
高岡が隣で肩を震わせた。
笑っている。
完全に笑っている。
*
夕方。
仁くんは帰る前に、もう一度俺たちに頭を下げた。
「今日はありがとうございました。姉さんにも、みなさん食べてくれたって伝えます」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
「おいしかったです」
俺と高岡が言うと、仁くんは少しだけ嬉しそうにした。
そして、柏木くんを見た。
空気が少しだけ緊張する。
柏木くんも立ち上がった。
「白石さん」
「はい」
「先ほどは、失礼しました」
「……はい」
「お姉さまにも、ありがとうございましたとお伝えください」
仁くんは少しだけ黙った。
それから、ふっと息を吐いた。
「分かりました」
完全に許した顔ではない。
でも、次に進む顔ではあった。
よかった。
氷河期は終わった。
少なくとも今日は。
仁くんがフロアを出ていく。
坂本さんもその背中を一度見送ってから、自分の席に戻った。
俺は深く息を吐いた。
高岡が言った。
「疲れたな」
「ものすごく疲れた」
「焼き菓子はうまかった」
「それは本当にそう」
机の上には、まだ一つだけクッキーが残っていた。
坂本さんがそれを見た。
仁くんはもういない。
坂本さんは無言でそのクッキーを取った。
食べた。
そして、何事もなかったように資料を開いた。
俺は見なかったことにした。
いや、見た。
見てしまった。
坂本さんは、美沙さんの焼き菓子が好きだ。
たぶんかなり好きだ。
でもそれを言葉にはしない。
言葉にしないまま、最後の一つを食べる。
何だそれ。
ちょっといい話みたいにするな。
今日、俺の体感では氷河期が来ていたんだぞ。
「藤谷」
坂本さんが言った。
「はい」
「明日の会議資料、確認する」
来た。
日常が戻った。
怖い日常が。
俺は資料を送った。
数秒後、坂本さんの目が細くなる。
いつものやつだ。
俺の背中に、いつもの冷たいものが流れた。
その隣で、柏木くんが小さく身構えた。
俺の心理的安定のために。
ちょっとだけ。
俺は思った。
ありがとう、柏木くん。
でも違う。
身構えるべきなのは、俺のためじゃない。
君自身のためだ。
たぶん。
たぶん、いつか分かる。
いや。
分からないままかもしれない。
その時、坂本さんが静かに言った。
「この数字の根拠は」
俺は目を閉じた。
ああ。
日常だ。
氷河期のあとに戻ってきたのは、春ではなかった。
いつもの坂本さんだった。




