坂本さんを怖がらない新人が来た日
新人が来る、と聞いた時点で、俺は少しだけ身構えていた。
四月。
新しいスーツの匂いと、まだ会社のカードキーを首から下げ慣れていない人間特有のぎこちなさが、フロアのあちこちに漂う季節である。
俺にも、もちろん新人時代はあった。
コピー機の場所が分からず、会議室の予約を間違え、社内チャットの宛先を一つ間違えただけで全身から冷や汗をかいていた時代。
そして、そのすべての先に坂本さんがいた。
坂本一志。
怒鳴らない。
声を荒げない。
ただ、資料の数字が一つずれていた時、静かに目を細めて言う。
「この数字の根拠は」
その瞬間、心拍数は上がる。
空調は正常なのに、背中に冷たいものが流れる。
会議室の壁が、少し近づいてくる。
新人には、あれをどう説明すればいいのだろう。
俺は朝からそれを考えていた。
「藤谷」
隣の席で、高岡がコーヒーを置いた。
「顔が重い」
「顔が重いって何」
「これから新人に坂本さんの怖さをどう伝えるか考えてる顔」
「分かるのかよ」
「分かる」
高岡は淡々と言った。
同期とは、便利なようで怖い。
俺は小さく息を吐いた。
「いや、だってさ。新人って、最初が大事だろ。何も知らずに坂本さんのレビュー受けたら、心が折れるかもしれない」
「お前は折れなかっただろ」
「折れて、変な形に固まったんだよ」
「自覚あるんだな」
ある。
ものすごくある。
俺は坂本さんを尊敬している。
仕事は速いし、判断は正確だし、無駄がない。怒鳴らずに問題点だけを的確に指摘するところも、本来なら理想の上司である。
本来なら。
問題は、その的確さが、時々あまりにも的確すぎることだ。
逃げ道がない。
言い訳の入る隙間がない。
静かに積み上げられた正論の前で、人は己の甘さを直視するしかなくなる。
つらい。
とてもつらい。
そんなことを考えていると、フロアの入口のほうが少しだけざわついた。
人事の担当者に連れられて、一人の青年が入ってくる。
背筋が伸びている。表情は明るい。緊張はしているのだろうが、妙に澄んだ顔をしていた。
「本日からこちらのチームに配属になります、柏木澄人さんです」
柏木澄人。
名前まで澄んでいる。
俺は一瞬、妙な納得をした。
柏木は一礼した。
「柏木澄人です。よろしくお願いいたします」
声も澄んでいた。
嫌味のない、まっすぐな声だった。
高岡が小さく言った。
「素直そうだな」
俺はうなずきかけて、少し不安になった。
素直。
それはいいことだ。
とてもいいことだ。
ただ、このチームにおいては、素直すぎる人間がどこまで耐えられるのかという問題がある。
「柏木」
坂本さんが声をかけた。
フロアの空気が、ほんの少しだけ整う。
別に何か怖いことを言ったわけではない。ただ名前を呼んだだけだ。
それなのに、俺の背中は勝手に伸びた。
柏木はすぐに坂本さんのほうを向いた。
「はい」
「今日はまず、藤谷について業務の流れを確認しろ。その後、昨日の議事録と資料を見て、疑問点をまとめておいてくれ」
「承知しました」
柏木は素直にうなずいた。
まだ何も起きていない。
何も起きていないのに、俺は少しだけ祈るような気持ちになった。
どうか初日は穏やかに終わってくれ。
せめて、初日くらいは。
*
その祈りは、午後三時二十七分に終わった。
柏木は仕事が早かった。
午前中に俺から業務の流れを聞き、過去資料を読み、午後には疑問点を整理していた。
そこまではよかった。
むしろ、かなり優秀だった。
問題は、その疑問点のまとめを坂本さんが見たことである。
「柏木」
「はい」
坂本さんは柏木の席の横に立った。
手元には、柏木がまとめたメモがある。
「この二ページ目」
「はい」
「ここの売上見込み、前提が違う」
出た。
俺は自席で固まった。
声は静かだった。
静かな分、怖い。
高岡も画面を見たまま、わずかに手を止めた。
柏木はメモを覗き込んだ。
「前提、ですか」
「前回資料の暫定値を使っている。確定値はこっちだ」
坂本さんが別の資料を開く。
「暫定値と確定値で、八パーセント違う。このまま計算すると、最終見込みがずれる」
坂本さんの目が、ほんの少し細くなった。
俺の心臓が鳴った。
来た。
坂本さんの目が細くなる時。
新人にとって、最初の壁。
ここで人は、自分の資料がただの紙ではなく、自分自身の甘さを映す鏡だったことを知る。
俺は心の中で柏木に手を合わせた。
耐えろ、柏木。
ここを越えれば、少し強くなれる。
柏木は資料を見た。
暫定値のシートを見た。
確定値のシートを見た。
そして、ぱっと顔を上げた。
「ありがとうございます。早めに気づけて助かりました」
俺は固まった。
高岡の手も、止まった。
坂本さんも、一拍止まった。
「……助かった?」
「はい。暫定値と確定値が別に存在することを認識できました。今後は資料名だけでなく、更新日時と確定フラグを確認します」
柏木は真面目な顔で言った。
心から言っている顔だった。
皮肉ではない。
強がりでもない。
本当に、助かったと思っている。
俺は思った。
怖がれ。
そこは怖がるところだ。
坂本さんは数秒だけ柏木を見たあと、もう一度メモに視線を落とした。
「三ページ目」
「はい」
「このまま進めると、三日後に破綻する」
言い方。
俺は机の下で膝を押さえた。
新人に言う言葉として、強すぎる。
しかし事実なのだろう。
坂本さんは、事実しか言わない。
だから怖い。
柏木は三ページ目を見た。
そのあと、少しだけ目を大きくした。
「三日前に分かるの、すごいですね」
俺は、内心で椅子から落ちた。
高岡が小さく咳をした。
咳の形をした笑いだったかもしれない。
坂本さんは黙った。
坂本さんが黙った。
俺はそこに一番驚いた。
坂本さんが、返答に困っている。
そんなことがあるのか。
「……柏木」
「はい」
「褒めていない」
「はい。指摘として受け取りました」
「そうか」
「はい。三日後に破綻する場合、今日修正すれば間に合いますか」
「間に合う」
「では、今日分かってよかったです」
強い。
この新人、強い。
いや、強いのか。
違う。
これは強さではない。
怖さの翻訳機能が、まだ入っていない。
坂本さんの静かな詰めを、全部「未来の事故を未然に防ぐありがたい情報」として受け取っている。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、何かが違う。
俺は高岡を見た。
高岡も俺を見た。
二人の間で、無言の会話が成立した。
新種だ。
*
柏木澄人は、その後も止まらなかった。
坂本さんが「この表記では意味が二通りに取れる」と言えば、
「二通りある時点で危険ですね。修正します」
と返した。
坂本さんが「このグラフは結論を強く見せすぎている」と言えば、
「実態より強く見えるのは良くないですね。弱めます」
と返した。
坂本さんが「ここは読まれない」と言えば、
「読まれない文章を書くのは無駄ですね。削ります」
と返した。
毎回、素直だった。
怖がらない。
しょげない。
言い訳しない。
しかも直すのが早い。
坂本さんは淡々と指摘し、柏木は淡々と受け取り、俺だけが隣で寿命を削っていた。
なぜだ。
なぜ俺だけが怖いんだ。
いや、高岡も怖がってはいるはずだ。たぶん。表に出ないだけで。
俺は横目で高岡を見た。
高岡は平然と仕事をしていた。
違うかもしれない。
もしかして、このフロアで一番坂本さんを怖がっているのは俺なのか。
いや、それは違う。
違うと思いたい。
「藤谷さん」
柏木がこちらを向いた。
「はい」
「坂本さんのレビューは、いつもあのように具体的なんですか」
俺は一瞬、答えに迷った。
具体的。
そうだ。
確かに具体的だ。
しかし、その一言で済ませていいものではない。
「あの、具体的ではあるけど」
「はい」
「怖くない?」
聞いてしまった。
高岡が隣で「聞いた」と言った。
柏木は少し考えた。
「怖い、ですか」
「うん」
「どの部分がですか」
どの部分。
俺は言葉を失った。
どの部分と言われると、全部だ。
静かな声。
細くなる目。
逃げ場のない指摘。
資料の甘さを一枚ずつ剥がされる感じ。
自分が昨日まで信じていた「だいたい大丈夫」が、一つひとつ死亡していく感じ。
全部だ。
しかし、それを新人に説明するのは難しい。
「目が、細くなるところとか」
俺はなんとか言った。
柏木は坂本さんのほうを見た。
坂本さんは自席で資料を確認していた。画面を見ながら、確かに少し目を細めている。
柏木はそれをしばらく見たあと、うなずいた。
「集中されているんですね」
「違う」
俺は即答した。
違う。
いや、集中しているのはそうだ。
そうなのだが、そうではない。
「坂本さんが目を細めたら、危険信号なんだよ」
「危険信号」
「そう」
「指摘が来るという意味ですか」
「そう」
「では、事前に問題点が分かるので良い信号では」
「良くない!」
良い信号ではない。
少なくとも俺にとっては、赤信号である。
止まれ。
戻れ。
可能なら資料を作る前の自分まで戻れ。
柏木は真剣に考えていた。
「藤谷さんは、問題点が見つかることが怖いんですか」
真っ直ぐだった。
真っ直ぐすぎた。
俺の胸に、静かに刺さった。
「……そういう言い方をされると、俺が未熟みたいになる」
「未熟なのではなく、心理的負荷の問題かもしれません」
「分析しないで」
「すみません」
柏木は素直に謝った。
いい子だ。
いい子なのだ。
ただ、何かがずれている。
高岡が隣でコーヒーを飲んだ。
「藤谷」
「何」
「お前、負けてるぞ」
「何に?」
「新人の受け止め力に」
「勝負してない」
していない。
していないはずだ。
*
夕方、坂本さんは柏木が修正した資料を再度確認した。
フロアは少し静かになっていた。
新人初日の緊張も、午前中よりは薄れている。
俺は自分の作業をしながらも、どうしても二人の会話が気になってしまった。
「柏木」
「はい」
「直っている」
「ありがとうございます」
「ただ、この注記は下に移せ。本文の流れが切れる」
「はい。読み手の集中が切れるということですね」
「そうだ」
「修正します」
カタカタ、とキーボードの音がした。
柏木は本当にすぐ直した。
坂本さんはしばらく画面を見たあと、短く言った。
「悪くない」
俺の手が止まった。
悪くない。
坂本さんの「悪くない」。
それは、普通の人間が言う「かなり良い」に近い。
いや、もしかしたら「だいぶ良い」かもしれない。
俺は三年このチームにいて、坂本さんから「悪くない」と言われた回数を思い出そうとした。
片手で足りる。
いや、片手もいらないかもしれない。
柏木は一礼した。
「ありがとうございます。次は最初からこの精度に近づけます」
「そうしろ」
「はい」
普通に会話が終わった。
俺はしばらく動けなかった。
高岡が言った。
「藤谷」
「何」
「顔が複雑だ」
「複雑にもなるだろ」
「新人が褒められたから?」
「褒められたというか、坂本さんが初日に『悪くない』って言った」
「言ったな」
「俺、初日に何言われたと思う?」
「何」
「『この資料は、読む側に甘えている』」
「ああ」
高岡は少しだけ遠い目をした。
「お前、昔から文章長かったもんな」
「そこじゃない」
そこではない。
いや、そこかもしれない。
俺は机に額をつけたい気持ちをこらえた。
柏木はそんな俺を見て、不思議そうに首を傾げていた。
「藤谷さん」
「はい」
「坂本さんの『悪くない』は、良い評価なのですか」
「かなり良い評価だよ」
「そうなんですね」
柏木は少しだけ嬉しそうにした。
本当に、少しだけ。
それがまた素直で、俺は何も言えなくなった。
「では、明日も見ていただけるように準備します」
やめたほうがいい。
と言いかけて、やめた。
いや、見てもらったほうがいい。
仕事としては。
仕事としては正しい。
正しいことは分かっている。
ただ、俺の心が追いつかない。
怖がれ。
少しくらい怖がれ。
俺が変なのかと思うだろ。
*
終業時間の少し前、朝倉さんがふらりとフロアに現れた。
相変わらず、来る時の気配が雑だ。
「おー、今日から新人来てんだろ」
声が大きい。
距離が近い。
情報量が多い。
俺は反射的に顔を上げた。
朝倉さんは坂本さんの席の近くまで来ると、柏木に視線を向けた。
「君が新人? 名前なんだっけ」
柏木は立ち上がった。
「柏木澄人です」
「柏木か。よろしく。昼飯とか困ったら藤谷に聞け。あいつ、店選びは無難だから」
「無難」
「褒めてる褒めてる」
褒めていない。
俺は思ったが、言わなかった。
柏木は朝倉さんを見ていた。
坂本さんに対しては一切見せなかった、ほんのわずかな警戒が、その顔に浮かんでいた。
「ありがとうございます。必要になったら確認します」
「硬いな。まあ新人だしな。今度飲みに行くか」
「検討します」
「即答で断らないだけ優秀」
「検討します」
「二回言った」
朝倉さんは笑った。
柏木は笑わなかった。
俺は見た。
見てしまった。
坂本さんの静かな詰めにはまったく怯まなかった柏木澄人が、朝倉さんの雑な距離感には明らかに一歩引いている。
なぜだ。
なぜ坂本さんは平気で、朝倉さんは苦手そうなんだ。
世界の基準が分からない。
高岡が隣で小さく言った。
「怖さの種類が違うんだろ」
「納得できそうで、できない」
「できなくていいんじゃないか」
よくない。
俺の世界が揺れている。
朝倉さんは柏木の反応を面白がったように目を細めた。
坂本さんとは違う、雑な好奇心の目だった。
「お前、面白いな」
柏木は一拍置いて答えた。
「面白さを目的にしていません」
「ますます面白い」
「困ります」
朝倉さんは声を出して笑った。
坂本さんは自席で資料を閉じながら、短く言った。
「朝倉。新人で遊ぶな」
「遊んでない。交流」
「それを遊ぶと言う」
「坂本、お前のレビューに耐えた新人だろ? 大丈夫だって」
朝倉さんがそう言った瞬間、柏木が不思議そうに坂本さんを見た。
「耐える、ですか」
俺はまた固まった。
高岡が静かに椅子を引いた。
坂本さんは柏木を見た。
柏木は真剣だった。
「今日のレビューは、耐えるものだったのでしょうか」
フロアが、一瞬だけ静かになった。
朝倉さんが「は?」と笑いをこらえた声を出した。
高岡は口元を押さえた。
俺は心の中で叫んだ。
それを本人に聞くな。
坂本さんは数秒黙ったあと、淡々と言った。
「仕事だ」
「はい」
「耐えるものではない。修正するものだ」
「承知しました」
柏木は素直にうなずいた。
坂本さんは少しだけ目を細めた。
俺の背中が伸びる。
柏木はその顔を見て、すぐに言った。
「追加修正でしょうか」
違う。
たぶん違う。
いや、もしかしたらそうかもしれない。
坂本さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「今日は終わりだ。帰れ」
「はい。お疲れさまでした」
柏木は丁寧に頭を下げた。
そのまま自分の席に戻り、片付けを始める。
何事もなかったように。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
新人が来た。
坂本さんを怖がらない新人が。
しかも、仕事はできる。
素直で、真面目で、悪気がない。
ただ、坂本さんの怖さが通じない。
そして朝倉さんは苦手そう。
情報量が多い。
処理できない。
「藤谷」
高岡が声をかけた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
「だろうな」
「あの子、何なんだ」
「新人だろ」
「新人って、ああだっけ」
「人による」
高岡はいつものように淡々としていた。
俺は深く息を吐いた。
その時、坂本さんが席を立った。
帰る準備をしている。
定時だ。
いつも通りだ。
坂本さんは柏木の席の横で足を止めた。
「柏木」
「はい」
「明日、今日の修正版をもとにもう一度見る」
「よろしくお願いいたします」
「藤谷」
「はいっ」
なぜ俺まで呼ばれる。
「明日、柏木に資料の置き場所をもう少し教えておけ。暫定値と確定値が混ざる原因になる」
「はい」
「高岡」
「はい」
「レビュー観点のリストを共有してやってくれ」
「分かりました」
坂本さんはそれだけ言って、鞄を持った。
その横顔はいつも通りだった。
怖い。
でも正しい。
柏木はその背中に向かって、もう一度頭を下げた。
「本日はありがとうございました」
坂本さんは振り返らずに言った。
「次は最初から確定値を使え」
「はい」
扉が閉まった。
俺はようやく息をした。
柏木がこちらを向いた。
「藤谷さん」
「何?」
「坂本さんは、分かりやすい方ですね」
俺は目を閉じた。
誰か。
誰か、この新人に世界の仕組みを教えてやってくれ。
いや。
もしかしたら。
教えないほうがいいのかもしれない。
知らないままなら、怖くない。
怖くないまま、素直に直せる。
それは、仕事としてはとても強い。
でも。
でもだ。
俺は柏木を見た。
「柏木くん」
「はい」
「坂本さんが目を細めたら、一応ちょっとだけ身構えたほうがいい」
「なぜですか」
「俺の心のために」
柏木は真剣に考えた。
「分かりました。藤谷さんの心理的安定のために、身構える動作を検討します」
「検討じゃなくて、できれば実施して」
「承知しました」
高岡が隣で、とうとう少し笑った。
俺は机に手を置いた。
初日が終わった。
新人は無事だった。
むしろ、坂本さんのレビューを「助かりました」と言って乗り越えた。
俺のほうが無事ではない。
フロアの照明が、定時後の少しだけ薄い色に変わっていく。
柏木澄人は、きれいに揃えた資料を鞄にしまっていた。
坂本さんを怖がらない新人。
怖さの翻訳機能が、まだ入っていない新人。
俺は思った。
このままでいてほしいような。
早く気づいてほしいような。
どちらにしても、明日から俺の仕事は一つ増える。
柏木くんの教育。
それから。
俺の世界観の修復。
たぶん、後者のほうが難しい。




