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11/29

坂本さんの拒否権が消えた日

会社の飲み会というものは、だいたい一次会で終わるべきだと思う。


 少なくとも俺は、そう思っている。


 金曜日の夜。

 それなりに飲んで、それなりに食べて、それなりに上司の話を聞き、それなりに笑い、そして駅へ向かう。


 それが社会人としての正しい帰還ルートである。


 なのに。


「二次会行くか」


 朝倉さんが言った。


 俺は、聞かなかったことにしようとした。


 高岡も、聞かなかったことにした顔をしていた。


 しかし朝倉さんは、聞かなかったことにさせてくれる人ではない。


「坂本んちで」


 俺は足を止めた。


 高岡も止まった。


 坂本さんも止まった。


 そして、即答した。


「断る」


 早い。


 あまりにも早い。


「まだ何も言ってないだろ」


「言った。俺の家で、と」


「金曜だぞ」


「関係ない」


「藤谷と高岡もいるし」


「なおさら関係ない」


 正しい。


 坂本さんが正しい。


 完全に正しい。


 俺は心の中で拍手した。


 そうだ。坂本さん。

 そのまま断ってください。

 俺たちは普通に帰ります。

 大人しく帰って、風呂に入って、寝ます。


 しかし、朝倉さんはスマホを出した。


 坂本さんの目が、静かに細くなった。


「朝倉」


「美沙ちゃんに聞く」


「やめろ」


 やめろ。


 坂本さんが、仕事以外で人に「やめろ」と言った。


 俺はその事実だけで少し処理落ちした。


 朝倉さんは、処理落ちしている俺たちをまったく気にせず、電話をかけた。


「もしもし、美沙ちゃん?晴臣だけど」


 晴臣。


 俺は一回止まった。


 晴臣。


 誰だ。


 いや、朝倉さんだ。


 朝倉晴臣さんだ。


 知っている。

 知ってはいる。


 だが、会社の飲み会帰りに突然出てくる名前ではない。


 電話の向こうから、柔らかい声が少し漏れた。


『晴臣さん? どうしたの?』


 俺は高岡を見た。


 高岡も俺を見た。


 聞いたか。


 聞いた。


 晴臣さん。


 朝倉さんが、晴臣さん。


「今、飲み会終わったんだけどさ。坂本んちで二次会していい?」


 坂本さんが、無言で朝倉さんを見ていた。


 目が細い。


 仕事以外でも細い。


『カズくんのおうちで? いいわよ。金曜だし』


 俺は二度目に止まった。


 カズくん。


 来た。


 また来た。


 坂本さんが、カズくん。


 そして朝倉さんが、晴臣さん。


 俺の中の会社用人名データベースが、音を立てて壊れ始めた。


「藤谷と高岡もいる」


『あら。仁がお世話になってる、藤谷さんと高岡さん?』


 今度は仁くんが出た。


 人名データベースが燃えた。


『もちろん。来て来て。お味噌汁くらいなら出せるから』


「だって」


 朝倉さんが、にやっと笑って電話を切った。


 坂本さんは、数秒黙っていた。


 そして、低い声で言った。


「……帰るぞ」


 俺は恐る恐る聞いた。


「どこへですか」


「俺の家だ」


「行くんですね」


「許可が出た」


 坂本さんの家なのに。


 許可が出た。


 誰の許可が。


 いや、考えてはいけない。


 これ以上考えると、帰れなくなる。


 すでに帰れないのだが。


     ◇


 坂本さんの家は、怖いくらい整っていた。


 いや、正確には、整っているのに生活感がある。


 変な感じだった。


 余計なものはない。

 でも、人が暮らしている気配はある。


 玄関で迎えてくれた美沙さんは、柔らかく笑った。


「いらっしゃい。お疲れさまです」


 俺と高岡は、ほぼ同時に頭を下げた。


「お、お邪魔します」


「夜分にすみません」


「いいの。飲んだあとだと、温かいものが欲しくなるでしょ?」


 その自然さが怖かった。


 いや、怖い人ではない。


 むしろ、ものすごく優しい。


 しかし、優しさによって俺の理解が追いつかない。


 坂本さんの家に、美沙さんがいて。

 朝倉さんを晴臣さんと呼んで。

 坂本さんをカズくんと呼ぶ。


 俺は今、どこの世界にいるのか。


 リビングに通されて、俺はさらに止まった。


 ソファの端に、いた。


 シャチが。


「……高岡」


「何」


「いる」


「何が」


「シャチ」


「いるな」


「画面越しじゃない」


「実物だな」


 リモート会議で見た、あのシャチだった。


 坂本さんの背後に映り込み、俺たちの会議内容を半分ほど吹き飛ばした、あのシャチ。


 実在した。


 朝倉さんがそれを見て、懐かしそうに笑った。


「ああ、まだそこにいるんだな」


「まだ?」


 俺は思わず聞いた。


「昔、美沙ちゃんちにあったんだよ、それ」


「美沙さんちに?」


「仁が現代文にキレてた横に、だいたいいた」


 情報量が多い。


 シャチ。

 ミサさんち。

 仁くん。

 現代文。

 キレてた。


「シャチ、全部見てたんですか……?」


「見てたな」


 朝倉さんが真顔で頷いた。


 俺はシャチを見た。


 黒と白の丸い身体で、何も語らずそこにいる。


 歴史の証人みたいな顔をしていた。


「その子、どかす?」


 ミサさんが聞いた。


「カズくんがいつもそこに戻すから、定位置みたいになってるの」


 俺は三度目に止まった。


 カズくんが。


 いつも。


 そこに戻す。


 坂本さんが、静かに言った。


「床に落ちていると邪魔だからだ」


「でも、ちゃんと同じところに戻してくれるでしょ?」


「置く場所が決まっていたほうが合理的だ」


 朝倉さんが笑った。


「受け入れてるじゃん」


「受け入れてはいない」


 高岡が小声で言った。


「定位置ですね」


 俺も小声で返した。


「坂本さんの家に、シャチの定位置……」


 世界は広い。


 いや、広すぎる。


     ◇


 ミサさんは、しじみのお味噌汁と、小さなおにぎりを出してくれた。


 梅しらすのおにぎり。

 きゅうりの浅漬け。

 温かいほうじ茶。


「お腹いっぱいかもしれないけど、飲んだあとだから。お味噌汁だけでも」


 居酒屋の二次会だと思って来たら、胃と肝臓をいたわられている。


 俺は混乱しながら、お椀を受け取った。


「ありがとうございます……」


 高岡は一口飲んで、静かに言った。


「ありがたいですね」


 本当にありがたい。


 怖いくらいありがたい。


 朝倉さんは、完全にくつろいでいた。


「美沙ちゃんのしじみ汁、久しぶりだな」


 俺は箸を止めた。


「久しぶり?」


「仁の現代文見に来てたころ、たまに出してもらった」


「ここにも歴史が」


「シャチとしじみ汁の歴史だな」


 高岡が淡々と言った。


 やめてほしい。


 妙にまとまるから。


 坂本さんも、おにぎりをひとつ手に取っていた。


 食べるんだ。


 それだけで、少し意外だった。


 いや、人間だから食べる。


 食べるに決まっている。


 しかし、会社の坂本さんからは、食事の気配があまりしない。


 どちらかというと、必要な栄養素を効率よく摂取して生きていそうな人である。


 そう思っていたら、美沙さんが言った。


「カズくん、ついてる」


 坂本さんが止まった。


「どこだ」


「そこ。動かないで」


 ミサさんは、ごく自然にティッシュを手に取り、坂本さんの口元についた海苔を拭いた。


 俺は箸を落としそうになった。


 坂本さんが。


 口元を。


 拭かれている。


 しかも、動かない。


 拒否しない。


 会社で「前提条件が甘い」と静かに人を追い詰める人が、今、海苔を取ってもらっている。


 高岡が小さく言った。


「日常だな」


「日常にしていい光景じゃない」


 俺は小声で返した。


 美沙さんは、少しだけ困ったように笑った。


「もう。カズくん、私が言わないとすぐサプリとか栄養ゼリーで済ませるんだから」


 俺は四度目に止まった。


 サプリ。


 栄養ゼリー。


 やっぱりか。


 俺の偏見は、半分当たっていた。


 坂本さんは淡々と言った。


「必要な栄養素は取れる」


「食事は栄養素だけじゃないの」


「分かっている」


「本当に?」


「……分かっている」


 その「分かっている」が、会社の「分かっている」と違った。


 少しだけ柔らかい。


 俺は味噌汁を飲んだ。


 温かかった。


 そして情報が多すぎた。


     ◇


 しばらくして、美沙さんがまた台所へ立とうとした。


 坂本さんが、それを見て言った。


「ミサ、もう寝ろ。また疲れる」


 声は静かだった。


 でも、仕事中の声とは違う。


 心配している声だった。


「でも、せっかく来てくれたし」


「十分だ。あとは仁を呼ぶ」


 俺はまた止まった。


 仁くんを。


 呼ぶ。


 この時間に。


「こいつらの面倒は見させるから大丈夫だ」


 こいつら。


 俺たち、こいつら。


 坂本さんの家で、こいつら判定。


「いや、そこまでしていただかなくても」


 俺が言うより早く、坂本さんはスマホを手に取っていた。


 電話をかける。


「仁。来い」


 頼み方。


 頼み方がない。


 電話の向こうから、声が漏れた。


『行きません』


 即答だった。


 当然である。


「来い」


『嫌です。何で俺が坂本さんの家で飲み会の後始末しなきゃいけないんですか』


「ミサが疲れる」


 沈黙。


 電話の向こうの空気が変わったのが、こちらにも分かった。


『……今行きます』


 早い。


 あまりにも早い。


 高岡が静かに言った。


「最強のカードだな」


 朝倉さんが笑った。


「仁、分かりやすいな」


 坂本さんは平然と電話を切った。


「来る」


 来る。


 呼び出し成功。


 いや、成功なのか。


 しばらくして、玄関のほうで音がした。


 インターホンではなかった。


 ドンッ。


 俺はびくっとした。


「え、今、蹴りました?」


「蹴ったな」


 高岡が言った。


 朝倉さんは立ち上がりながら、声を上げた。


「仁、ドアは蹴るな。坂本んちの備品だぞ」


 玄関から、低い声が返ってきた。


「姉さんを夜中まで働かせたの誰ですか」


「俺」


「知ってます」


「じゃあ入れ」


「入りますけど」


 入ってきた仁くんは、完全に怒っていた。


 完全に怒っているのに、靴はちゃんと揃えていた。


 育ちが出ている。


 いや、そこではない。


「ドアを蹴るな」


 坂本さんが言った。


「蹴ってません。足で強めに確認しただけです」


「それを蹴ると言う」


「姉さんは?」


「寝かせる」


「姉さん」


 仁くんは、リビングに入るなり美沙さんを見た。


「寝て」


「仁、でも」


「寝て」


「でも、急に来てもらったし」


「寝て」


 強い。


 姉には強い。


 坂本さんも横から言った。


「ミサ、寝ろ」


 美沙さんは二人を見比べて、小さく笑った。


「二人して言わなくても」


「言う」


 仁くんと坂本さんの声が、ほぼ重なった。


 美沙さんは観念したように息をついた。


「じゃあ、少しだけ横になるね。仁、無理しないでね」


「姉さんが言うことじゃない」


 その声だけ、少し柔らかかった。


 美沙さんが寝室へ向かったあと、仁くんは無言で台所に立った。


 そして、当然のように冷蔵庫を開けた。


 俺は見た。


 仁くんが。


 坂本さんの家の冷蔵庫を。


 普通に開けている。


「え、仁くん、冷蔵庫の中身、把握してるんですか」


「姉さんが来る日は、だいたい入ってるもの決まってるんで」


「また知らない歴史が出た」


 高岡がぽつりと言った。


「生活の歴史だな」


 仁くんは手際よく卵を取り出し、ほうれん草を洗い、チーズと海苔を出した。


「飲んだあとに濃いものばっかり食べるなよ」


 怒っている。


 怒っているのに、面倒見がいい。


だし巻き卵

 チーズの海苔巻き。

 ツナと大葉の小鉢。

 ほうれん草の胡麻和え。


 次々に出てくる。


 何だこれは。


 居酒屋の二次会より、身体にいい。


「仁の卵焼きうまいんだよ」


 朝倉さんが言った。


「なんで知ってるんですか」


「昔食った」


「また歴史!」


 仁くんが朝倉さんを睨んだ。


「朝倉さんは黙って食べてください」


「うまい」


「……それはどうも」


 懐いている。


 完全に懐いている。


 本人が否定しても、これは懐いている。


 俺がだし巻き卵を口に入れると、ほんの少し甘かった。


 優しい味だった。


「仁くん、料理上手なんですね」


 俺が言うと、仁くんは少しだけ目を逸らした。


「必要だっただけです」


「必要?」


 朝倉さんが、何でもないように言った。


「美沙ちゃん、昔かなり遅くまで働いてたからな。仁は帰ってくる姉ちゃんに何か食わせたくて覚えたんだよ」


「朝倉さん」


 仁くんの声が低くなった。


「余計なこと言わないでください」


「いい話だろ」


「よくないです」


「いい弟だな」


「違います」


 違わない。


 全然違わない。


 ドアを蹴る勢いで来た人が、昔は遅くまで働いて帰ってくるお姉さんのために卵焼きを練習していた。


 情報量が。


 また。


 多い。


 高岡が静かに言った。


「いい弟だな」


「高岡さんまで」


「事実だ」


「違います。必要だっただけです」


 その言い方が、どこか坂本さんに似ていた。


 必要だっただけ。


 合理的な顔をして、優しさを隠す。


 たぶん、この家にいる人たちは、そういうのが少しずつ似ている。


     ◇


 シャチは、ソファの端にいた。


 美沙さんは寝室で休んでいる。


 坂本さんは台所の片付けを手伝い、仁くんは怒りながら皿を洗い、朝倉さんはだし巻き卵をつまみ、高岡は静かにほうじ茶を飲んでいる。


 俺は思った。


 オールスターズだ。


 何の。


 分からない。


 でも、オールスターズだった。


 会社では、坂本さんは怖い。


 静かに正しく、逃げ道を閉じる人だ。


 けれど、この家では、美沙さんに海苔を取られ、食事を心配され、シャチの定位置を管理し、彼女が疲れる前に寝かせようとする人でもある。


 朝倉さんは、相変わらずうるさい。


 でも、冷めた唐揚げを差し出す人であり、仁くんの怒りを雑に受け止める人でもある。


 仁くんは、ドアを蹴る。


 でも、卵焼きをきれいに焼く。


 美沙さんは、全員を自然に受け入れて、でも今はちゃんと休まされている。


 高岡は、全部を静かに受け止めている。


 俺は、だいたい処理落ちしている。


「藤谷」


 坂本さんの声がした。


「はい」


「明日の午前中に、今日の修正案をまとめて送ってくれ」


 俺は現実に戻った。


 最悪の戻り方だった。


「明日、土曜ですが」


「午前中でいい」


「優しさみたいに言わないでください」


 高岡が少し笑った。


 仁くんが横から言った。


「入口の文言、削ってくださいね」


「仁くんまで」


「仕事なので」


 坂本さんが頷いた。


「仁の指摘は妥当だ」


 怖い。


 家でも怖い。


 普通に怖い。


 でも、さっきまで海苔を取られていた。


 どちらが本当なのか。


 たぶん、どちらも本当なのだ。


 帰り際、玄関で美沙さんが顔を出した。


「もう帰るの? 気をつけてね」


 少し眠そうだった。


 坂本さんがすぐに言った。


「寝てろ」


「もう少しだけ」


「ミサ」


「はいはい」


 美沙さんは笑った。


「藤谷さん、高岡さん、また来てくださいね」


 俺は固まった。


 また。


 また来る。


 坂本さんの家に。


 シャチがいて、しじみ汁が出て、仁くんがドアを蹴って来る家に。


「……はい。ありがとうございます」


 高岡は落ち着いて頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


 朝倉さんが手を振った。


「美沙ちゃん、また来るわ」


「晴臣さんは、今度は先に連絡してね」


「はーい」


 坂本さんの目が細くなった。


「朝倉」


「怒るなって。楽しかっただろ」


「帰れ」


「はいはい」


 外に出ると、夜風が少し冷たかった。


 駅へ向かいながら、高岡が言った。


「濃かったな」


「濃かった」


「情報が多かった」


「多すぎた」


「でも、少しよかったな」


 俺は高岡を見た。


 高岡はいつものように落ち着いた顔で、静かに言った。


「坂本さんにも、ああいう帰る場所があるって分かるのは」


 俺は少し黙った。


 それから頷いた。


「……まあな」


 怖いけど。


 相変わらず怖いけど。


 坂本さんの家には、シャチがいて、美沙さんがいて、仁くんが怒りながら卵を焼く。


 それは、たしかに少しよかった。


 翌営業日。


 坂本さんは、俺の修正案を見て言った。


「藤谷。この導線はまだ甘い」


 目が細くなる。


 俺は思った。


 家では海苔を取られていた。


 でも仕事では普通に怖い。


 やっぱり坂本さんだった。

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