朝倉さんが召喚された日
仁くんが帰ったあと、廊下にはしばらく唐揚げの匂いが残っていた。
冷めた唐揚げの匂いである。
温かいときほど強くない。
けれど、なぜか記憶に残る。
朝倉さんが持ってくる唐揚げは、だいたい冷めている。
そして、少しだけおいしい。
なぜだ。
俺は紙袋の口を閉じながら、そんなことを考えていた。
坂本さんは会議室に戻り、高岡は自販機の横で缶コーヒーを開けている。朝倉さんは、さっき仁くんが去っていった廊下の先を見ながら、妙に満足そうな顔をしていた。
完全に餌付けに成功した人の顔だった。
「……朝倉さん」
「ん?」
俺は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「そういえば、朝倉さんって、なんで仁くんとそんなに親しいんですか?」
朝倉さんが、こちらを見る。
「親しい?」
「親しいですよ」
高岡が横から静かに言った。
「かなり親しいです」
「そうか?」
「唐揚げを差し出して、断られて、結局三個食べさせてました」
「食育だな」
「餌付けでした」
「食育だって」
朝倉さんは笑った。
だが、俺は引かなかった。
「坂本さんが家庭教師してた子、ってだけの距離じゃないですよね? 友達が教えてた中学生にしては、明らかに距離が近いというか」
言いながら、俺は思い出していた。
仁くんは、坂本さんに対して遠慮がない。
でも、朝倉さんに対しても遠慮がない。
ただ、その遠慮のなさの種類が違う。
坂本さんには噛みつく。
朝倉さんには、文句を言いながら隣にいる。
あれは、違う。
ただの知り合いではない。
俺の中の何かが告げている。
あれは。
懐いている。
「んー」
朝倉さんは缶コーヒーを飲んだ。
そして、何でもないことのように言った。
「俺、仁の現代文担当だったから」
俺は止まった。
高岡も止まった。
「現代文担当?」
「うん」
「担当制だったんですか?」
「途中からな」
「途中から」
「坂本が召喚してきた」
召喚。
俺はその単語を、頭の中でゆっくり繰り返した。
召喚。
朝倉さんは、召喚されるものなのか。
「……坂本さんが?」
「そう。あいつが俺に電話してきて」
朝倉さんは少し声を低くした。
「朝倉。国語を見ろ」
似ていた。
妙に似ていた。
そして、頼み方ではなかった。
「それ、頼んでます?」
俺が言うと、高岡が頷いた。
「命令だな」
「だろ。俺も言った。頼み方を知らないのか、おまえは、って」
「坂本さん、何て?」
「俺が教えると、設問への反論で終わる」
俺は、ゆっくり瞬きをした。
「設問への反論」
「そう」
朝倉さんは笑った。
「あいつ、国語ができないわけじゃないんだよ。自分で解くのは普通にできる。むしろ正解率は高い」
「でしょうね」
高岡が言った。
「坂本さんなら、本文から根拠拾って正解選びそうです」
「そうそう。ただな、教えられない」
「教えられない?」
「感情の揺れを、感情として噛み砕く気がない」
ああ。
俺と高岡は、ほぼ同時に納得した。
声には出さなかった。
しかし、納得した。
ものすごく納得した。
「たとえば、“このときの主人公の気持ちを答えなさい”ってあるだろ」
「ありますね」
「坂本は答えは出せるんだよ。“不安と期待が混ざった心情”とか、“相手を思うがゆえの躊躇”とか。ちゃんと当てる」
「はい」
「でも、教えるときにこうなる」
朝倉さんはまた少し声を低くした。
「本文のこの描写と、この直前の会話から、選択肢三が最も妥当だ。ただし、“寂しさ”まで読み取らせるには根拠が弱い。この設問は不適切だ」
俺は目を閉じた。
坂本さんだった。
あまりにも坂本さんだった。
「仁くんは?」
高岡が聞いた。
「乗った」
「乗った」
「めちゃくちゃ乗った」
朝倉さんは笑いをこらえながら言った。
「仁も尖ってたからな。“言えばよくないですか、この主人公”って言うわけ」
俺の中で、中学生の仁くんが立ち上がった。
不機嫌そうな顔で問題集を見る仁くん。
その横に、大学生の坂本さん。
「このときの主人公の気持ちを答えなさい」
仁くんが眉を寄せる。
「言えばよくないですか」
坂本さんが問題文を見る。
「同感だ」
仁くんが頷く。
「ですよね」
坂本さんが続ける。
「この沈黙を“悲しみ”と断定するには根拠が不足している」
「ですよね」
「設問の設計が甘い」
「ですよね」
地獄である。
現代文にとっての地獄。
「二人で問題にキレてたんですか?」
「キレてたな」
「家庭教師と生徒が?」
「家庭教師と生徒が」
「終わってますね」
「だから俺が呼ばれた」
朝倉さんは、少し胸を張った。
なぜだ。
なぜそこで胸を張れる。
「美沙さんも困ってたんですか?」
俺が聞くと、朝倉さんは少しだけ表情をやわらげた。
「困ってたな。仁、数学と英語は伸びてたんだよ。坂本の教え方が合ったんだろうな。逃げられないから」
「逃げられないから」
「でも現代文だけ、勉強してるはずなのに、坂本と一緒に設問を裁き始める」
俺は吹き出しそうになった。
高岡は口元を押さえていた。
笑っている。
絶対に笑っている。
「そこで坂本が判断したわけ。自分が教えると仁が伸びない。というか、仁と一緒に問題へ反論してしまう。だから外部リソースを投入する必要がある」
「外部リソース」
「俺」
「朝倉さん、外部リソースだったんですか」
「召喚獣とも言う」
「言いません」
高岡が即座に言った。
朝倉さんは笑った。
「で、行ったんですか」
「行った。暇だったし」
「暇だったから召喚されたんですか」
「違う違う。坂本が困ってるの面白そうだったから」
「最低ですね」
「最高だろ」
否定しきれなかった。
坂本さんが困っている。
それは、少し見たい。
かなり見たい。
いや、見たらたぶん怖い。
でも見たい。
朝倉さんは続けた。
「で、初めて仁くんに会った」
「どんな感じだったんですか?」
「尖ってた」
「でしょうね」
「俺が部屋に入ったら、仁がまず坂本に言った」
朝倉さんは、仁くんの真似なのか少し不機嫌そうな声を作った。
「誰ですか、この人」
似ている。
これもまた、妙に似ている。
「坂本は?」
「現代文担当だ、って」
「担当」
「仁くんは、“担当が増えるほど俺ひどいんですか”って」
「かわいい」
俺は思わず言った。
朝倉さんがにやっとした。
「だろ」
「いや、本人には言えませんけど」
「言ったらキレるな」
「キレますね」
「でも、キレ方が分かりやすいんだよ」
朝倉さんは缶コーヒーを持ち替えた。
「俺、弟が昔ああいうタイプだったからさ。怒ってるけど、怒り方の奥に別のものがあるやつ。腹減ってるとか、寂しいとか、悔しいとか、分かってほしいけど分かられたらむかつくとか」
「面倒ですね」
「面倒だぞ」
朝倉さんはあっさり言った。
「でも、扱えないほどじゃない」
その言い方に、少しだけ温度があった。
雑なのに、冷たくない。
朝倉さんらしいと思った。
「で、現代文を教えたんですか?」
「教えた」
「どうやって?」
「普通に」
「朝倉さんの普通が信用できないんですけど」
「失礼だな」
朝倉さんは笑う。
「最初の問題が、“主人公はなぜ返事をしなかったのか”みたいなやつだった」
「現代文ですね」
「仁くんは言った。“返事すればいいじゃないですか”」
「仁くんですね」
「坂本も横で頷きかけた」
「坂本さんですね」
「だから俺が言った」
朝倉さんは、軽い調子で言った。
「言えないから黙ってんだろ」
俺は少し黙った。
高岡も、缶コーヒーを口元で止めていた。
「仁くん、何て?」
「“何で言えないんですか”って」
「それで?」
「言ったら負けみたいな気がするときあるだろ、って」
朝倉さんは、さっきより少しだけ声を落とした。
「寂しいとか、悔しいとか、助けてほしいとか。そういうの、言った瞬間に自分が弱くなる気がするやつ」
廊下の空気が、少し静かになった。
「仁くん、黙ったんですね」
高岡が言った。
「黙った」
朝倉さんは頷いた。
「それで俺が、“今それだよ”って言った」
俺は、思わず笑った。
いや、笑っていい場面なのか分からなかった。
でも、朝倉さんの言い方があまりにも朝倉さんだった。
「仁くん、キレませんでした?」
「キレた」
「ですよね」
「“俺の話じゃないです”って」
「言いそう」
「だから言った。“おまえの話にしなくていいから、主人公の話として書け”って」
ああ。
俺はそこで、少し分かった気がした。
坂本さんは、仁くんを正面から見抜いた。
逃げ道を閉じて、白紙の奥にある怖さを指摘した。
朝倉さんは、そこに名前をつけずに逃がした。
おまえの話にしなくていい。
主人公の話として書け。
それなら、仁くんも少しだけ書けたのかもしれない。
「それで、仁くんは書いたんですか?」
「書いた」
「何て?」
「“主人公は、返事をすると自分の負けを認めるようで嫌だったから”」
「おお」
高岡が小さく声を出した。
「かなり読めてるな」
「だろ。だから俺が言った。“ほら、分かってんじゃん”って」
「仁くんは?」
「“分かってません”って」
「分かりやすい」
「分かりやすいだろ」
朝倉さんは、楽しそうに笑った。
「そこから、現代文は俺がたまに見た。坂本は横で採点した」
「坂本さん、横にいたんですか?」
「いるときもあった。で、俺が“この子は寂しいんだよ”って言うと、坂本が“根拠は”って言う」
「邪魔ですね」
「邪魔だぞ」
高岡が静かに言った。
「現代文の場に坂本さんを置くと、審査員になるんだな」
「そう。しかも厳しい審査員」
「怖い」
俺が言うと、朝倉さんは笑った。
「でも、答案はちゃんと見るんだよ。仁の答えが雑だと、“言葉が足りない”って言う。でも、ちゃんと読めてると、“悪くない”って言う」
「褒めるんですね」
「褒めるというより、判定」
「坂本さんだ」
「坂本だな」
そのとき、会議室のドアが開いた。
俺たちは一斉に振り向いた。
坂本さんだった。
なぜこのタイミングで出てくるのか。
この人は本当に、怖い話をしていると現れる。
怪談の本人みたいな登場の仕方をしないでほしい。
「何の話だ」
坂本さんが静かに言った。
俺は反射的に姿勢を正した。
高岡も缶コーヒーを下ろした。
朝倉さんだけが平然としている。
「おまえが国語で詰んで俺を召喚した話」
「詰んではいない」
坂本さんは即答した。
「ほら」
朝倉さんが俺を見る。
「絶対そう言うと思った」
坂本さんは表情を変えずに言った。
「俺は解ける」
「知ってるよ。解けるけど教えられないんだろ」
「教えられないわけではない」
「じゃあ、“主人公が返事をしなかった理由”を中学生に説明してみろよ」
「本文の該当箇所から判断して、相手への反発と自己防衛が混在している」
「そういうとこだよ」
朝倉さんが即座に言った。
俺は口元を押さえた。
高岡は目を伏せていた。
笑っている。
絶対に笑っている。
「何がだ」
「中学生に“自己防衛が混在している”って言うな」
「正確だ」
「正確だけど、腹に落ちないんだよ」
「腹に落ちる必要があるのか」
「あるよ、国語だから」
坂本さんは少しだけ黙った。
考えている。
本気で考えている。
怖い。
国語の「腹に落ちる必要」について考えている坂本さん、怖い。
「……答案としては成立する」
「答案じゃなくて、教え方の話してんだよ」
「だから朝倉を呼んだ」
「召喚したんだろ」
「呼んだ」
「命令形でな」
「必要だった」
坂本さんは、あっさり言った。
その言葉に、朝倉さんが少しだけ目を細めた。
笑っているような、照れているような顔だった。
「まあな」
朝倉さんは缶コーヒーを飲んだ。
「俺がいなかったら、仁とおまえ、ずっと設問に文句言ってたからな」
「設問に問題がある場合は指摘すべきだ」
「受験生に指摘させるな」
「確かに」
認めた。
坂本さんが認めた。
俺は、今日一番驚いたかもしれない。
「でも、仁は朝倉の説明で伸びた」
坂本さんが言った。
さらりと。
でも、その声には確かな評価があった。
「本人が認めたがらない感情を、本人のものとして扱わずに説明した。あれは俺には向いていない」
朝倉さんが、少しだけ黙った。
「……おまえ、急に真面目に褒めるなよ」
「事実だ」
「そういうとこだぞ」
朝倉さんは、少し照れたように顔をそらした。
俺は、それを見て思った。
朝倉さんも、褒められると少し弱い。
意外だった。
いや、意外でもないかもしれない。
「じゃあ、仁くんが朝倉さんに懐いてるのって」
「懐いてないと言うだろうな、本人は」
坂本さんが言った。
「言いますね」
高岡が頷いた。
「でも、懐いてますよね」
俺が言うと、朝倉さんが笑った。
「まあ、唐揚げ食うからな」
「そこ基準なんですか」
「かなり重要だぞ」
坂本さんが、淡々と言った。
「仁は、信用していない相手からは食べ物を受け取らない」
俺は、少しだけ目を開いた。
その情報は、妙に重かった。
朝倉さんも、何も言わなかった。
ただ、缶コーヒーを見ていた。
「……じゃあ、三個食べたのは」
「かなり信用している」
坂本さんが言った。
朝倉さんが吹き出した。
「三個で信用度測るな」
「一個目は空腹。二個目は許容。三個目は信用だ」
「分析するな」
俺は耐えられなかった。
笑った。
高岡も笑っていた。
坂本さんは、なぜ笑われているのか分からない顔をしていた。
それがまた面白かった。
「藤谷」
坂本さんがこちらを見た。
笑いが引っ込んだ。
「はい」
「さっきの資料の修正は」
「今からやります」
「入口の文言も見直せ。仁の指摘は妥当だ」
「はい」
やっぱり仕事に戻るのが早い。
余韻というものがない。
現代文では、たぶんここで余韻を読む。
坂本さんは読まない。
いや、読めるけど、仕事では読まない。
「藤谷」
「はい」
「何か失礼なことを考えていないか」
「考えてません」
「ならいい」
怖い。
感情は読み取る気がないはずなのに、俺のことはなぜか読む。
不公平である。
坂本さんが会議室に戻っていく。
朝倉さんが、空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。
きれいに入った。
「じゃ、俺も戻るわ」
「あ、朝倉さん」
「ん?」
俺は、少しだけ迷ってから言った。
「仁くん、朝倉さんに会えてよかったですね」
朝倉さんは、一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ笑った。
「まあ、俺は召喚獣だからな」
「そこ気に入ってるんですか」
「わりと」
「やめたほうがいいです」
「何でだよ」
朝倉さんは笑いながら歩いていった。
俺はその背中を見送った。
坂本さんは、仁くんを正面から見抜いた人。
朝倉さんは、仁くんの怒りを怒りのまま横に置いて、唐揚げを差し出した人。
たぶん、どちらか一人では駄目だったのだ。
厳しさだけでも。
優しさだけでも。
正しさだけでも。
雑さだけでも。
仁くんは、ああして少しずつ育ったのかもしれない。
そして今、坂本さんを怖がらず、朝倉さんに懐いていないと言いながら三個目の唐揚げを食べる大学生になった。
俺は、残っていた紙袋を見た。
中には、小さな唐揚げが一つだけ残っていた。
冷めている。
けれど、少しだけおいしそうだった。
「藤谷」
会議室から坂本さんの声がした。
「はい!」
「修正」
「今やります!」
俺は唐揚げを口に入れた。
冷めていた。
やっぱり、少しだけおいしかった。
そして資料レビューは、普通に怖かった。




