5.一六文の絆
「はあ・・・。本日も見事なまでに、十六文の山ですね。」
いつの間にか隣に立っていた彩乃が、憮然とした顔で小銭箱の勘定を始めていた。箱の中には、武家や豪商からふんだくった銀の小粒や微量の小判も混ざってはいるが、今日一日で二十人以上の大行列を捌いた報酬としては、あまりにも寂しいものだった。
「先生、もう少しちゃんと薬礼を受け取ったらどうなのです? 銀次さんの荒療治も、およねさんの果てしない身の上話の付き合いも、一律で十六文。その上、払えない者には『ある時払いの催促なし』。これでは新しいオランダ製のメスどころか、先生の来月の酒代だって怪しいものですよ。少しは相手の懐具合を見て値段を吊り上げるという、商売人の知恵を持てないのですか? このままじゃ私達、いつか本当に野垂れ死にますよ!」
「まあ、いいじゃないか。十六文あれば、屋台の夜泣き蕎麦が一杯食える。患者にとっても、一番出しやすい手頃な額だ。なまじ法外な値を吹っ掛けたりしてみろ、貧しい長屋の連中は懐を気にして病を隠し、手遅れになって死ぬことになるぞ?」
「・・・それは、そうですけど。」
「それにだな、俺が十六文にこだわるのはもう一つ訳がある。医は仁術、商いのようで商いにあらず。かと言って、完全にタダにしてしまっては、患者の方がかえって気を遣い、次に診せに来づらくなる。たとえ十六文でも、ビタ銭一文でも正当な額として受け取れば、それは立派な礼の済んだ商売になる。患者は余計な負い目を背負わず、胸を張って『治してもらった』と言えるんだよ。だから、気兼ねなく出せる額を示しているのさ。」
「出しやすい額ねえ・・・。でも先生、おかげで長屋の連中からは『十六文先生』なんてありがたくないあだ名で呼ばれてるんですよ。・・・挙げ句の果てにはお蕎麦に引っ掛けて、『二八先生』だなんて呼ばれているんですからね。」
「十六文・・・、二八先生か。ハッハッハ、そいつぁいい! 何ならお堅い高柳の姓を捨てて、今日から二八と名乗るか?」
「何を言っているんです!そんなチンピラみたいな名前、絶対にダメです!!」
彩乃が声を裏返して怒鳴ると、凌庵はどこ吹く風とばかりに愛用の薬篭箱をトントンと整え、楽しそうに喉を鳴らした。
「そうか?天竜堂の二八先生、案外粋で覚えやすいと思うんだがなあ・・・。」
「これ以上調子に乗るなら、今夜の晩酌の酒、水で倍に薄めますからね!」
「おいおい、そいつだけは堪忍してくれよ。」
彩乃はやれやれと大きな溜息をつきながらも、どこか誇らしげで呆れたような眼差しを向け、その十六文の山をそっと小銭箱へと納めたのだった。
「冗談はさておき彩乃殿、手が空いた時で良いから、およね婆さんの息子夫婦の家へ伝言を頼む。」
「えっ?伝言ですか?」
「ああ。これからは、出来るだけおよね婆さんと共に台所に立つこと。そして、婆さんが作ったものは、どんな味であれまず『美味しい』と褒めてやることをな。あれは老耄になりかかっている。最初の対応を間違えて自尊心を傷つければ、引きこもって一気に老いさらばえる。家族の温かい言葉こそが、何よりの薬だ。頼んだぜ?」
「全くもう!すぐにそうやって真面目な話にすり替えるんだから!私は本気でっ!!」
彩乃はぷっと頬を膨らませた。少しはご自分の身体や天竜堂の台所も心配してほしい、という彼女なりのもどかしさが、その怒り顔には詰まっているのだ。
「おーい、凌庵先生!居るかね?」
彩乃の小言をかき消すような威勢のいい声と共に、庭先から入って来たのは、近所の百軒長屋を仕切る大家の幸兵衛と、その妻のお千恵だった。幸兵衛の手には、ずっしりと重いザルが握られている。
「先生、これ佃島の知り合いから融通してもらった蜆。身が大きくって美味いよ!」
「こっちは畑で採れた大根、これでお味噌汁でも作りなさいな。」
お千恵もにこやかに風呂敷包みを差し出す。
「済まねえな、いつもいつも。」
幸兵衛はふと、彩乃の膨くれた顔を見てニヤリと笑った。
「何だい彩乃先生、また先生のお人好しに愚痴を零してたのかい?」
「だって幸兵衛さん!先生ときたら仕事は丁寧ですけど、患者の愚痴にまで半日近く付き合って、これじゃあ商売になりません!この間だって、長屋の店子の店賃を肩代わりしたりしたんですよ!?普段からタダ働き同然なのに、お人好しを通り越してただの馬鹿です!」
バツが悪そうに頭を掻く凌庵。すると、幸兵衛はゆっくりと首を横に振った。
「それは違うよ、彩乃先生。先生はタダ働きをしてるんじゃねえ。この八丁堀に『情け』を貸してるのさ。そして、こうして俺たちが野菜や魚を持ってくるのは、その恩を、気持ちで少しずつ形にして返してるんだよ。」
彩乃はハッとしたように、机の上の初鰹と瑞々しい蜆に目を向けた。情けを気持ちで返す貨幣のやり取りだけでは決して成立しない、江戸の下町に息づく強固な助け合いの絆。それが垣間見えた瞬間であった。
「助け合い・・・・。」
彩乃が小さく呟くと、凌庵は桶で手を洗いながら悪戯っぽく笑った。
「いくら気持ちでも、幸兵衛さんのお小言だけは勘弁してもらいたいがな。」
「おっと、こいつは一本取られたねぇ!」
はっはっはと豪快に笑い出す幸兵衛夫婦の姿に、診療所の空気は一気に和んでいく。
「まあ、せっかく来てくれたんだ。珈琲でも淹れよう。」
凌庵は南蛮製の豆挽き器を取り出し、ハンドルをガラガラと回し始めた。芳醇な、しかし町人にとっては異質な香りが診察室いっぱいに広がる。薬包紙に挽いた粉を入れ、熱湯を注ぐと、漆黒の滴がポタポタと落ちていく。
「最初は泥水かと思いましたが、今はすっかり慣れましたよ。」
「慣れると、これなしでは朝が始まらんようになる。」
幸兵衛が珈琲を啜る横で、彩乃はこれでもかと砂糖を投入していた。彼女はまだ、このオランダ由来の苦味には慣れていないようだ。それぞれが出された珈琲を啜りながら、世間話に花を咲かせる。
「先生、また検死を担当なされたとか。おつかれさまでございます。」
「全く、幼い子供が命を落とすと言うのは嘆かわしい事だ・・・。」
「子供が欲しくても望めない者もいると言うのに、罰当たりもいる物です。うちも一人息子がいますから、他人事には思えませんねぇ。血がつながろうと無かろうと、自分の子供を殺そうだなんてよく思いますねぇ。あたしなんざ、子供が無茶をして死にかけた時には思い切り張り倒して叱ったもんです・・・。子を想えばこそね・・・。」
器の中の黒い液体のように、一瞬重い雰囲気が天竜堂を包む。
するとお千恵が、その雰囲気を振り払うように何かを思い出した。
「そうだ思い出した。先生方は今、巷で流行っている化粧水を知っているかい?」
「化粧水?」
「そうなんですよ、知り合いの髪結いが言っていたんですがねえ。何でもその“香り水”を塗れば、 男となら男ぶりが、女なら女ぶりがぐんと上がり、相手を落とすのは造作も無くなるそうで・・・。」
「何だか、眉唾っぽいですね。」
あまりの大袈裟な評判を聞いた彩乃の顔から、思わず苦笑がこぼれた。 しかし、凌庵の方は興味が湧いたと見えて、身を乗り出す。
「その化粧水、何て名前だい?」
「確か・・・、佐葦の露といいましたかね。」
「佐葦と言うと・・・、山百合のことか。」
「詳しい事は解りませんけど、中々に評判を呼んでおりますよ。買うのは歌舞伎役者だとか、辰巳芸者だとか、自分を売る生業の者たちです。」
「なるほど。そういった華やかな生業の者なら、香り水は必需品だろうな。」
「お前さん、うちでも扱ったらどうだい?」
「馬鹿をお言い、うちは荒物屋だよ。籠や箒に交じって高級な化粧水なんて置いてあったらおかしいだろう。」
「やっぱり駄目かしら・・・。」
当たり前のことを突っこまれ、お千恵は肩をすくめる。幸兵衛は珈琲の杯を置き、少し声を潜めた。
「それに、そんな贅沢品はすぐに売れなくなるよ。今は北町奉行所が月番だからまだいいが、南町が月番になってごらん。盗み人殺しより奢侈禁制に反する者を引っ立てるのに躍起になっている同心や御用聞きに、すぐに睨まれちまうよ。」
「そうだねぇ・・・、つまらないねえ。あれも駄目、これもダメじゃあ、息が詰まってしまうよ。」
「ああ、近頃はさらに五月蠅くなった。芝居や寄席、戯作に至るまで役人の目が光る。中には役人とは関係のない庶民の中にも、やっかみ半分で同調して、そうした華やかな商いをする者を叩く奴まで現れる始末だ。」
「そういう、くさくさとした世の中だから・・・おかしな奴が現れるのでしょうねぇ。」
お上が定める「天保の改革」――奢侈禁制を主とする厳しい取り締まりは、江戸庶民のささやかな暮らしや楽しみさえも無情に蝕んでいた。 ささやかな娯楽こそが、過酷な日々を生きる糧になる。そんなことは物心ついた子供でも分かるというのに、お上の御歴々は何も分かっていないようであった。
「誰かこの世の中を、正して欲しいものだねぇ・・・。先生、どうにかならないかい?」
「一介の町医者である俺に、どうにか出来るわけがないだろう。俺に出来るのは病を治し、患者の役に立つことだけだ。」
「それだけで充分ですよ。先生みたいなお医者様が近所にいるおかげで、みんな安心して暮らす事 が出来ます。頼りにしておりますよ。」
「そうですとも。何か必要ならいつでも言ってくださいね!掃除洗濯飯炊きなら、いつでもやりに来れますので!」
ドンと胸を叩いて笑うお千恵。幸兵衛は小言っぽく、お千恵はお節介焼き。どちらも時に煩わしく思えることもあるが、凌庵にとってはこれ以上なく有り難い存在であった。
「有り難い。彩乃殿に医者の道具以外のものを弄られては、とんでもない事になるからな・・・・。」
「ちょっと!どういう意味ですか!?」
彩乃は顔を真っ赤にし、杯を振り上げて凌庵に詰め寄った。 彩乃は薬学にも長けた優秀な内科医だが、それ以外の家事全般には一切の才能がない。四角い部屋をジグザグに掃き、野菜を切らせればみじん切りを越えて粉々になる。一人暮らしの長い凌庵の方が、遥かに家事が上手いのだ。 しかし、医業で多忙を極める身としては、家事にまで手が回らないのも事実。お千恵のような家事自慢に頼れるのは、実に願ってもないことであった。
幸兵衛とお千恵が帰り、入れ違いにまた患者がやって来る。
天竜堂の混雑がようやく治まり、患者の足がまばらになったのは、夕七つ――申の刻(午後四時頃)の事であった。




