4.天竜堂の日常
「先生〜!待ちわびましたよぉ〜っ!」
「家のガキがまた熱を出しちまってえ〜。」
「婆さんが転んじまったんだぁ!」
「ちょいと、横入りするんじゃないよ!!」
「俺が先だぁ!」
高柳凌庵に休む暇はない。朝の引き戸が開くやいなや、彼を待っていた患者たちがどっと診察室へ押し寄せてくるのだ。 検死の御役目だけが凌庵の仕事ではない。奉行所からの要請がない日は、泥にまみれて生きる下町の人間を救う、頼れる町医者であった。
八丁堀岡崎町地蔵橋通り――ここに凌庵が構える『天竜堂診療所』がある。この診療所は、北町奉行所与力の広大な拝領地を地借りして建てられたものだ。土地の主である近藤家、その嫡男・新太郎の実家は、奉行に代わって現場を仕切り役人たちを束ねる筆頭与力の家柄だ。
その近藤家を始めとする与力たちは、敷地の一部を他者に貸し付けて副収入を得ていた。 筆頭与力と言えば聞こえはいいが、その実、身分は将軍に直接拝謁することも許されぬ御家人に過ぎない。「不浄役人」と蔑まれることもあり、その台所事情は決して芳しくなかった。幕府は格式を保たせるため武士の副業を固く禁じていたが、背に腹は代えられない。彼らは許される範囲で内職を行い、さらに幕府に黙認された副収入で家計を支えていたのだ。 与力格に拝領される二百五十坪から三百五十坪もの広い敷地に、「家作」と呼ばれる貸家や長屋を建てて町人に貸し、地代や家賃を取るのが一般的なやり繰りであった。
こうして生まれた「八丁堀拝領町屋敷」には多種多様な人間が住み着き、「小間物から荒物、寺子屋から遊女まで、八丁堀に無い物なし」と謳われるほどの活気を呈していた。特に社会的信用の高い医者や儒者が多く居を構えたことから、巷では「医者、儒者、犬の糞」という、八丁堀七不思議の一つに数えられる些か品のない俗謡まで流行っているほどだ。
「聞いたか? この間の子供の事件、可哀そうになぁ・・・。」
「継父が下手人だったってな。まったく、どういう神経をしてやがるんだか・・・。」
「ここの先生が暴き出したそうだな、町方お抱えのおろく医者の名は伊達じゃねえな。」
事件が起これば、すぐさま噂となって人々の口から口へと伝播する。それもまた、狭い街に大勢の人間がひしめき合って暮らす江戸の特徴であった。
好き放題に事件の噂話を繰り広げる患者たちに、奥の薬調合所からピシャリと鋭い声が飛んだ。
「いつまで無駄話をしているんです!ほら次の方、早くお入りなさい!」
痺れを切らしたのは、凌庵の助手であり優秀な女医でもある藤山彩乃であった。彼女が本道(内科)と婦人科を、凌庵が主に外科を担当し、二人は天竜堂の屋屋台骨をがっちりと支 えている。
「次の患者、入りな。」
「へーい、失礼しやす。」
威勢よく入ってきたのは、地回りのヤクザ者と大喧嘩をして担ぎ込まれた魚屋の銀次だった。一心太助を気取った喧嘩っ早さで、「烏の鳴かぬ日はあっても、棒手振り銀次が拳を振るわない日はない」と近所でも評判のトラブルメーカーだ。
「またお前か、銀次。」
凌庵が心底呆れた声を出すと、銀次は血塗れの頭を掻きながら、へらへらと締まりのない笑みを浮かべた。
「へへへ、面目ねえ。町娘に割り込みで絡んでやがった地回りをぶちのめしたら、ちょいとドジッちまいやして。」
「馬鹿者が、いい加減に懲りろ。毎回毎回、鮫じゃあるまいしいちいち食いつくな。」
凌庵はピンセットで手際よく傷口を洗浄すると、オランダ製の鋭い縫合針を手に取り、ざっくりと斬られた銀次の頭皮を躊躇なく縫い合わせていく。
「痛っでえええええーーー!!!」
診療所に銀次の絶叫が木霊する。しかし凌庵は眉一つ動かさず、凄まじい速度で針を走らせ、包帯をきつく巻き上げた。他の診療所ならば、悲鳴が聞こえれば待合の患者が不安を覚えるところだが、ここでは銀次の治療と絶叫もある意味「天竜堂の名物」であった。
「これに懲りたら、少しは拳を引っ込めろ。脳天でも割られたら、いくら俺でも繋ぎ止められんぞ。お前の代わりはいないんだ。お前が大怪我をすれば、長屋の飯のおかずはどうなる。」
「へ、へーい。先生、こいつは治療の御礼でさぁ。」
銀次は懐から十六文を取り出すと、さらに天秤棒の桶の中から、今朝仕入れたばかりのピチピチと跳ねる初鰹をドスンと机に置いた。
「鰹か、美味そうだな。」
「時期の物ですからね、絶品ですぜ!ではこれで!」
「うむ。売るのは男伊達ではなく、魚だけにしろよ?」
軽口を叩きながら銀次を送り出す。凌庵の言葉遣いは一見すると毒舌で容赦がない。だが、その一 言一言の裏には温かい愛情がこもっていた。だからこそ、近隣の人々は凌庵を愛し、頼りにして集まって来るのだ。
もっとも、最初からこうだったわけではない。診療所を開いた当初は「こんな若造に何ができる」と周囲から邪推された。さらに凌庵には、変死体が上がったと聞けば自ら進んで首を突っ込みたがる性分があり、「物は試しだ」と怪しげな実験や薬に付き合わせようとすることさえあった。そのため町人たちは「下手に診てもらえば自分も死骸にされるのでは」と警戒し、客足は寂しいものだったのだ。
しかし、その懸念は杞憂に終わった。凌庵は検死の才もさることながら、臨床医としての腕も群を抜いていた。難病も難なく治すうえ、治療代はある時払いで催促なし。最初のうちは貧しい患者から一切金を取らなかったが、周りの強い助言を受けて少しだけ取ることにした。 そこで凌庵が提示した額が、二八蕎麦同然の「十六文」だったのだ。 しかも凌庵は身分や貧富に一切とらわれず、夜鷹や乞食のような患者も決して拒まなかった。
「腕が良い上に、二束三文で診てくれる生き仏のような先生がいる。」
「長崎でみっちりと蘭学を学んだ大先生だそうだ。」
「八丁堀の“二八先生”に診てもらえりゃ、万病も安心だ。」
人々は口々に凌庵を褒めちぎる。そして、決まってこう付け加えるのだ。
「――あの“死骸調べ”と“物は試し”さえなけりゃあねぇ・・・。」
一風変わった変人気質は玉に瑕で、患者たちは時に溜め息を漏らすが、今や凌庵に絶対の信頼を寄せていた。
「それでおよね婆さん、今日の喧嘩の原因は何だい?」
続いて診察台に座った老婦人に、凌庵が優しく問いかける。
「ですからねえ先生!せめて嫁に楽をさせてやろうと、あたしが朝餉に味噌汁を作ってやったんで すよ。だがあの嫁ったら、一口飲んで『辛くて飲めない』なんて抜かしやがったんです! あたしゃ 自慢じゃないが、死んだ爺さんにも倅にも、一度だって飯の文句を言われたことはない! なのにあの嫁と来たら・・・だからあたしはね、御盆の上のありったけの物を投げつけてやったんです!」
およねの文句は止まらない。まさに立て板に水だ。
「その前は孫に玩具を買ってやったら甘やかすなとぬかしやがって・・・あぁ、こうなったらあたしなんざ御役御免って事なんでしょうなあ。このままくたばっちまった方が、みんなの為に良いんですかねえ・・・・。」
吐き出すだけ吐き出すと、およねはシュンと首をすくめて黙り込んだ。 周囲の患者たちは「また始まった」、「甘いの次は辛いかい」とクスクス笑っている。だが、凌庵の目は笑っていなかった。
その引き締まった顔は、いつになく真剣であった。
(・・・おかしい。単なる嫁姑の確執ではないな)
普段なら「まあ仲良くしなさい」と聞き流すところだが、最近のおよねの「変化」が、蘭学医としての凌庵の脳内で不穏な符丁を結んでいく。 かつては完璧にこなしていた料理の味付けが突如激変したこと。注意されたことに対し、異常なまでの被害妄想と激しい怒りを示すこと。そして、その直後に訪れる急激な気分の落ち込み――。
(老耄の始まり・・・。)
現代で言う認知障害の初期症状だ。脳という器官の微細な変性が、人間の心と感覚を変質させていく。家の者は単なる「意地悪な姑のワガママ」としか捉えていないが、これは医者という玄人が介在しなければ、遠からず家庭が崩壊する。そして、このような状態の患者に対し、正論で責め立てたり全否定したりすることは、最も避けるべき禁忌であった。
「お前さんは、よく頑張っているよ。」
凌庵は静かに、包み込むような声で言った。
「だがな、お前さんの苦労と長年の腕を本当に理解させるためには、次からはなるべく嫁と共に台所に立つことだ。お前さんの塩梅を、横で教えてやるんだよ。互いに手を動かし、意見を交わす。そうすれば、あの嫁さんもお前さんの偉大さが分かるはずだ。片方に任せきりにするから味のズレが揉め事になる。共にやることで、互いの苦労が身に染みるというものさ。」
「・・・そういう物かねぇ?」
「そう言うもんだ」
目の前にいるのは、親子ほど歳の離れた若い医者。しかし、その眼差しには深い包容力があり、言葉には至極納得のいく道理があった。およね婆さんは憑き物が落ちたように何度も深く頷いた。
「解りましたよ、先生。アタシだってあの嫁が憎い訳じゃないんだ・・・。少し、やり方を変えて努力してみますよ。」
「そうしな。では、いつもの薬を出すよ。」
凌庵はおよねの持持病である高血圧を抑える薬を手際よく調合していく。のぼせや頭痛を改善して肝の昂りを抑える『大柴胡湯』と、不安や神経症的なイラつきを緩和する『柴胡加竜骨牡蛎湯』。これらを絶妙な塩梅で合わせた天竜堂特製の漢方薬だ。それを受け取ると、およね婆さんは銭差しでカチリとまとめた十六文をしっかりと机に置き、晴れやかな顔で帰っていった。
「老耄が始まったとはいえ、金払いだけは普段と変わらん。生活の型はまだ崩れていないな。ならば、まだ手遅れじゃない。」
凌庵はおよねの背中を穏やかに見送る。アドバイス通りに家族が和解し、暮らしやすくなればいいと心から願いながら。
入れ違いに、また次の患者がやって来る。天竜堂は今日も、日中問わず大勢の人間で溢れかえっていた。江戸の下町らしい人々の笑顔と、泥臭い活気。凌庵はその光景を、どこか愛おしそうに、そして遠い目で見つめた。
彼自身、嘗て時代の残酷な荒波に飲み込まれ、全てを失いかけた身だ。だがそれに抗い、多くの奇跡に生かされて、今こうして医者として看板を掲げている。本来なら、このような平穏な日常を見る権利さえ奪われていたはずだった。 だからこそ、長屋の住人たちの何気ない笑顔が、凌庵にとっては竜宮城の舞い踊りよりも遥かに尊く、鮮やかに映るのであった。




