3.江戸の検死官 後編
北町奉行所の御白州。吟味の場には、久助とおしまの二人が正座していた。
奉行の遠山金四郎が出座し、名前と身元の確認を執り行う。その斜め右には、今回検死を担当した者として凌庵も同席していた。奉行による確認が終わると、以降の実質的な吟味は吟味与力、神谷平蔵へ引き継がれる。
おしまは小さな赤子を抱いていた。久助との間に生まれた子だ。おしめや乳の都合もあり、片時も母親から離すわけにはいかない。
場を引き継いだ平蔵が、鋭い眼光を二人へ向けた。
「当方の調べにより、亥之吉の死に不審の儀あり。これより質す。……亥之吉の死は、不慮の事故ではない可能性が出てまいった。」
「不慮ではない?でしたら、亥之吉は誰かに殺められたと!?」
「控えよ。吟味の途中である。」
おしまは思わず言葉を挟んだが、平蔵の威圧感に押し黙った。
「信じがたいかもしれぬが、其方の言う通り、亥之吉は他人の手に掛かって殺められたと当方は見ている。」
その言葉におしまはぶるぶると肩を震わせた。胸の中では、赤子がすうすうと無邪気な寝息を立てている。
一方、久助はまんじりともせず白洲に座していた。その言動を、凌庵は注意深く監視する。
(女房の方は驚いているようだが、久助の方は妙に落ち着いている・・・。)
凌庵は最初から久助に疑いの目を向けていた。如何に血の繋がらない息子であろうと、倅が殺されたと聞けば顔色の一つくらい変わるものだ。しかしこの男はそれがない。ただ「この白洲が早く終わらないものか」と、時が過ぎ去るのを待っているかのように見えた。
ふと目をやると、久助の左の拳が薄っすらと赤黒く変色しているのが見えた。光の加減かとも思い、この時点ではまだ発言を控える。
「して、久助。」
「へ、へい。」
「手の者の調べによれば、亥之吉は其方にあまり懐いていなかったようだな。亥之吉が其方に食って掛かる所を見ていたという証言が、幾つも上がっている。」
「そ、そりゃあ血が繋がっていませんからねぇ。向こうとしてはあっしは他人ですから、逆らうのも無理ござんせんよ。あっしなりに愛情を持って可愛がっていましたがね。」
「左様か。中には其方が怒鳴りつけ、子供を小突く所を見たという者もいたが?」
「・・・まあ、あっしは躾に厳しい所がございまして、気も短いもんだから手を出したことはあります。可哀そうなことをしたと、反省しておりやす。」
へこへこした様子の久助は、その場しのぎの言い訳を並べる。しかし、「カミソリ」の異名を取る平蔵は、さらに核心へ詰め寄った。
「つい、なぁ。其方は常に子供にむかっ腹を立てておったのではないか?住んでいる長屋の者達の 話では、日常的に子供の泣き声と其方の怒鳴り声が響いていたとのことだが?」
平蔵の追及に、久助は鬱陶しそうにチッと舌打ちしてみせた。
「長屋のババア共は大袈裟ですからねぇ。そりゃあ暮らしていりゃ、喧嘩の一つもしますよぉ。」
一向に埒が明かない久助の態度に、ついに凌庵が口を開いた。
「神谷様。手前も検死を行った者として、一言宜しいか?」
「うむ、許す。」
平蔵の承諾を得た凌庵は、ギロリと久助を射抜いた。
「久助と申したな。」
「へい。」
「其方の左手、如何致した? 何やら肌の色が変わっているようだが?」
手の様子を問われ、久助はギクッとして左手を右手で覆い隠した。
「い、いや、軽くぶつけただけですが?」
じわりと冷や汗をかく久助を見つめ、凌庵はふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「もう三文芝居は止さぬか、久助。」
「は?」
「亥之吉を殺したのは、貴様であろう。」
この言葉に、黙り込んでいたおしまも息を飲んだ。
「な、何を言いやがるんだ!」
「とぼけるな。お前が下手人であることは、既に耳にしているのだ。」
「耳にしている!?誰が何を言ったってんだ!」
「亥之吉だよ。」
「馬鹿言うんじゃねえ!亥之吉は死んだんだ!物を言うはずがねえ!!」
逆上する久助に対し、凌庵は微動だにせず言葉を重ねる。
「亥之吉の死骸がそう言った。死骸は決して、嘘をつかぬ。」
検死の真実を知る凌庵の声には、凄まじい説得力があった。しかし久助は、小馬鹿にした態度を崩そうとしない。
「噂には聞いていたよ、死骸好みのキチガイ医者のことをな!お役人様っ!こんなキチガイ医者の 言葉なんぞ信じないで下せぇ!!可哀そうに亥之吉の奴は勝手に川へ遊びに行って、足でも滑らせて溺れたんでございましょう。それを殺されただなんて・・・継父とは言えあっしを疑うなんてあんまりでございますよ!」
白々しく涙を拭うフリをする久助を、平蔵は無表情で見つめている。
「しかし久助とやら。この凌庵が言うには、亥之吉の体には複数の痣があったとのこと。その痣を、どう説明する?」
「痣ぁ?そりゃあ流されりゃ、どこかにぶつけることもありましょう。それが何だっていうので?」
「ならば訊くが、久助。お前さんは右手と左手、どちらが利き手だ?」
「ハッ、何を聞くかと思えば・・・。あっしは昔から右利きでさあ!魚を捌く包丁も、箸を持つのも右手だ!この左手は普段あまり使わず留守にしているから、思わずしくじってぶつけちまったんだ!」
久助はこれみよがしに右手をかざしてみせた。
――その瞬間。
ヒュッ、と風を狂わせる鋭い音が響いた。 凌庵が懐から取り出した重厚な手慣らし用の扇子を、容赦なく久助の顔面めがけて投げつけたのだ。
「なっ!?」
突然の襲撃に、久助の体が咄嗟に反応する。
無意識のうちに弾かれたように跳ね上がったのは――「左手」であった。パシィン! と激しい音を立て、久助の左手が扇子を強烈に払いのけた。
「あっ・・・。」
払いのけた直後、久助はハッとして顔から血の気を引かせていく。瞬時に出されたその左手に、御白州にいる与力・同心たちの視線が一斉に集中した。
「右利き、確かにそれには違いないだろう。だがその右利きは、幼少の頃に直されたものであろうな。人は幼少期に右利きへ矯正されても、咄嗟の危機や感情が高ぶった瞬間には、生まれ持った真の利き手が出る。お前さんの本当の利き手は左だな?」
「くっ!た、たまたま左手が出ただけだ!」
「それだけではない。亥之吉の体に浮かび上がった打撲や痣痕は、そのほとんどが体の右側に集中していたのだ。向かい合った大人が左手で殴りつければ、子供の右側に痣ができる。・・・・久助、お前が左手で日常的に亥之吉を殴りつけていた動かぬ証拠だ!」
「へ、屁理屈だ!藪医者の戯言だァ!そこまで言うなら証拠を出してみろ!」
見苦しく叫ぶ久助の手首を、凌庵は容赦なく掴み上げ、その掌と拳を白洲の全員に見せるように掲げた。
「証拠なら、お前さんのその手にも刻まれている。指の関節と拳の皮膚が厚く硬化し、擦り傷が何度も治癒した痕がある。これは魚を裁く包丁の傷ではない。軟らかい人間の肉体を……幼い子供を日常的に殴りつけていた者特有の拳の痕だ!あの日殴られ、強かに頭をぶつけて泣きじゃくる亥之吉が鬱陶しくなり、黙らせるために首を絞めた。違うか!」
「なっ!?」
凌庵の鋭い追及に久助は言葉を失いガタガタと震え出した。すると、見届け役として控えていた新太郎が静かに一歩前へ出た。
「まだ不満であるなら、此奴はどうだ?定町廻りより事前に伺っている。久助、お前は亥之吉が勝手に長屋を飛び出し、勝手に川へ落ちたと言い張ったな?だが、長屋の周囲で入念に行った聞き込みにより、お前が亥之吉を激しい口調で怒鳴りつけ、逃げようとするあの子の胸ぐらを掴んで室内へ引きずり込む姿を見たという確たる証言が上がっている!」
凌庵、そして新太郎によって突きつけられた証拠の数々に、久助はついに腰を抜かした。
「・・・あのガキが!あのクソガキが悪いんだ!!せっかく面倒を見てやってるっていうのに言う ことを聞きやがらねえ!! その挙句、よそ者だなんてぬかしやがるから!!」
久助はついに自白し、白洲で大声で喚き立てた。すぐさま六尺棒を持った同心・小者が久助を畳へねじ伏せる。 平蔵はおしまへ視線を向けた。
「おしま。其方も少なからず久助の愚行を察していたのではないか? 何故少しでも声を上げようとしなかった?」
「この子を・・・、てて無し子にするのが怖かったんです! それに、逆らえばいずれこの子にも手を出すと考えたら・・・ごめんなさい!ごめんよ亥之吉ぃっ!」
「おしま!!テメエも悪いんだ!!テメエのガキぐれえ叩き直しておきやがれ!!此奴は俺なりの躾だァ!!」
身勝手極まりない久助の罵声。
――その瞬間、怒りを抑えきれなくなった凌庵が前に踏み出し、久助の顔面へ凄まじい鉄拳を見舞った。
「痛ぇっ!?」
鼻血を撒き散らし、突っ伏す久助。普段の冷静さを完全に失った凌庵が、胸倉を掴みらんらんと目を怒らせる。
「どうだ痛えか!?此奴はなァ、亥之吉の痛みだ!!生きたくても生きられなかった亥之吉の痛みだ、思い知ったか外道め!!テメエみてえな奴は、虫けらにでもなりやがれ!!」
あまりの荒々しさに、新太郎も息を飲んで制止するのを忘れたほどであった。 すると、障子の向こうから重々しい声が響いた。
「それまで!」
吟味の様子を襖越しに聞いていた金四郎であった。その顔にもまた、激しい怒りが満ちていた。
「久助。お前は言うことを聞かぬという身勝手な理由で幼子を殺めた。その所業、不届き至極! よって市中引き回しの上、打ち首獄門と致す!おしま。其方も亭主の愚行を見て見ぬふりをした者として、本来ならば罰する所なれど、事情を考慮し叱りに留める。一同、立ちませい!」
「・・・こんな事なら、瘤付きなんざ相手にするんじゃなかったァ!!」
ギャアギャアと叫び散らす久助は縛り上げられ、奥へと引っ立てられて行った。その騒がしさに目を覚ました赤子が、おしまの胸の中で火がついたように泣き始める。それを見つめ、金四郎はおしまへ優しく言葉をかけた。
「おしま。今度はしくじるでないぞ。如何に子の敵とはいえ、その子に罪はない。立派に育てよ。」
「はい・・、はい・・・!」
泣き顔をくしゃくしゃにしながら、おしまは赤子を抱き上げて退座していった。その背を見届け、凌庵もまた白洲を後にしようとする。それを金四郎が呼び止めた。
「凌庵、ご苦労であった。これにて一件落着だな。」
「・・・口惜しいものです。本当ならば、救ってやりたかった・・・・。」
凌庵は確かに事件を解決した。だが、殺された亥之吉の命は二度と戻らない。こうした無念の死を、今まで何度も見届けてきた。その都度、このやり切れない虚しさに襲われるのだ。
「だが、其方のおかげで亥之吉の魂も救われたはずだ。その行いは決して無駄ではないぞ・・・。元気を出せ。」
「はい・・・。では、患者が待っておりますゆえ。後はお頼み申します。」
金四郎の慰めに頭を下げ、凌庵はお白洲を退いた。後を追ってきた新太郎が、凌庵の背中に声をかける。
「先生、今回も世話になったな。礼を言うぜ。」
「なら礼の代わりに、天竜堂の土地代を無しにして貰おうか?」
「おいっ!狡いぞ!」
「ふっ・・・冗談だ、またな。」
小さく作り笑顔を見せ、凌庵は奉行所を後にした。呉服橋の袂まで歩き、凌庵はふと足を止めて江 戸の青空を見上げた。
「亥之吉・・・、今度生まれ変わったら幸せになれよ・・・。」
――検使役。幕府の要請を受け、変死体の検死や怪事件の見届けを請け負う者をそう呼び、それに携わる医者を「検使医」と呼ぶ。 しかし、そのような正式な役職名は幕府の職制には存在しない。 周囲の者が便宜上つけた架空の名だ。故に官位もなければ、与えられる扶持もない。あるのは僅かな手間賃と、残された者たちの虚しさだけだ。
それでも凌庵が自ら進んでこれを引き受けるのは、亡き祖父、そして自分を育ててくれた恩師が、口癖のように語っていた言葉を守るためだ。
『上医は国を医す』
この教えを今も堅く胸に抱き続け、日夜死骸の声なき声を聞くのだった。
人は彼を、「おろく医者」と呼ぶ。




