↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/17

6.落花の亡芸

 朝から昼にかけて天竜堂を訪れた患者を捌いていた凌庵は、七つ半(午後五時頃)になろうとしていた時に、一人の使いの者に戸を叩かれた。使いは深川の片隅にある「笹屋」という置屋の者であった。

 嘗ては三味線や歌舞音曲で華やいでいた深川も、今やお上の改革のあおりを受け、華美な灯火は消え去っている。通りにはしんと静まり返った、どこか湿っぽい寂しさが漂っていた。多くの芸者は同じ花街として名高い柳橋へ流れるか、ささやかな接待で小銭を得るなどして細々と暮らしているのだ。

 凌庵は薬篭箱を抱えた彩乃と共に、夕暮れの街並みを歩く。かつて漂っていた鼻を刺すような白粉の匂いはなく、流れてくるのは火鉢の燃える焦げ臭い匂いくらいなものであった。

 「先生、お待ちしておりました。」

 「うむ、小染さんは寝ているのか?」

 「ええ、早速診てくださいまし。」

 案内された奥の部屋へと進んでいくと、それまでの湿け湿けとした空気を払うような、良い香りが ふっと鼻腔を刺激した。

 (香木でも焚いているのか?)

 痩せても枯れても置屋だ、香を焚く者がいても不思議はない。匂いの元と思われる部屋の戸が開けられると、薄暗い行灯の光の下で、血色のない芸者が横たわっていた。

 「こちらが小染(こそめ)さんかい?」

 「そうです。」

 「随分と顔色が悪いですねぇ・・・。」

 「早速診させてもらおうか」

 凌庵が声をかけると、小染は力なくこちらを向いた。元は色白だと聞いていたが、その肌には強い黄ばみが現れている。瞼を軽く押し上げさせると、眼球も充血と共に黄色く濁っていた。

 「黄疸が出ているな。」

 「そうですね。酒の酔いのせいでろくに眠れていないのでしょう、目も真っ赤です。」

 「小染さん、便は出るか?」

 「ああ・・・、ちょいと緩いがね・・・・。」

 黄疸に体調不良、加えて下痢とくれば間違いない。過度な飲酒によるものだ。

 「主人、小染さんは普段から酒をよく飲むのか?」

 「ええ・・・、人並み以上で。」

 「だろうなぁ。」

 「いけませんね、少しは控えないと・・・。」

 嗜好は人それぞれであり、大酒飲みの芸者がいてもおかしくはない。だが、小染の飲酒は単なる酒好きというわけではないようだった。 それを語り始めたのは、小染自身であった。

 「偉そうに言うんじゃないよ・・・。」

 「え?」

 「他に何を売れって言うのさ・・・あたしみたいにパッとしない女は。飛び抜けて顔がいいわけじゃないし、踊りが得意というわけでもない。あたしにはねぇ、これしかないんだよ・・・・!」

 髪をバリバリとかきむしりながら、血走った目をこちらに向ける。指を突きつけてくるが、その指先はぷるぷると細かく震えていた。ただの二日酔いではない、大分酒毒に侵されているようだ。 やけくそになる小染を、笹屋の主人である儀助(ぎすけ)が慌てて制した。そして、彼女が抱える切実な事情を語り始める。

 「小染がやけっぱちになるのも無理はないのです、先生。小染は芸者衆の間じゃ『蟒(うわ)蛇(ばみ)の小染』と呼ばれていましてね。金を払った男の客を相手に、飲み比べをするのです。負けたらその金を差し出し、小染に勝ち越せたら床を共にする・・・・これが小染の売りなのです。本当なら踊りや端唄も達者なのですがね、今は派手な芸を披露すればすぐにお手入れが入って身を滅ぼしますから・・・。」

 「何ですか、その無茶な売り方は。今深川じゃ、そんなことが流行っているんですか?」

 「浅ましい稼ぎ方で悪かったね!文句があるなら、こんな暮らししか許さないお上に言っておくれ!」

 「彩乃殿、相手には相手の事情があるものだ。そのくらいにしておきなさい。」

 小染の事情を事前に使いの者から聞いていた凌庵は、彩乃に指示して薬を取り出させた。黄疸治療に適している茵蔯蒿湯(いんちんこうとう)や、胃腸の粘膜を鎮める半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)の調合である。 彩乃が薬を渡すと、儀助はペコリと頭を下げた。

 「ではこれを、必ず飲ませてください。それから暫くは蜆の汁を飲むのがよろしいでしょう。稼ぐためという事情は分かりますが、暫くはお酒を控えるように。体が壊れてしまっては元も子もありませんよ。」

 「かしこまりました。小染、あまり無理をするなよ?暫くは休め。」

 「あいよ・・・、あたしみたいな奴は休んだって誰も困りやしないさ。あたしの酒に寄ってくるのは、どうにかしてあたしを抱こうっていう助平ばかりなんだから。」

 自虐的にそっぽを向く小染に、凌庵は優しい笑みを向け、諭すように言った。

 「誰も困らないなんてことはない。確かに大半は助平かもしれんがね、中にはあんたと酒を酌み交わす時間を楽しみにしている客だっているはずだ。それに・・・この店の主人は、今でもお前さんを案じている。だからこそ、俺に往診を頼んだのだよ。」

 「そうかねぇ・・・。」

 「そうとも。なぁ、ご主人?」

 「ええ、そうですとも!小染、あまり自分を卑下するもんじゃないよ。お前が店のために必死で稼ごうとしてくれているのは痛いほど解っている。だからこそ、もう少し自分を大事にしておくれ。」

 「・・・あいよ。」

 凌庵や儀助の温かい言葉が身にしみたのか、さっきまで顔を歪めていた小染の表情がふっと穏やかになった。そのまま、疲れたように静かに瞼を閉じて眠りにつく。

 それを見届けた儀助は、深々と頭を下げた。

 「先生、ありがとうございます。置屋の主人と言えば金目当ての因業ババアや強欲な奴が多いですがね、私はそうはなりたくないと心に決めております。小染の奴は、体が良くなるまで絶対に無理はさせませんのでご安心を・・・。」

 「うむ、ゆっくりと休ませてやってくれ。」

 診察を終えた凌庵と彩乃が立ち上がった、その時だった。 すれ違いざま、さきほどの芳醇な香りが再びふわりと二人の鼻腔をくすぐった。小染の着物の胸元から匂い立っているようだ。

 「ご主人、先ほどから良い香りがするのだが・・・。」

 「ああ、お気づきになりましたか。私も小染から聞いただけで詳しいことは知らんのですが、『これをつければ男がコロリと寄ってくるのさ!』と自慢げに言っていましてね。何でも、最近江戸で売 り出されている評判の化粧水だそうで・・・。」

 凌庵は、以前長屋の大家夫婦が語っていた噂を思い出した。意識してもう一度その香りを深く嗅ぐ。山百合のような強い花の香り――だが蘭学医としての鋭敏な感覚が、その奥にある刺すような微かな刺激臭と、肌にまとわりつく不自然な熱気を捉えた。

 (ただの香水にしては、匂いの立ち方が妙に強いな……)

 「ご主人、これは『佐葦の露』というものではないか?」

 「ええ、そうです!知り合いの売れっ子芸者に分けてもらったとか言っていましたよ。小染の稼ぎじゃ普段はとても手が出ないそうでね。役者や豪商といったお金に余裕があるお方の御用達だと申しておりました。『この香り水をつけられなくなったら、私はもうおしまいだ』なんて、まるで憑かれたように言っておりましてねぇ・・・・。」

 売り出し中の高価な香り水。最初は金持ちや売れっ子が手にするものなのだろう。 凌庵は小さく頷き、小染の寝顔を一瞥した。

 「化粧水をつけるなとは言わんが、あまり無茶な使い方はさせぬことだな。」

 「はい、無理はさせませぬ。・・・先生、これは些少ですが、薬礼でございます」

置屋の実情を知っている凌庵に対し、儀助はせめてもの感謝として十六文の束を二つ、丁寧に差し出した。小染の分と自分の分、二つの『情け』の意味だろう。

 「うむ、確かに。お大事にな。」

 玄関まで見送る儀助を背に、凌庵と彩乃は笹屋を後にした。 彩乃はジャラジャラと纏められた三十二文を巾着にしまいながら、ぽつりと溜息をつく。だがそれは、凌庵がいつものように安値で治療を引き受けたことに対する小言ではなかった。

 「可哀そうですね、先生。」

 「何がだ?」

 「無茶をすることでしか、自分を商えないなんて・・・。」

 「そうだな。世の歪みに呑まれた人間の姿が、あれなのだろう。全く、息苦しい世の中になったも のだ。」

 「世の中の歪みに呑まれて、お酒に呑まれて・・・近頃、そういう人が増えましたね。」

 「ああ。そうした心が傷ついた者が頼ってきたなら、真摯に向き合わねばならぬな。」

 「先生・・・、先生は自棄になって自分を壊すような事はしないでくださいね?」

 「俺か?俺は大丈夫だよ。自分を売るような気はさらさらないからな。飯が食えて、雨露を凌げる家さえあればそれで良い。」

 「まあ、もう少し自分を高く売ってもいいとは思いますけれどね、先生の場合は。」

 「どっちなんだよ。」

 持ち上げては落とす彩乃の軽口に、凌庵はフンと鼻で笑った。彩乃もまた、無邪気な笑顔を見せている。

 すっかり酉の刻(十八時)、夕闇が迫る八丁堀への帰り道。二人の鼻腔には、小染が纏っていた『佐葦の露』の不穏で妖しい残り香が、何時までも微かにまとわりついていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。