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7.名残り花

 八丁堀の夜は早い。奉行所の役人たちが家路に就き、大門の閉まる音が遠く届く刻限になると、町筋の喧騒は嘘のように引き、川面を渡る風だけが柳の枝を静かに揺らす。

  幾つかの往診を終えると、刻限は既に酉の刻(午後六時)になろうとしていた。年頃の娘である彩乃を帰し、凌庵は行きつけである柳橋、隅田川沿いに佇む船宿兼料理屋「鶴亀屋」の暖簾をくぐった。

 ガラガラと引き戸を引くと、出汁の芳醇な香りと、川面を渡る心地よい風が鼻腔をくすぐった。

 「あらお兄ちゃん、いらっしゃい」

 「邪魔するよ。」

 女将であるおえんの声に誘われるように、凌庵は普段から好んでいる奥座敷へと入る。洒落た造りの櫛形窓を開けると、隅田川のせせらぎと共に江戸の夜景が一望できた。見慣れているはずの風景だが、晴天の夜ゆえかいつもより爽やかに思えた。

 「はいよお兄ちゃん、お酒のおかわりだよ。」

 上物の酒が入った黒じょかと共に、花板である吉兵衛(きちべえ)が料理を運んできた。

目に鮮やかな紅色の身に、おろし生姜の香りが食欲をそそる初鰹の刺身。さらに琥珀色に輝くそら豆と雲丹の白和え、揚げたての車海老の天麩羅、新仔鰻の半助豆腐と、豪勢な品が並ぶ。宗和膳を置くと、吉兵衛は「ごゆっくり」と言葉を残して退座した。

 それを見送ったおえんは、凌庵の隣にすんなりと腰を下ろす。酒を注ぐ手元は鮮やかなまま、豊満な体をすりと寄せてきた。ほんのりと漂う白粉と髪油の甘い香りが、凌庵の鼻腔をくすぐる。

 「おえんちゃん、近いよ。」

 「あら、何を言っているのさ。同じおっ母さんの乳で育った乳兄妹じゃないか。今さら照れるような歳でもないだろうに。」

 「照れてなどおらん。ただ、酒が注ぎにくかろうと言っているのだ」

 「大丈夫さ、そんな素人じゃないよ。」

 凌庵ははぁと溜め息をついた。

  おえんは、凌庵の乳母であった亡きお登勢の娘であり、実の妹も同然の存在だ。同時におえんにとっては、血の繋がらぬ兄であると同時に一途に恋焦がれる相手でもある。

 「いつも済まぬな。俺のような死骸を診る医者が訪れては、暖簾に傷が付きはしないか?」

 「大丈夫だよ。にしても、久しぶりに来てくれたね。いつもなら診療所を閉めた後、彩乃先生に小言を言われながら天竜堂で固い飯を食べたいんだろうに。」

 「彩乃殿は今夜、およね婆さんの息子夫婦のところへ伝言に行っていてね。それに……今夜は少し静かに酒を飲みたい気分だったのだ。」

 「ふふん、やっぱりあたしの顔が見たくなったんでしょう?正直になればいいのに。」

 「いちいち揶揄うな。」

 おえんは悪戯っぽく微笑むと、自分の杯にも酒を注ぎ、くいっと飲み干した。豪快でありながらどこか艶っぽい、船宿の女将らしい飲みっぷりである。

 ふと凌庵の頭に、酒で体を壊した小染の姿が浮かんだ。

 「ところでお兄ちゃん、ありがとうね。」

 「何がだ?」

 「小染ちゃんの事だよ。あの子の噂は私の耳にも入っているんだ。男相手に向こう張って、飲み比 べで稼いでいるってさ。心配になってた所なんだよ。……あの子、どうだったんだい?」

 「ああ・・・、ひどい黄疸と酒毒だ。このまま飲み続ければ、来年の春を迎えることはできまい。あのような無茶な酒の売り方、見ていて気分の良いものではないな。」

 凌庵は自分が感じたままを吐き捨て、さらに言葉を続けた。

 「だが・・・、頭から責めることは出来ぬ。あの若い芸者とて、好きで体を壊すような飲み方をしているわけじゃないんだからな。彩乃殿にもそう言ったよ。」

 「そうだねぇ・・・、ああでもしなければ芸を売ることが出来ないんだよ」

 「酷いものだろうよ、深川の辺りは・・・。」

 「火が消えたようさ。役人どもめ、深川の街を歩いてみろってんだよ。夜になっても灯火はぽつり ぽつり。お上の目をおそれて、お座敷の三味線も太鼓も鳴らせやしない。派手な着物を着て街を歩けば、すぐに南町の同心や御用聞きが飛んできて『奢侈禁制に反する』って引っ立てていくんだ。これ じゃあ、花街の花が枯れたようだよ。」

 「柳橋もか?」

 「似たようなもんさ。うちの船宿だって、昔ならこの時間から深川の置屋へ向かうお客さんや、柳 橋の芸者衆を乗せた猪牙船で川が賑やかだったんだ。それが今じゃどうだい? 川に浮かんでいるの は積み荷を乗せた小舟か木の葉くらい。腕のある芸者や踊り子ほど、手入れを恐れてどこかへ身を隠しちまったよ。残されたのは、小染ちゃんみたいに芸を売る場所を奪われ、命を削って酒を飲むしかない女たちだけ・・・。誰も彼も、お上の顔色を窺って息を潜めて生きているんだよ。」

 ほんの数年前まで、深川や柳橋と言えば夜通し三味線の音が響き、辰巳芸者の意気とハリが溢れる不夜城であった。しかし今、老中・水野忠邦が推し進める「天保の改革」の冷酷な嵐が、その華やかさを根こそぎ奪い去っていた。

 おえんは溜め息と共に、冷めかけた酒を煽った。

 「俺のところへ来る患者も、同じような事を言っていた」

 「世直しとか、取り締りと言うがねぇ・・・。花街で生きている芸者や置屋の者たちだって、好きで贅沢をしているわけじゃないんだ。あの子たちにとっては、歌や踊り、賑やかな座敷こそが生きる糧であり、飯の種なんだよ。それをやれ贅沢、やれ堕落の素だって一括りに叩き潰されたら、生きていけないじゃないか。」

 「その挙句が、小染さんか・・・。本人は『自分が死んでも誰も困りやしない』とやけっぱちになっていてな。世の中の身勝手な不景気と取り締まりの煽りを、全部あの手の弱い女たちが一人で背負わされている。惨い話だ。」

 「お兄ちゃん・・・。」

 おえんは凌庵の手の上に、そっと自分の手を重ねた。

 「お兄ちゃんが親身になって診てくれて、小染ちゃんも救われたよ。だけどねぇ……本当にこの江戸はどうなっちまうんだろうね。華やかな灯火が消えて、みんなの笑顔まで消えちまいそうだ。」

 「俺にできるのは、倒れたやつの体を治すことだけだ。だがな、おえんちゃん・・・。」

 凌庵はおえんの手を優しく握り返し、ふっと柔らかく微笑んだ。

 「どれだけお上が締め付けようと、人間は暗闇の中でただ黙って枯れていくほど弱くはないさ。苦 しいからこそ、人は何かに縋り、別の灯火を探そうとする。それが、良いものであれ、悪いものであれな。そして、必ず消えかかった灯火を再びともす者が現れる。必ずな。」

 小染の着物の胸元から漂っていた、あの山百合のような妖しく不自然な甘い香り――『佐葦の露』の残り香が、凌庵の脳裏をかすめた。

 (あの香りが、再び江戸に明かりを灯す希望になるのか・・・それとも江戸そのものを焼き尽くす悪しき業火となるのか・・・・。)

 凌庵は静かに猪口を干した。胸中に去来する不穏な予感に、自然と顔が険しくなる。

それを見たおえんが、指で肩をつつきながらしな垂れかかってきた。

 「ちょっと、小難しい顔をしていたら折角の酒も料理も不味くなっちまうよ?今夜は酔いつぶれるまで、あたしがいくらでも相手をしてあげるんだからね。」

 「おいおい、酒が過ぎては小染さんの二の舞だぞ。」

 「ふふ、馬鹿な飲み方はしないよ。・・・でもさ、あたしは毎日悔しいんだよ。段々と柳橋の光がかすんでいきそうで・・・。だけどね、お兄ちゃんがこうしてたまに顔を見せて、あたしの愚痴を聞いてくれるだけでどれだけ救われてるか分からないよ。」

 「そうかい。そいつは良かった。」

 無邪気な笑顔を向けていたおえんは、顔を赤らめながら再びしなだれかかった。

 「ねぇねぇ。」

 「何だ?」

 「今夜はもう遅いんだから、うちに泊まっていきなよ?久しぶりに、二人でゆっくり話そうじゃないか・・・ね?」

 「こら、抱きつくな。朝帰りなどしたら、後が怖い。」

 「いいじゃないか、あんなじゃじゃ馬先生なんか放っておきなよ。」

 「簡単に言うな。」

 「まあまあ、兎に角今日は久しぶりに来てくれたんだ。とことん付き合ってもらうからね、覚悟しておいてね。」

 「お手柔らかにな・・・・。」

  苦笑しながらも、おえんの温もりと酒の酔いに身を委ねる凌庵。

 先ほどまでの重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように、いつもの賑やかなやり取りが座敷に広がっていった。この先鬼が出るか蛇が出るか解らないが、今だけはこの華やかな空気を味わう事にした。

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