8・嫌疑の残香 其の一
その死骸が見つかったのは、まだ鶏の鳴き声がうっすらと響く早朝、七つ半(午前五時半頃)のことだった。町筋の木戸門が開く前であり、江戸の住人たちがまだ深い夢心地に浸っている静まり返った時刻である。
「全く、朝早くから敵わぬ・・・。」
薄曇りの早朝、心地よい眠りを容赦なく引き裂かれた不機嫌さを隠さぬまま、高柳凌庵は不平を零した。その後ろでは、使いとして凌庵を引っ張ってきた北町奉行所与力の近藤新太郎と、配下の御用聞き・江戸屋仁吉が、申し訳なさそうに縮こまって立っている。
小石川養生所の奥深くに佇む検死室「顕幽閣」の石造りの床から、底冷えするような冷気が脚元を静かに這う。その冷たさが、凌庵の微睡みを少しずつ攫っていく。
石造りの検視寝台の上には、二つの遺体が並べられていた。一人は、齢十八、九とおぼしき若い娘。仕立ての良い桃色の振袖に身を包み、髪には豪奢なべっ甲の簪が挿されている。もとは誰もが見惚れるような美貌の持ち主であったようだが、その顔立ちは土気色に沈み、硬直した唇からは一切の感情が失われていた。もう一人は、二十代半ばほどの男。上等な縞模様の羽織を羽織った凛々しい佇まいだが、その身なりは商家の上層に身を置く者に特有の上品な質感を漂わせている。
二人の右手と左手は、固く、解き難いほど強固に結ばれていた。その手首には、美しい紅色の絹紐が固結びで巻き付けられている。
「済まねえな先生、朝早くからこんな所へ呼び出して。」
「謝っていないで説明しろ。死骸の素性は?」
「ああ・・・。呉服町の太物問屋、三島屋伊左衛門の息女で、名はおぬい。男の方は三島屋の筆頭番頭で、名は甚助。山王門前町、溜池沿いの木に二人並んで吊られていた。夜通し飲み明かした酔っ払いが偶然見つけて、役人の耳に入った次第だ。」
「三島屋・・・、あの大店の三島屋か?」
「ああ。悪い噂が絶えねえ、あの三島屋だ。強引なやり方で呉服から小間物にまで手を広げている、鼻息の荒い御大尽だよ。」
凌庵もその名は知っていた。名商人として知られる一方で、裏では冷徹な商法で恨みを買うことも多いという。その名前を聞いたうえで、凌庵は状況を確認する。
「この死骸は、並んでぶら下がっていたと言っていたな?」
「ああ、そうだ。」
頷いた仁吉の顔を見て、凌庵、そして顕幽閣にいる全員が同じ一つの推測に至った。
「心中・・・、かもしれぬな。」
「見た所はな。だが、そうでないかもしれぬ。・・・事が事だ。」
「そうだな。」
ハッキリとそう口には出せない、出せない理由があった。 江戸の世において、心中死は個人の恋 愛沙汰に留まらず、一族郎党にまで累が及ぶ大罪であった。著名な戯作者、近松門左衛門らの戯曲によって「現世で結ばれぬなら来世で」と美化され、それに影響された庶民の間で心中が流行した時期もあったが、幕府はこれを「風俗の退廃」、延いては「治世を憂いて死ぬという政治的批判」に直結するものと見なしていた。その為、心中は不義密通と同等の厳罰に処される。一人が生き残れば死刑、二人とも生き残れば晒し刑の後に人間以下の身分に落とされ、その罪と恥辱は遺族にまで連座したのである。
「名字帯刀こそ許されていないが、大奥御出入りを許された大商人だ。その財力と影響力は幕閣の重臣や大奥にまで及ぶと言われている。・・・その大店のひとり娘と、将来を嘱望された番頭が、揃って命を絶ったとなれば大騒動だぞ。」
「町中じゃあ、もうすっかり『身分違いの切ない心中話』として噂が広まっているんだよ。『親の決めた意に沿わぬ祝言を嫌ったおぬい様が、相思相愛の甚助と手を取り合ってあの世へ旅立った』ってねえ・・・。町方の旦那もこの一件が聞こえた途端大騒ぎ、処理には腫れ物に触る思いでなァ。娘の親父も頭が痛いと見えて、顔を出しにも来やがらねえ・・・。」
「悲劇の心中ねぇ・・・。」
凌庵は長身痩躯の体を丸め、ゆっくりと二体の死骸へ近づいた。
世間はいつでも、ドラマチックな悲恋の物語を好む。家付き娘と番頭、身分差に阻まれた若い男女が、世をはかなんで命を共に散らす――江戸の劇作者が好んで書き落とすような絵空事だ。役人たちにとっても、大店の醜聞を「若い二人の痴情の果ての自尽」として片付けてしまう方が、余計な摩擦を生まずに済むのだろう。
「しかし、もう直ぐ山王祭だってのに、罰当たりな事をするじゃねえか。親がきな臭えと、娘もこんなもんなのかねえ・・・。」
「まあ待て、この娘が本当に親不孝だったのかどうか、これから死体の声を聴くことにしよう。」
この緊迫した状況でも凌庵は冷静さを失わず、琥珀色の瞳の奥に鋭い光を宿していた。
「声を聴くと言うと、何か疑念があるのか?」
「それを今から調べるんだよ、新さん。死骸は決して嘘をつかん。それを聞き出すのが、俺の務めだ。」
凌庵は静かに着物の袖を捲り上げると、真剣な眼差しで二人の遺体への検分を始めた。
「よろしく頼むぞ、先生。」
「無論だ。御霊が迷うような真似はさせん。」
徳川将軍家ゆかりの神聖な祭りの最中に起きた不吉極まる変死体、それも大奥出入りの権限を持つ商家に絡む心中死の疑惑。真相解明は、今や凌庵の肩にすべてが掛かっていた。新太郎は固唾をのんで、その手元を見守っている。
「許せよ・・・。」
凌庵はまずおぬいの首元を注意深く観察した。凌庵が首にそっと手を置くと、新太郎が固唾を飲んで一歩踏み出す。
「先生も気づいたようだな。俺もそこが気になったんだ。」
「流石は新さんだ。お前さんも気づいたか、この首元の痣に。」
おぬいの首元には、縄で絞められた痕の他にも、何か別の細いもので強く圧迫されたような、不自然な別の痕跡が薄っすらと残されていた。この痕が見間違いではないと確認すべく、今度は甚助の首元を調べる。やはり甚助の首にも、縄の痕とは別に、同様の違和感のある圧迫痕が認められた。
「男の方にも同じような違和感がある。となれば・・・。」
凌庵は次に、おぬいの両手を取ってその爪先を凝視した。おぬいの爪の間が、赤黒く変色している。よく見れば、その微細な隙間には人間の皮膚の微小な片薄片や、血の混じった肉片と思わしきものが挟まれていた。自分の首を絞める他者の手を必死で引きはがそうと、土壇場で激しく抵抗した動かぬ証拠である。
「間違いない。おぬいは殺されたのだ。考えられるのは、まず女を何者かが手にかけ、その後で自ら首を括ったように見せかけた・・・。合意の殺しではないとするなら、言い寄ったのを拒絶されて逆上した男の犯行か?」
凌庵は一度そう推測したが、直ぐに首を横に振った。凌庵の目が、もう一つの遺体である番助に向けられた時、強烈な違和感が彼の背筋を走ったのだ。
「違うな・・・。」
凌庵は慣れた手つき、玄人目の鋭い視線で甚助の全身を吟味する。
――男の手には、一切の傷がなかったのだ。
通常素手で首を絞め殺される、あるいは死闘の末に命を落とす場合、被害者は死に物狂いで抵抗し、犯人の腕をひっかいてその爪の間に皮膚や肉片を残すはずだ。だが、甚助の腕は滑らかそのものであり、争った形跡すらない。
おぬいはあんなにも必死に抵抗したというのに、甚助はまったく無傷だったというのか。 二人が心中の末に果てたというなら説明がつかない。あるいは、甚助がおぬいを手にかけた主犯であり、そ の後に自ら命を絶ったという仮説はどうだ。しかし、それならば甚助自身が自害する際に激しい葛藤や傷を負わないのは不自然だ。そもそも、甚助もおぬいと同様に「別の誰か」の手にかかって殺害されたのではないか――凌庵の脳裏に、より深い謀殺の構図が浮かび上がってきた。
「更に、もう一つ・・・。」
凌庵はおぬいの着物の合わせをそっと開き、その下腹部へと慎重に手を滑らせた。長い指先で優しく触れ、わずかな抵抗感と、独特の弾力を確かめるように軽く圧をかける。
「何てこった・・・。この娘は、子を孕んでいる。二月か、三月といったところだ。」
「何だと!?」
新太郎が驚愕のあまり声を裏返した。 娘が新しい命を宿していたという決定的な事実は、絶望の果ての純愛の心中という町方の見立ての足元を、根底から木端微塵に粉砕するものだった。
「命を宿しながら、この世に生まれることすら叶わなかったか・・・。」
下腹部から手を離した瞬間、ふと凌庵の鼻腔を何かの匂いが刺激した。 この死臭と薬草の澱んだ顕幽閣の中では決して混じるはずのない、甘く芳しい香木、あるいは高級な「香り水」の如き妖しい香気である。年頃の娘だから、匂い袋でも忍ばせていたのだろうか。その時の凌庵はそう思い込み、深くは追わなかったが、その香りの微かな刺激が脳裏の片隅に引っかかった。
「甚助の手に傷がない以上、おぬいは甚助以外の者に殺された。だが、甚助もまた無傷のまま命を落としている。・・・これは、ただの痴情の縺れなどではない」
凌庵が持参した薬篭箱から、擂鉢で丁寧に練り上げた特製の練り薬を取り出し始める。以前にも使用した、死体の皮膚に隠された見えない痣や皮下出血を化学的に浮かび上がらせるための、古法医学の秘術の準備であった。
「語ってくれよ?真実を・・・。」
凌庵の目が一層鋭くなる。物を言わぬはずの死骸が、いよいよ声なき声をあげようとしていた。




