9.嫌疑の残香 其の二
「やってるなァ藪医者ぁ!」
顕幽閣の戸が乱暴に開き、どやどやと南町の伝助と権蔵が押しかけて来た。入って来るなり伝助は、ゲジゲジのような眉毛をひくひくと動かしつつ値踏みをするように室内を見回した。
「ほおほお、相変わらず死骸を玩具にしている様だなァ。」
相変わらず蘭学医である凌庵を敵視しているようだ。権蔵もまた同じ穴の狢である。
「ところで北の若旦那ぁ、何だかお高そうな若い女が死んだってじゃねえか。」
無遠慮な伝助に顔を険しくし、新太郎がギロリと睨みつける。
「貴公に語る必要は無いでしょう。今は北の月番ですぞ?」
「そうは言いますがねえ、相手はあの三島屋伊左衛門の息女。しかも世をはかなんでの心中だの何だので世間が騒ぎだしてる。こんな厄介な大案件、若旦那の細腕一本で手に負えるわけがございません。ですから手助けをねぇ。」
(よく言うぜこの野郎)
正しい事を言ったと言わんばかりにしたり顔で言う伝助は、鬱陶しい事この上ない。新太郎は与力の威厳を保ちつつ、助成の申し出をきっぱりと断る。
「余計な気遣いは無用。手前も半人前には違いありません。しかし、背金を持って現場を仕切っております。」
「そのお気持ちは実に結構、ですがこちらにも事情があるんでねえ。」
「事情?」
「知っての通り三島屋は大奥出入りを許された豪商、幕府閣僚の他にも我が南町の高官にも昵懇の者がいますんでね。知らん顔も出来ませんよ。」
大物の商人と南町は繋がっているという事実をひけらかし、新太郎に詰め寄る伝助。新太郎とて権力に物怖じするタイプではないが、組織に生きる勤め人の性として、権力者の名を出されてはこれ以上強く突っぱねることもできない。
「では失礼しますぜ。」
へらへらと笑いながら顕幽閣の中へ入っていく伝助は、おぬいの死骸を淫猥な目で舐め回すように見つめた。
「おーおー、キチガイ医者の玩具にされて可哀そうになァ。あらら、綺麗なおべべを着ちまって。でも死んだらおしまいよなあ、可哀そうに・・・。」
「何やってんだぁ二八医者、死骸を粕漬にでもする気か?」
ずかずかと遺体に土足で近づき、物見遊山気分で証拠を荒らそうと手を伸ばした。その瞬間――凌庵は冷徹なまでの静けさを含んだ琥珀色の瞳で、すっとタヌ伝を見据え、その手を鋭く叩き落とした。
「触るな。」
「あぁん!?」
「汚い手で触るなと言っているんだ。」
「何だとテメエ!オランダかぶれの藪医者の分際で!!」
「俺の事は何と言っても構わぬが、御霊を軽んじるような真似は断じて許さん。よく見ろ、この 娘はな、お前たちの言うような『痴情の果ての美しい心中』などではない。無残に裏切られ、冷酷に毒を流し込まれ、腹の子ごと命を奪われた『被害者』だ。今まさにおぬいは、声なき声をあげようとしているんだ。それをつまらぬ縄張り意識で潰そうと言うなら、容赦はせぬぞ?」
普段の柔和な目つきは消え失せ、まるで鷹か獅子のような鋭さに変貌していた。その凌庵の背後に立ち込める、ただの医者とは思えない凄まじい殺気と、科学的裏付けに満ちた絶対的な自信の前に、タヌ伝は思わず一歩後ろへ退き下がり、冷や汗をダラダラと流して言葉を失う。権蔵もガタガタと震 え始め、二人はすごすごと気圧されていった。
(解ってねえなァこの二人、兄貴が本気で怒れば鬼よりも怖いって事がな。)
仁吉も新太郎は、ざまあみろとばかりに伝助らを見やる。すると、室内のただならぬ気配に誘われるように、篁洲と平蔵が顕幽閣へと足を踏み入れた。
まず平蔵が、格下の同業である伝助を嗜めるように、低く重い声を掛ける。
「村上よ、未熟なうちの若手の為に御助成、忝い。しかし、ここは若者の修行のために十手を納め、手を引いてくれぬか?」
「そ、そうですか・・・。」
続いて、肝煎医師の篁洲が権蔵に目を向ける。その顔は至極穏やかだが、目はまったく笑っていなかった。
「権蔵親分、儂とてこんな血生臭い御役目は反対だ。我が子も同然の凌庵殿にこんな事をさせる役人に文句が無いと言えば嘘になる。だがな、凌庵殿は懸命に死骸の声を聞こうと骨を折っている。誰もが気安くできる事ではないが、この広い江戸の中でこんな事が出来るのは凌庵殿しかいない。邪魔をしないでいただこう。」
親分とへりくだってはいるが、相手は幕府直轄の養生所を束ねる肝煎医師である。この場の責任者である篁洲の落ち着き払った物言いに、権蔵は蛇に睨まれた蛙のように固まり、それ以上一歩も動けなくなった。
邪魔者たちが静かになったのを確認すると、顕幽閣には再び緊密な静寂が戻った。
「さて、そろそろか。」
凌庵が懐から取り出した舶来の懐中時計が正確な時を刻み終えると、彼は手早く酒粕と薬を拭い去った。体中に塗り付けた練り状の薬は、皮膚に隠された真実を鮮やかに浮かび上がらせていた。
「新さん、仁吉、見ろ。首に残っている痕は一本ではない。・・・縄で吊るされたときについた太く浅い絞め跡の他に、その下、気管の真上を完全に押し潰すようにして通っている『細く深い、二重の圧迫痕』がくっきりと残っている。」
「二重の圧迫痕・・・!」
「それから、この甚助の背中を見てみろ・・・。」
甚助の背中の肩甲骨周りにかけて、広範囲に赤い圧迫痕が付いていた。そして両手首にも、荒縄で強く縛り上げられたような痛々しい紐の跡が残っている。
「背中を足か何かで強烈に押さえつけて後ろへ締め上げ、もう一人の共犯者が暴れる両手を押さえつけて動きを封じたのだろう。おぬいを殺した真の下手人が、仲間を募ってこの番頭を殺し、そのあとで死体を木に吊るして相対死に見せかけた。つまり、完璧な偽装殺人だ。」
「本当だ・・・無かった痣が、こんなにはっきりと浮かび上がっている。」
「こりゃあ、お上の見立ては大間違いだったって証拠だな。」
仁吉と新太郎は、甚助の身体に刻まれた「死者の告発」を見て、これが心中などではないことを確信した。
しかし伝助は、バツの悪そうな顔をしながらも、なおも負け惜しみの冷笑を浮かべて言い放った。
「痣だなんだと、訳の分ねえ理屈を並べやがって。木にぶら下がってたってんなら、どこかにぶつかって出来たのと何が違うってんですか?」
「流っ石旦那、御明察でさあ!」
権蔵が太鼓持ちのように同調する。
(此奴ら、本当に役人か?)
凌庵は内心で呆れ果てていた。彼らとて場数を踏んだ南町のベテランだ。この手法が、幕府も認め る医学書に基づいた正規の検屍技術であることくらい、知らぬはずがない。自分より上の者に指摘を受け、引っ込みがつかなくなっているだけなのだ。
見かねた新太郎が、鋭い声で割って入った。
「村上さん、凌庵先生はこの道の玄人だ。気に入る気に入らないは勝手だが、少しは意見に耳を傾けたらどうだ!」
「別に疑っちゃいませんよ、私なりに意見をですねェ。行っちゃあ悪いが、凌庵先生はまだまだお若え。年嵩の意見も必要と思いましてねえ……。しかし近藤様も御気の毒に。オランダ崩れの青二才の、意味のねえ悪戯に付き合わされちまって。」
「無意味ではないと言っている!」
一回り以上も年上の伝助に対し、新太郎は一歩も引かずに語気を強めた。
伝助の嫌味は凌庵だけに向けられたものではない。与力の嫡男というエリートである新太郎と、自 らの境遇に対する嫉妬と嫌がらせが混ざり合っていた。
今にも取っ組み合いの喧嘩が始まりそうな空気を断ち切るように、篁洲が伝助の肩をそっと叩いた。
「村上様も御人が悪い、まさか本当に心中だと決めつけているわけでは御座いますまい?」
「それは・・・。」
伝助の顔がわずかに引きつる。
「儂も医者として、この死骸に不審があると言う凌庵殿の考えが間違っているとは思えませぬ。この筋でとりあえず調べなさい。文句は後で幾らでも聞き申す。」
「ふう・・・。御典医として場数を踏まれ、御上より直々に肝煎医師に任命なされた篁洲先生の御言葉なれば、間違いはございませんなァ。」
相手の圧倒的な肩書きを見るや、手のひらを返して態度を変える伝助の姿の、なんと無様なことか。だがその助け舟のおかげで、ようやく顕幽閣に静かな空気が戻った。
「兎に角、俺が医者として出来るのはここまでだ。後はお前さんたちの仕事だぜ?」
「分かった。後は任せてくれ。」
「それからな、新さん。仁吉もよく聞け。」
凌庵は、あからさまに敵視してやる気のない南町の連中を完全に無視し、北町の二人にだけ顔を近 づけて声を潜めた。
「女が身重であったという事実。これが、殺された最大の要因の可能性がある。……それと、もう一つ。」
凌庵の鋭敏な嗅覚が、おぬいの遺体の襟元から漂う、わずかな違和感を捉えていた。
「この死骸の胸元から、奇妙な花の香りがする。伽羅や香木じゃない。脳を狂わせるような、人工 的で妖しい匂いだ。これの正体も、捜査の視野に入れておいた方がいい。」
「何と・・・、気の毒な事だな。分かった、視野に入れよう。とにかくご苦労だった。」
新太郎が痛ましそうに遺体を見つめ、深く頷いた。
「では、診療所に患者がそろそろ集まる刻限だ。私は失礼させてもらうぜ。」
凌庵が十徳の袖を戻しながら立ち上がると、篁洲がその背中に苦笑いを向けた。
「おう、ある時払いの催促なしも結構だがな、凌庵殿。うちへの店賃のことも、忘れるでないぞ?」
「分かっているよ、とっつあん。」
背後からは、伝助の苦し紛れの捨て台詞が投げつけられる。
「やい青二才、調子に乗るんじゃねえぞ!テメエみてえな曰く付きは、いつでも牢屋に叩き込めるんだからな!」
凌庵はそんな脅しを馬耳東風と決め込み、気怠げに首を回しながら、顕幽閣、そして小石川養生所を後にしたのだった。




