10・嫌疑の残香 其の三
「凌庵、検使の役目、何時もご苦労であるな。」
「いいえ、とんでもございません。少しでもお役に立てればと思い、神沢様に付いてきた次第。」
「心遣い痛み入る・・・。」
小石川養生所での血生臭い検使を終えた高柳凌庵は、一度は天竜堂へ帰ろうとしていた。しかし、事件の成り行きに胸騒ぎを覚え、居ても立っても居られずに奉行所へ戻る平蔵のあとに従い、そのまま呉服橋のたもとまで歩を進めていたのだった。
呉服橋を渡ると、威風堂々とした門が構えている。犯罪者を懲らしめる江戸治安の要衝らしい禍々しさと、庶民の訴えを聞き届けるための親しみやすさが同居する、北町奉行所の門である。その門を潜り、奥へと進んだ先に北町奉行の住まう組屋敷が存在する。松平伊豆守邸に隣接したその場所こそが、北町奉行・遠山金四郎景元の住まいだ。
重厚な杉戸が開かれ、静寂の立ち込める奉行の部屋へ通されると、そこにはすでに内与力である蒲生武兵衛と、新太郎の父親であり年番方筆頭与力を務める近藤清左衛門が連座していた。
座に就くや否や、最初に清左衛門が厳しい面持ちで口を開いた。
「して、三島屋おぬいの一件は如何であった? 御用部屋での前評判では、心中死に違いないとの見立てであったが?」
「全く、由々しき事態でございます・・・。世間ではすっかり『身分違いの悲劇の心中』として、辻風のように面白おかしく噂が広まっております。我が奉行所としても、下手に騒ぎ立てれば大奥や幕閣にまで波及しかねないと、頭を悩ませていたところでしてな。」
内与力の蒲生武兵衛が苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。 金四郎は深く腕を組み、鋭くもどこかすべてを包み込むような深みのある眼差しで、凌庵を静かに見据えた。
「凌庵、お主の目で見た真相をどう判断する?」
「はっ。結論から申し上げますと・・・世間の噂はすべて偽り、あるいは何者かによって周到に仕組まれた謀殺の隠れ蓑にございます。」
凌庵の脇で控えていた新太郎が、絞り出すような声で言った。清左衛門は息を呑み、息子の顔と凌庵の顔を交互に鋭く見比べる。
「謀殺だと?」
「はい。おぬいの首筋には縄の痕のほかに、気管を直接押し潰した『細く深い二重の圧迫痕』がくっきりと残っておりました。さらに、背中には誰かに強烈に押さえつけられた広範囲の痣もございます。甚助の身体にも同様の絞め跡があり、両手には一切の抵抗傷がない。二人は自ら命を絶ったのではございませぬ。背後から冷酷に絞殺された後、山王門前町の木に吊るされて、あたかも相対死であるかのように見せかけられたのです。巧妙に仕組まれてはおりますが、明らかに人の手が加わった痕跡にございます。」
凌庵が静かに、しかし一語一語を確かめるように告げると、広間の空気が一気に凍りついた。武兵衛が大きく息を呑み、清左衛門は険しい顔で膝の上の拳を固く握りしめる。
「何と・・・陰謀の為に、年端も行かぬ娘を殺めたというのか。」
「何のために、そのようにな手間のかかる殺しをしでかしたのか・・・。」
「現時点では、動機までは断定できませぬ。ですが・・・おぬいの遺体を検分した際、もう一つ、絶対に看過できない事実が判明いたしました。」
凌庵はふっと言葉を切り、座敷にいる全員の顔を見回した。
「なんだ、遠慮なく申してみろ。」
「おぬいは身籠っておりました。二月か三月程の、新しい命が宿っていたのです。」
その言葉が落ちた瞬間、金四郎をはじめとする奉行所の幹部たちは絶句した。座敷に深い沈黙が降り立つ。
「何だと・・・、仮にも身重の女を手にかけたというのか。鬼畜の所業・・・。」
「商家の一人娘が番頭との間に子を宿し、それが邪魔になったのか。あるいは、三島屋の裏の利権や家督相続を巡る暗闘に巻き込まれたのか・・・。いずれにせよ、その秘密を永遠に隠すため、腹の子ごと冷酷に命を奪われたと見るのが自然にございます。」
金四郎は腕を組み、険しい表情のまま天井の一点を見つめた。
「心中という美しき衣を纏わせることで世間の目を欺き、真相を闇に葬ろうとしたわけか。・・・やり方が実に陰湿で、周到だな。」
「近頃、こうした狡猾で冷酷な罪人が増えたように思えますな。」
武兵衛が吐き捨てるように呟く。すると凌庵は、思い出したように静かに言葉を重ねた。
「ですが金四郎様、もう一つ、どうしても気がかりなことがございます。」
「なに、気がかりだと?」
「はい。顕幽閣でおぬいの遺体を検分していた折、衣服の襟元から強い香りが漂っておりました。」
「顕幽閣の中で、薬以外の香りがしたと?」
「はい。最初は単なる匂い袋かとも思いました。しかし、香木とも伽羅とも違う、非常に独特で強烈な香りでございます。例えて言うならば、山百合の花のような甘く強い香気にございます。」
凌庵のその言葉を聞いた瞬間、武兵衛が「はっ」と小さく息を呑んだ。
「待て・・・その香り、もしかすると近頃巷で噂になっている『あれ』ではないか?」
「蒲生、何か知っておるのか?」
「はっ。ここ最近、深川や柳橋の置屋、あるいは一部の裕福な旦那衆の間で密かに流行している新 しい化粧水がございまして・・・。名前を、『佐葦の露』と申します。」
その名が発せられた瞬間、凌庵の脳裏に、先日深川の置屋『笹屋』でやつれ果てていた芸者・小染の姿と、彼女の身体から立ち上っていたあの不気味で妖しい残り香が鮮明に蘇った。
すると黙って話を聞いていた平蔵がようやく口を開く。
「佐葦の露・・・、手前も聞いたことがある。何やら奇妙な噂も聞こえて参ります。」
「どのような噂だ?」
「手前洒落や嗜好品に関しては不学にして詳しき事までは存じませぬが、近頃、江戸の裏通りや花 街の若い者たちの間で、まことしやかに囁かれている奇妙な噂がございます。『佐葦の露』という南蛮渡りの高価な香り水があるのですが、それを肌につけると、男も女も理性を失い、まるで憑かれたように相手の言いなりになるとか・・・。」
「理性を失い、言いなりになるだと?」
「相手を虜にするとな・・・。まるで妖術か、毒薬の類ではないか。」
清左衛門が眉をひそめる。凌庵は深々と頷き、自らの見解を述べた。
「その噂、私の掛かりつけ先でも耳にいたしました。お上の『奢侈禁制』の取り締まりを逃れるため、役人の目を盗んで密かに持ち込まれたものか、あるいは裏の商いを生業とする者が独自に調合した『新種の毒薬』、あるいは『麻薬の類』ではないかと、市井の間ではもっぱらの噂です。医者として聞き捨てならず、記憶にとどめておりました。」
金四郎はゆっくりと立ち上がり、広間の窓から夕暮れに染まりつつある江戸の町並みを見下ろした。西の空が朱から濃紫へと移ろい、江戸の屋根に静かな闇が降りてくる。この事件の背後には、単なる個人の情愛や一店の利権を超えた、江戸市井を根底から揺るがす「得体の知れない巨大な悪意」が渦巻いていることを、その場にいる全員が予感していた。
腕を組み、しばらく庭先の一点を見つめた後で、金四郎は重々しく口を開いた。
「相分かった。おぬいの身重の件、そして二重の絞め跡による謀殺の確証。これより北町奉行所総力を挙げ、下手人の割り出しにかかる。人を人とも思わぬ悪行に手を染める者、人心を惑わす悪しき物の存在は決して許さぬ。近藤、蒲生、すぐさまこの一件を奉行所内全てに周知させよ。相手には御用商人が絡んでおる。加えて、北町のやりように関して大奥や南町から喧しく言ってくる者もあらわれるだろうが・・・、構わぬ!存分にやれ!」
「承知!!」
腹の底から響く奉行の指令に、清左衛門と武兵衛がそろって力強く平伏する。
流石は若い頃に放蕩無頼を経験し、奉行所内でも“横紙破り”として知られた遠山金四郎だ。不義悪行の取り締まりには一切の躊躇も容赦もない。だからこそ、命を張って手を貸す甲斐があるというものだ。
「・・・さて。あとは町方の御役目、もう私の出る幕はございませんな。」
凌庵は心の中で呟き、静かに立ち上がろうとした。すると、それを制するように清左衛門が声をかける。
「帰るのか、凌庵殿?できれば今しばらく留まり、医師としての見知から指図を願いたいのだが?」
「いいえ、あとは御役人方にお任せいたします。私の役目は死骸を検分し、そこから得た『事実』を皆様にお伝えすることのみ。これ以上の差し出口は、一介の町医者としては越権行為というもの・・・。」
口ではそう淡々と言ってみせる凌庵であったが、本音を言えば、喉から手が出るほど真相を追い求 めたい気持ちはあった。だが、深入りし過ぎれば自分自身や、天竜堂、そして身近な人々にまで災いが及ぶ。 忘れもしない、嘗ての蘭学弾圧の荒波――恩師を初め、多くの朋友が倒れ、命からがら江 戸の片隅へ流れ着いたあの過酷な記憶が、凌庵の踏み込む足を踏み止まらせていた。
そして、このお白洲の奥部屋で、凌庵のその複雑な胸中を誰よりも深く理解しているのは、他ならぬ金四郎であった。
「うむ。凌庵、御用繁多の中ご苦労であったな。また何か不可解なことが起きた折には顔を出してもらうかもしれぬが、その時はよろしく頼むぞ。」
「はい、いつでも。」
凌庵が深く頭を下げると、清左衛門がふっと表情を緩め、からかうような笑みを向けた。
「凌庵殿、今朝は早くから新太郎に無理やり駆り出されたそうだな?苦労の礼として、天竜堂の土 地代は考慮させてもらうぞ?」
「それとこれとは別でございます。家賃は普段通り、きっちりと払わせていただきますよ」
「相変わらず固いのう・・・、倅といい勝負だ。」
清左衛門の苦笑いを背に受けながら、凌庵は静かに渡り廊下を渡り、暮れなずむ北町奉行所を後にしたのだった。




