11.往診 前編
「痛たたたっ! もう少し優しくできんのかっ!!」
「動かれますと、かえって痛みますぞ。」
「貴様っ、この儂を死骸にするつもりか!?」
薄暗い武家屋敷の一室で、高柳凌庵は枕元に膝をつき、老人の額を診ていた。 雑に巻かれた包帯を解くと、そこには赤黒い血の凝固と、ジクジクと異臭を放つ黄色の膿がこびりついていた。わずかに触れただけで、老人は子供のようにおおげさにわめき立てる。これで元は徳川の禄を食み、公儀の 政を動かしていた旗本だと言うのだから呆れる。
水谷無用斎—。嘗ては筑後守の官位を賜り、公事方勘定奉行の要職を歴任した筋金入りの切れ者であった。現在は倅の右京之介に家督を譲り、世をすねて隠居の身となっている。
「全く、どうしてここまで放置されていたのです。皮膚は壊死し、内側に膿が溜まっている。このまま放置すれば頭骨の奥まで毒が回り、命に関わるところでしたぞ。」
「たかが町医者の分際で、この儂に説教か!」
「説教ではなく、医者としての事実を申し上げているのです。」
凌庵の言う通り、傷は素人の手当てによって悪化しきっていた。数日前、隠宅の庭を歩いていて足がもつれ、庭石に額をしこたま打ちつけたのが原因らしい。 本来なら、すぐにでも適切な外科手当てを受ければ数日で塞がる傷だった。しかし、この無用斎の猛烈な偏屈さと気性の荒さゆえ、屋敷に出入りする医者たちは皆、診察を拒んで逃げ出していたのである。
「これより、壊死した部分を切開します。」
「勝手にいたせ!この際、どうとでもしろ!」
凌庵は痛みのあまり舌を噛み切らぬよう、脇にあった木製の猿轡を差し出したが、無用斎はふんと首を横に振った。死に損ないと言えど、三河以来の直参旗本のプライドがそれを拒絶したらしい。
凌庵の細い指が、研ぎ澄ばされた外科用の銀メスを握る。 迷いのない手際で刃先を走らせ、腐敗した傷口を切開した瞬間。
「ぐぁっ・・・!」
無用斎の喉から、裂けたような鈍い悲鳴が漏れた。老人の顔面が一瞬で土気色に染まる。背後で「糞爺め」と密かに毒づいていた彩乃も、思わず息を呑んでその手元を見つめた。 凌庵は驚異的な早業で溜まった膿を押し出し、腐った組織を綺麗にそぎ落とす。そして、オランダ製の滅菌された絹糸で傷口を素早く縫合し、天竜堂特製の金創膏を貼って新しい包帯を巻き上げた。
処置が終わった瞬間、無用斎は糸が切れた人形のようにガクッと床に脱力し、再び荒い息を吐きながら幕閣への恨み言をブツブツと零し始めた。
「・・・儂は、幕府のために粉骨砕身、忠義を尽くしてきたというのに・・・・。老いたからと無役へ追いやり、窓際に追いやるとは。どいつもこいつも、恩知らずの悪党ばかりだ・・・・。中でも許しがたいのは、あの跡部の小僧じゃ。御老中の弟であることを鼻にかけ、傲岸不遜。わしのような古参の苦労など一顧だにせず、ただの古道具扱い、世も末よ。」
先代将軍の頃から仕えてきた旧臣たちが軒並み役職を退く中、無用斎もまた例外ではなかった。それを境に、もともと頑固一徹で知られた男の偏屈さに拍車がかかり、四六時中周囲に当たり散らすようになっていたのだ。治療が遅れたのも、すべてはこの自暴自棄な性格のせいである。
(こんな暮らしを続けていれば、傷がなくとも寿命が縮まるというものだな……)
「御典医共からも相手にされず、来たかと思えば巷でおろく医者と騒がれる医者。儂のような役立たずは朽ち果てるのが天命か・・・。上様も幕臣共も、それが望みなのだろうて。」
投げやりにつぶやく老人に、凌庵は馬耳東風を決め込み、黙々と器具をアルコールで拭き清めていく。一通りの片付けを終えると、凌庵は冷然とその愚痴を遮った。
「無用斎様。」
「何だ?」
「今後は、子供のように意地を張るのはお止めになることですな。」
「子供だと!?」
無用斎が激昂して跳ね起きようとしたが、凌庵の琥珀色の瞳が放つ圧倒的な静けさに気圧され、動きを止めた。
「不貞腐れて酒量を増やし、その挙句に転倒する。このまま周囲に牙を剥き、無用な片意地を張り続ければ、本当に命を縮めますぞ。」
「偉そうな口を・・・!貴様のような若造に、儂の何がわかるというのだ!」
怒鳴り散らす老人に対し、凌庵は一歩も引かず重く静かなトーンで告げた。
「わかりますよ、無用斎様。――此度の怪我をされる前からも、急に意識が遠のいたり、重要な言葉を思い出すのに異常に時間がかかったりすることが増えていたのではありませんか? 彩乃、それに右手が勝手に痙攣すると感じたことは?」
「う、くっ・・・。」
図星を突かれ、無用斎は言葉を失った。公事方の御用部屋で突如として意識が遠のきかけたこと、大事な書類の文言が頭からすっぽり抜け落ちたこと、そして何より、稀に右手が奇妙な震えを起こしていたこと。それらはすべて、単なる「老いによる衰え」などではない。長年の激務の果てに、脳の細い血管が悲鳴を上げ、いつ脳溢血で倒れてもおかしくない危険な兆候だったのだ。 自分が認めたくなかった「肉体の破綻」を、この若き町医者は一目で見抜いていた。
「無用斎様。御上の御心をおもんぱかりなさい。」
「・・・御上の、好意?」
「老いた身を無理させぬよう退くを良しとされた沙汰は、冷遇ではなく、これまで働いた身への労 りと知りなされ。このまま無理を重ねて公務の場で倒れでもすれば、それこそ御家名に泥を塗り、取り返しのつかない危機を招きかねませぬぞ。」
凌庵の言葉に、無用斎の瞳が揺らぐ。
「御嫡男の右京之介様も、立派に家督を継がれました。そんな折に、隠居の奇行や悪評が世間に囁かれては、嫡男殿の出世の足かせになりかねません。今は静かに身を引くことこそが、真の忠義であり、親の務めというものでしょう。」
嘗て「解らずの無用斎」と恐れられ、誰の言葉にも耳を貸さなかった頑迷な男が、ぼうぜんと天井を見つめ、やがて深く長い溜息が漏れた。
「・・・御家のため、か。精々、心掛けるようにしよう」
その驚くべき変わりように、外で控えていた用人の太兵衛も、傍らの彩乃も、信じられないものを見る目で目を丸くした。
「安静第一です。お出しする薬を必ずお飲みなさい。ご自分は決して『無用』の存在などではないことを、お忘れなきよう。・・・いっそ、もう少し景気の良い号でも名乗られては如何ですか。」
「・・・考えておこう。」
凌庵は、炎症を抑えて膿を排出する「排膿散及湯」と、組織の修復を早める「紫雲膏」を調合し、彩乃に持たせた。
診察を終えて廊下へ出ると、用人の太兵衛が深々と頭を下げて待ち構えていた。
「先生、本日は誠にありがとうございました。僅かですが、これが水谷家からの薬礼でございます。」
差し出された盆の上には、和紙で固く包まれた二十五両の小判の束が載っていた。町医者の往診に対する謝礼としては、破格を通り越して目玉が飛び出るような大金である。
「ご用人殿、これはいくら何でも多すぎます。過ぎた薬礼は・・・。」
「いや、多すぎるということはございませぬ! 水谷家は三千五百石の直参旗本。大殿の命を救い、御家の危機をも救ってくださった名医に対し、みみっちい薬礼で済ませては家名に瑕が付きます。どうか人助けと思って・・・!」
「しかし、それでもこれは・・・。」
押し問答が始まりかけたその瞬間――さっと、盆の上の包みが一瞬で消えた。
「お任せくださいご用人様ぁ!確かに武士の家名は何より大切ですものねえ!」
さっきまで無用斎を呪い殺すような目で見ていた彩乃が、満面の笑みで二十五両の包みを両手でしっかりと抱きしめ、光の速さで懐へと滑り込ませていた。その二つの黒い瞳は、完全に山吹色の小判の輝きに染まっている。
「無用斎様ぁ!ご隠居なされても武家の体面を保つのはさぞや大変でございましょう! 私どもが責任を持って、この『重み』をしっかりとお預かりいたしますぅ!」
そのあまりの強欲さと凄まじい勢いに、部屋の奥から様子を窺っていた無用斎すら気圧され、そっと布団に潜り込むしかなかった。
「彩乃殿・・・。だんだん養生所の篁洲とっつあんに似てきたな。」
テヘッと可愛らしく舌を出すと、彩乃は言葉を続ける。
「何を言っているんですか!先生が普段十六文しか受け取らないから、天竜堂の薬棚はいつもスカスカなんですよ?この大金があれば、長崎から新しいギヤマンの医療器具も、高価な西洋の麻酔薬だって仕入れられます。私は天竜堂の『良心』なんです!」
「高い良心だ・・・。まあ、助かるのは事実だが。」
呆れ顔の凌庵を尻目に、彩乃はホクホク顔で懐の重みを確かめている。 これで往診の任務は完了し、帰路につくだけのはずだった。しかし、用人の太兵衛が申し訳なさそうに小走りで追いついてきた。
「待たれよ先生、もう一箇所・・・実は、もう一人診ていただきたい方がおるのですが。」
「ほう、まだ患者が?」
「はい。少々内輪の恥ずかしい話なのですが・・・旦那様が囲っている妾がおりましてな。近頃、どうも様子がおかしくなったのです。」
太兵衛が言葉を濁すと、奥から無用斎がゆっくりと歩み出てきた。
「うむ、おりよという芸者上がりでな、今は長唄や常磐津の師匠をしている者だ。わしも先妻を亡く し、老い路の最後に訪れた春というやつよ。気位が高くて我が儘な女だが、わしは気に入っておる。」
恥ずかしげもなく若い妾の惚気話を語る無用斎に、彩乃は思わず「年甲斐もなく・・・」と顔をしかめたが、凌庵はそれを静かに手で制した。
「おりよさんは、どこを悪くされているのですか?」
「ああ・・・。それがな、ある『香り水』を買い与えてから、どうもおかしくなったのだ。」
「香り水、ですか?」
「うむ。近頃、江戸の悪所で評判になっている『佐葦の露』という南蛮渡りの高価な品だ。なんでも、それを帯びると男を惹きつける妖しい魅力が増すとかで、おりよが欲しがったので買い与えたのだ。元々派手好きな女だったが、その香り水をつけるようになってから、一層男たちの出入りが激しくなった。」
『佐葦の露』――その名前が出た瞬間、凌庵の足がピタリと止まった。 先日、深川の置屋で出会った芸者・小染が纏っていた、あの甘く妖しい残り香。そして、惨殺された三島屋の娘・おぬいの遺体から漂っていた、忌むべき臭気。
だが、無用斎の次の言葉を聞いた瞬間、凌庵の背筋に冷たいものが走った。
「それだけならまだいい。だがな・・・最近のおりよは、どうも正気を失っているのだ。誰もいない空間に向かって怯えたり、虫が見えると言い出した・。些細なことで狂乱したかと思えば、急に抜け殻のように塞ぎ込み、薬をくれと泣き叫んだ事もあった。」
無用斎のその言葉を聞いた瞬間、凌庵の脳裏であらゆるピースが恐ろしい音を立てて噛み合った。
佐葦の露――、それは単なる贅沢な化粧水などではない。人間の精神を麻痺させ、狂気へと追い込み、最後には破滅させる「最悪の南蛮毒薬」だ。それが、下層の花街だけでなく、ついに幕府の旗本屋敷の奥深くにまで浸透している。
「承知いたしました。すぐに、おりよさんの元へご案内願えますかな。」
「うむ、頼むぞ。」
太兵衛に促され、無用斎の屋敷の奥へ向かう凌庵の足取りは、先ほどまでの穏やかな往診とは打って変わり、鉛のように重くそして鋭い警戒心に満ちていた。




