12.往診 後編
「さあ、こちらです。」
向島、隅田川沿いにその妾宅があった。
川風が湿り気を帯びてねっとりと肌にまとわりつく筋に入ると、そこには粋な黒塀に見越しの松という、いかにも江戸の男が囲う女の家らしい風情の妾宅が佇んでいた。格子戸の横には「常磐津指南」の木札が小さく掛けられている。どうやらここが、無用斎の惚れ込む若い妾・おりよの住まう家であるようだった。
川面を渡る湿った風が妙に生臭く感じられる。しかし、「常磐津指南」の看板を掲げている割には、中から洒落た三味線の音色や唄声は一切聞こえてこない。
代わりに、鼻腔をぐっと突き刺す異様な匂いがあった。
(・・・この匂いは)
山百合のような、遠くからでも漂う強い花の香り。だが、それは自然の花が放つ清々しい芳香ではない。甘ったるい腐敗臭と、焦げ付いた化学薬品の悪臭が混ざり合ったような、脳の髄を直接かき乱すような不気味な臭気だった。 巷で評判を呼んでいる香り水の名を、『佐葦の露』という。佐葦とは山百合の別称であり、一度人間の肌や衣服に付着すれば、水洗いしようとも容易には落ちないことで有名だ。
「間違いありません。あれは『佐葦の露』だ。」
「なんだか・・・息が詰まるような、胸が悪くなる香りですね・・・。」
「並の代物ではない。その香り水、いつから使っていた?」
「さあ・・・、旦那様が見初められた時にはすでに愛用されていましたからな。いつからなのかは、かねてより存じませぬ。」
「左様か・・・。」
太兵衛の言葉を聞き、凌庵はこの往診が一筋縄ではいかない禍々しい闇を孕んでいることを瞬時に察知した。そして、ふと傍らに立つ彩乃へと視線を向ける。
「彩乃殿、お前さんは一度天竜堂へ帰ったほうがよいかもしれん。この患者、ただの病人ではない気配が漂っている。」
純粋な気遣いから家に帰そうとしたが、彩乃はかえって眉を吊り上げ、凛とした態度でその言葉を突っぱねた。
「いいえ、そのお気遣いは無用です!一刻も早く一人前の医者にならねば、お父上に顔向けができませんから。最後までお供しますっ!」
天竜堂の門をくぐった頃から変わらない、その勝気さと頑固さ。仕事熱心と言えば聞こえはよいが、時に命知らずの頑固者でもある。それが彼女の玉に瑕であり、同時に頼もしい部分でもあった。
「わかった。行くぞ、気を引き締めろよ?」
「はいっ!」
凌庵は低く短く応じると、先導する用人の太兵衛に続いて格子の引き戸をくぐった。
玄関を上がり、畳敷きの廊下を進むにつれて、香水の匂いは鼻を突くどころか、皮膚にねっとりと絡みつくような濃さに変わっていく。 常磐津の師匠宅らしく、廊下には見事な掛け軸や、蒔絵が施された三味線の胴が飾られているのだが、家全体が奇妙なほど静まり返っていた。人の気配がしないわけではない。むしろ、屋敷の奥底から、得体の知れない「蠢く気配」がひたひたと伝わってくる。
庭先には打ち水が施されているものの、手入れの行き届かぬ荒んだ空気が漂う中、用人の太兵衛が案内を乞うべく声を上げると、奥から死人のような顔をした若い下女が、半狂乱の様子で飛び出してきた。
「太兵衛様っ!お囲い様がまた!」
「落ち着きなさい、おはな。大殿様のご指示で、名医である凌庵先生をお連れした。お囲い様の様子は如何だ?」
「朝から奥の部屋に閉じこもられたきり、妙な叫び声をあげたり、壁を引っかいたりなさって、恐ろしくてとても近づけませぬ!」
おはなの顔は恐怖で青ざめ、手足は小刻みに震え、着物の合わせもはだけていた。凌庵は無言でうなずくと、長身を丸めて廊下の奥へと足を進めた。背後からついてくる彩乃の表情にも、かつてない冷たい緊張の色が走っている。
奥の八畳間に近づくにつれ、強まる香りはもはや花の香りを通り越していた。 ムッとするような甘ったるい芳香の底で、何かが腐りゆく発酵臭と、汗と排泄物の入り混じった異臭が、部屋の隙間という隙間から溢れ出している。
「誰だ・・・、そこにいるのは・・・?」
障子の隙間から覗き込んだおりよの姿は、あまりにも惨たらしく、そして生々しい悪夢のようだった。
着物ははだけ、艶やかな黒髪は抜け落ちたのかボロボロに絡まり合っている。色白だったはずの肌は土気色に濁り、血の気の一切ない頬がこけて、落ち窪んだ両目の周囲には、まるで墨を塗りたくったような黒々とした隈が不気味に浮かび上がっていた。 足元には、棹の折れ、糸の切れた三味線が無造作に転がっている。やせ細り、生気のないその顔は、無用斎が惚れ込んだかつての美貌の面影など微塵もなく、地獄の絵巻物に描かれる「餓鬼」そのものであった。
「おりよ様・・・、お医者様が参りました。」
「・・・頼んでいない・・・・。」
「大旦那様の、ご厚意でございます」
話しかける太兵衛を無視し、おりよは目の前を飛び交う見えない何かを追い払うかのように、虚ろな目を血走りながらキョロキョロと彷徨わせている。
「蘭医の、高柳凌庵と申す。」
体を右に左にと痙攣するように揺らし、その足元には転がった空の徳利がいくつも転がっている。現実から逃れるため、酒に溺れ続けていたことは明白だった。
凌庵は部屋に充満した、頭が割れそうなほどの異臭に顔をしかめると、障子を大きく開け放って中の淀んだ空気を入れ替えた。
「おりよ様、酒が過ぎますな。」
「放っておいて・・・酒がなければ、あの『黒い虫』が消えないんだよっ!」
そう言い終わると、おりよは瞳孔の開ききった目をカッと見張り、突如として耳に突き刺さるような金切り声を上げた。
「いやぁぁぁ!来るな、寄るなっ! まただ・・・またあたしの皮膚の下を、無数の黒い虫が這いずり回っているぅ!!」
狂乱した叫び声をあげながら、おりよは自身の腕や首筋を、血が滲むことも構わずに凄まじい力で狂ったように掻きむしり始めた。皮膚には幾筋もの痛々しい爪痕が走り、そこから赤々とした鮮血がタラタラと流れ落ちている。存在もしない幻覚の虫に苛まれ、彼女の精神の均衡は完全に崩壊していた。
「おりよ様っ!お静まりくだされ、お医者様をお連れしたのです!」
太兵衛が必死に抑え込もうとするが、その声は彼女の耳には一切届かない。狂気に満ちた瞳で見据えたかと思うと、おりよは突如として猛獣のような身のこなしで、凌庵の胸元へと飛びかかってきた。
「お前が、お前が持っているのかっ!?例の『露』を寄こせっ、寄こせぇ! あの人と、あの人と共に嗅いだあの香り・・・あれがなければ、あたしは死んでしまうのっ!!」
「静まれっ!」
凌庵は一歩も引かず、身を翻して一瞬で彼女の懐へ潜ったかと思うと、暴れる両手首を的確に捉えて動きを封じると同時に、急所となる秘孔を鋭く突いた。人体を熟知し、体術を修めた者が成せる業だ。
「がっ・・・。」
手からすべての力が抜け、おりよの体がそのまま凌庵の腕の中にぐったりと崩れ落ち、口から吐しゃ物を履き散らかして倒れた。
「彩乃殿、両肩を押さえろ! 太兵衛殿、ぬるま湯と手ぬぐいを早く!」
「は、はいっ!」
彩乃が震える手でおおりよの体をしっかりと押さえ、凌庵はその手首を取って脈を診た。 肌は燃えるように熱く、脈拍は跳ね馬のように不規則に荒れ狂っている。そして瞳孔は極限まで開き、白日の光を完全に拒絶していた。
(これは・・・薬に狂い切った禁断症状だ。単なる山百合の香気ではない。植物性の麻痺毒に加え、人間の精神の理性を根底から焼き尽くす何かが混ぜ合わされている・・・。)
凌庵がおりよの口内を強引にこじ開けると、舌は黒ずみ、喉の奥からはあの「佐葦の露」の原液が放つ異様な刺激臭が猛烈に立ち上っていた。香水として肌につけるだけでは飽き足らず、狂乱の果てに直接口にしたか、あるいはあまりの乱用で皮膚から致死量の毒が吸収されたのだ。
「先生っ、あれは・・・!」
彩乃が震えながら指し示した枕元の暗がり、散らかった髪飾りや脱ぎ捨てられた帯の隙間に、一際怪しい光を放つ品が転がっていた。それは精巧な切子細工が施された、手のひらサイズのギヤマンの小瓶だった。中身は一滴残らず空になり、底には粘着質の黒ずんだ液体の痕跡がこびりついている。
凌庵はその瓶を拾い上げ、恐る恐る鼻先へと近づけた。 息が詰まるほどの凶悪な甘香が脳の奥を刺す。
「佐葦の露の、空瓶だな。」
「こんな綺麗な小瓶に入ったものが、人をこんな風に変えてしまう毒薬だなんて。」
彩乃が血の気を引かせておりよの顔を見つめる。おりよは凌庵の腕の中で、うわ言のように小さく、 しかし切実に呻き続けていた。
「もっと・・・あたしを綺麗に・・・。歌様のようにきれいに・・・・。あれがないと・・・生きられない・・・死んじゃうの・・・・。」
それは人間としての意思や情愛をすべて剥ぎ取られ、毒の快楽と苦痛だけに支配された「生ける廃人」の姿であった。そして、彼女が最後にすがりついた「歌様」という謎の人物への狂おしい執着。
「ご用人殿。『歌様』とは何者だ?」
「はっ・・・度々この屋敷に通ってくる、若い歌舞伎役者でございますよ。男好きで気の多いお囲い様の事ですから、また新しい男に骨抜きにされたのでしょうが・・・・。」
「左様か・・・・。」
凌庵の静かな、しかし氷のように冷たい声が部屋に響く。戸口でガタガタと震えていた太兵衛が、弾かれたように背筋を伸ばした。
「御用人、無用斎様にはこうお伝えなされ。おりよ殿の病は、心の病でも老いの気鬱でもない。この『佐葦の露』という凶悪な毒によって、魂と身体を内側から破壊されたのだ、と。人をやり、すぐさま養生所へ運び込んで徹底的な治療を受けさせるのです。」
凌庵は切子細工の空瓶をきつく握りしめた。
(やはりこの一件、ただ事ではない。一刻も早く奉行所の耳に入れておくべきだ・・・)
窓の外、隅田川から吹きつける川風が、黒塀の家を激しく揺らした。「心中」という偽りの死から始まった事件は、いまや一階級の没落と、江戸市井を根底から腐食させる巨大な毒の陰謀へと、その恐ろしい正体を完全に顕わにしつつあった。
同時に、凌庵の脳裏には、この微かながらも強烈な香りを「どこかで嗅いだ」という決定的な記憶の断片が蘇っていた。
(そうだ、あそこだ!)
確信にはまだ至らないが、十中八九間違いない。あの場所にも、あの者たちの衣にも、この忌むべき「佐葦の露」の匂いが染みついていたはずだ。
「では太兵衛殿、直ちに指示を実行されよ。養生所へは、私からも使いを送る。」
「承知いたしました・・・では、これはお囲い様を診ていただいた薬礼でございます。」
太兵衛は震える手で分厚い包みを差し出し、凌庵はそれを彩乃に預けその場を後にした。
表へ出ると、冷たく澄んだ外の空気が肺腑に染み入る。
「彩乃殿、怪我はないか?」
「・・・はい、なんとか。でも、あんな恐ろしいもの。」
「とりあえず天竜堂へ戻り、少し頭を冷やそう。」
「先生、あの患者は・・・本当に助かるのでしょうか?」
「本人の気力と、これからの治療次第だ。」
そう言った凌庵の足取りは重かった。大枚の薬礼を懐にしながらも、さっきまでほくほく顔だった彩乃の表情からも完全に笑顔が消え失せている。二人の衣服に染みついた甘く妖しい香りは、静かに、そして確実に、彼らをさらに深い江戸の黒渦へと引きずり込んでいくのだった。




