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13.妖し水

 「嫌ぁぁぁっ! 来ないで、来るなぁ!あたしの背中に這い回るその黒い足を引き剥がしてよっ、死ぬぅ、狂っちまう、体が燃えるぅ!溶けちまうよぉ!」

 向島の黒塀の妾宅から緊急手配され、小石川養生所の厳重な施錠が施された離れの一室。普段は静かな養生所の重苦しい治療室には、耳を刺す断末魔の悲鳴が絶え間なく響き渡っていた。

 色白で気品があったはずの顔立ちは泥と血にまみれ、引き攣った両目は定まらずに宙を泳ぎ、着物は自らの狂乱によって無残に引き裂かれている。皮膚のあちこちには、存在しない虫を追い払おうと自身の爪で抉った深い傷痕が幾筋も刻まれ、血が滲んでいた。そして呼吸のたびに異様な甘臭い悪臭 ――あの忌まわしい「佐葦の露」の残り香が、澱んだ室内の空気をさらに重く歪めている。

 その暴れ狂う女の傍らで、篁洲は微動だにせずに治療を施していた。

 普段はどこかがめつく、天竜堂の店賃の取り立てに文句を言っては呑気な小言を繰り返す「養生所の親しみやすいとっつあん」にしか見えない。だが、彼は決して単なる好々爺でも、格ばかりの藪医者でもない。かつて幕閣の典薬寮でその名を響かせ、大奥の重病をも治めてきた名医中の名医なのだ。今、その双眸には一人の真摯な医療者としての圧倒的な威厳と、底知れぬ知性が宿っていた。

治療の手際を見守っていた凌庵と彩乃は、思わず深く息を呑んだ。

 ひとたび狂乱の現場に立てば、その手腕は幕府直轄の養生所を束ねる肝煎医師としての気宇と、数多の死線や修羅場を潜り抜けてきた本物の名医のそれに他ならなかった。

 「静まりなされ、おりよ殿。貴女の身体を脅かしているのは虫などではない。脳の髄に巣食った、幻の毒じゃ。」

 普段の好々爺とした口調とは打って変わり、重く地響きのように低い、よく通る声。そこには患者の狂気を圧する不思議な抑止力があった。暴れるおりよがわずかに動きを止めた、その一瞬。篁洲の老いた手が、疾風の如く動いた。

 彼の指先には極細の銀針が握られており、迷うことなくおりよの頭部、頸部、そして背中と要所の秘孔へ、吸い込まれるように正確無比に突き入れられていく。

 「杉山流の秘鍼・・・脳の血熱を逃がすこの技、必ず役に立つはずじゃ。」

 最初は激しい苦悶の表情を浮かべ、喉を鳴らして吐き気を催していたおりよだったが、針が深まるにつれて次第に顔の引き攣りが解け、穏やかな表情を取り戻してそっと目を瞑った。荒かった呼吸が静かな寝息へと変わり、完全に眠りについたのだった。

 「これはいかん・・・。脳を直接侵す毒、それに強烈な幻影を見せる毒草が混ざっておる。このまま放置すれば五日と持たずに脳の太い筋が焼き切れ、命を落とすぞ。ただちに曼荼羅華の煎じ汁に黄連を合わせた特製の鎮静剤を用意しなさい!それと、肌の腐蝕と炎症を防ぐため、甘草と紫雲膏の湿布を急ぐのじゃ!」

 「はいっ!」

 助手が青ざめた顔で頭を下げ、慌ただしく部屋を飛び出していく。その背中を見送ると、篁洲は手早く銀針を回収し、懐紙で汗を拭いながら凌庵へと静かに視線を向けた。

 「これほどの猛毒を自ら肌に塗り、挙句の果てに喉へ注ぎ込むとはな。人間とは、何とも業の深い生き物だのう・・・。このような毒が、何故世に出回っておるのか・・・。」

 「流石はとっつあん、見事な鍼術と解毒の処置だ。俺が初診で診た時よりも、確実に脳の異常な興奮が鎮まっている。」

 「ふん、褒めても何も出ぬぞ? 冗談はさておき凌庵殿、これ程までに人の心身を内側から破壊し尽くす薬品、一体正体は何じゃ?」

 「ああ、一見しただけでは解りかねます。そこで薬煎室におられます慶斎殿に、現場に残されていた空瓶の鑑定を依頼しました。液はほとんど乾いておりますが、底の粘質を解析すれば何かが解るはずです。」

 「それは良い。慶斎先生の薬草学と本草学の見識ならば、必ずや毒のカラクリを暴いてくれよう。この女の患者のことは儂が責任を持って診ておく、お主はすぐに慶斎先生の意見を聞きに行くが良かろう。」

 「そうさせてもらいます。」

 「彩乃殿、其方も後学の為に見に行くがよかろう。」

 「解りました。」

 凌庵が深く一礼し、彩乃を伴って足早に薬煎室へ向かおうとしたその時――。

 「よう、御両人。」

 治療室の前に広がる養生所の渡り廊下の陰から、ひょっこりと一人の男が顔を出した。

 着物の胸元を寛げ、派手な羽織を羽織ったいかにも男盛りといった感じの男――この辺りでは遊び人の「金五郎(きんごろう)」で通している男だ。着流しの裾から覗く足取りも軽やかに、無精ったらしく懐に手を入れて壁に寄りかかっている。

 「金さんか。また野次馬根性を出して出てきたのか?」

 「野次馬とは人聞きの悪い。だが、とんでもねえ噂を聞いたら居ても立ってもいられねえ性分でな。」

 ふふふと軽薄な笑みを浮かべるが、ただの遊び人ではないことは確かである。遊び人の金五郎、その正体は巷で名奉行と呼ばれる北町奉行、遠山金四郎景元なのだ。

 「それで、水谷家の妾はどうなった?」

 「篁洲先生に任せた。今から慶斎先生の御意見を聞きに行く。」

 「そうかい。では俺も同道させてもらおうか。江戸中にこんな悪い代物が流行っているなら、見過ごしにはできねえ。」

 「解った。」

 凌庵は金四郎と共に薬煎室へ向かった。

 養生所の最奥、何百種類もの乾燥薬草の香りが立ち込める薬煎室では、外科医であり本草学者、そ して薬物鑑定の第一人者である梶浦慶斎の姿があった。ビードロ製のフラスコや銀匙、そして蘭学渡りの精密な拡大鏡を手に、真剣な眼差しで作業に没頭している。

  部屋に入ってきた凌庵、彩乃、そして金四郎の姿を認めると、慶斎は深く重い溜息をついた。

 「おや、おいでか。何だ、金さんも一緒かね。」

 「俺のことは気にしないでくれ。」

 「慶斎先生、瓶の中身はどうだった?」

 慶斎は慎重な手つきで、瓶の底から削り取った微量の粘着質を載せたガラス板を指し示した。

 「こいつは恐ろしい代物だぜ。結論から言えば、女を上げる、男を上げるだなんて結構なシロモノじゃない。この『佐葦の露』という液体の正体は、古今東西のあらゆる劇薬と香料を歪に組み上げた、極めて悪質な『人心支配の毒薬』だ。」

 「『人心支配の毒薬』、とな?」

 「一体、何が入っていたのですか?」

 細かに記録を取りながら、彩乃が真剣な眼差しで尋ねる。

 「まず、香りの土台となっているのは、極上の伽羅、白檀、そして南蛮渡りの薔薇の蒸留油だ。」

 「それだけ聞けば、普通の高級化粧水のようですが。」

 「それだけじゃないぞ。一つは、劇薬である曼荼羅華。そしてもう一つは、阿片の原料となる芥子 の濃厚な乳汁だ。これらが脳の中枢神経を麻痺させ、強烈な多幸感と恐ろしい幻覚を引き起こす。しかし、それだけではこれほど滑らかな塗り薬にはならん。」

 「繋ぎに何かが使われているのですね?」

 「うむ。『龍涎香』だ。鯨の胎内から取れる超高価な香料だが・・・どうやらその龍涎香に、未知の毒藻のようなものが付着し、特殊な変異を起こした代物が混ざり合っている。これが阿片や曼荼羅華の劇毒性を巧みに包み込み、肌に塗った瞬間、体温によって妖しく揮発し、皮膚から直接体内へ吸収されるよう計算し尽くされている。」

 「つまり・・・肌につけた者自身が、知らず知らずのうちに阿片と毒草の強烈な中毒に侵されていくというわけか。」

 金四郎が腕を組み、冷ややかな声を漏らす。慶斎は深く首を振った。

 「それだけではない。この毒には、もう一つの恐ろしい仕掛け――『第二のうつり』がある。この香りを纏った者が発する甘い気体には、微量の麻酔成分と誘惑成分が揮発している。それを至近距離で深く吸い込んだ者、あるいは肌を重ね合わせ密接に関わった者もまた、脳の中枢をじわじわと毒で侵され、理性を失っていくのだ。・・・例えるならば、江戸の市井に伝わる『イモリの黒焼き』――人を虜にするというあの惚れ薬を、極限まで毒薬として研ぎ澄ませた代物。纏った者も、その相手も、互いに毒の快楽なしでは生きていけなくなり、互いを激しく求め合い、最後は共に狂い死ぬ。まさに悪魔の仕掛け、悪しき妖し水だ。」

  薬煎室に、凍りつくような静寂が降り立った。

  「イモリの黒焼きの・・・、悪しき妖し水。そんなものが・・・。」

 彩乃の唇が恐怖に震える。

 「慶斎先生、見事な鑑定感謝する。」

 凌庵は静かに頭を下げると、固く握りしめた拳を自らの膝に置いた。

 「この毒は、単なる薬種商や個人の思いつきで作れるようなものではない。莫大な資金と、南蛮渡りの生薬を入手できる裏の流れ、そして高度な調合の知識を持った黒幕が確実に存在する。」

  「ああ、とんでもねえ代物だ。」

  金四郎は遊び人の笑みを完全に消し去り、奉行としての鋭い眼光を宿して低く呟いた。

 「大奥、幕閣、豪商、そして花街・・・。江戸の隅々までこの毒を潜ませ、人を狂わせて利権を貪る悪党どもがいるわけだ。・・・凌庵先生、御奉行にもこの旨を伝えた方が良いぞ?」

  「わかった。俺が直々に届ける。」

 慶斎から鑑定書を受け取り、凌庵たちは薬煎室を後にした。

 「彩乃さん、すまねえが、病棟の方で女医の手が足りねえんだ。手伝ってやってくれ」

 「先生、よろしいのですか?」

 「ああ、しっかりな。」

 凌庵は彩乃を病棟に残し、養生所を後にした。そしてその背中を、金五郎が「邪魔したな」と気 さくに装いながらついていく。しかしその目は、もはやただの遊び人ではなく、江戸中の治安と秩序を預かる町奉行としての謹厳な光を帯びていた。

  養生所の薬煎室に漂うかすかな白檀の香りの奥で、姿なき黒幕の不気味な気配が音もなく迫ってくる。偽りの心中事件から始まった暗闘は、いまや江戸全土を揺るがす巨大な陰謀の深淵へと、本格的に足を踏み入れようとしていた。

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