14.桜の慈愛
「御免よ、冷でくれ」
小石川の御用屋敷から少し離れた、隅田川の土手沿いにひっそりと佇む寂れた居酒屋。古びた縄暖簾をくぐり中に入ると、昼下がりということもあって店内はしんとしていた。 奥の座敷に腰を下ろすと、遊び人の「金五郎」の顔を崩さない金四郎が、乱雑に足を崩して朱塗りの徳利から冷酒をきゅっとあおった。
「さあ、お前さんも一杯やりな。」
「ほどほどに頂こう。俺はそこまで酒飲みではないのでな。」
「よく言うぜ。」
苦笑いを浮かべつつ、凌庵も冷酒の杯に口をつけ、出されたばかりの皿に目をやった。
「芝海老のかき揚げか。」
「おう。揚げたての香ばしい匂いにつられてな。脳が痺れるような毒の話のあとは、これくらい景気のいい油っこいもんに限るぜ。ほら、お前さんも食え、美味いぞ。」
「うむ。」
箸でつまんだかき揚げは心地よい音を立て、口の中に香ばしい海老の甘みが広がる。 江戸の空はどこまでも穏やかな晴れ間を見せているが、二人の間に漂う空気は、先ほどまでの養生所の薬煎室よりもさらに冷徹な緊張を帯びていた。
「しかし、無用斎様もこれから大変だな。あのおりよがあのような惨たらしい姿になっては・・・。」
「そうだな。無用斎様は今の幕閣のあり方に対して常々憤慨しておられたからな。身内の不祥事となれば、立場もなかろう。」
「まあいい。まずは金さん、これは『佐葦の露』の調べ書きだ。慶斎先生の言葉も添えてある。必ず与力同心に回してくれ。」
「わかった、預かろう。」
金四郎は猪口を置き、凌庵から調べ書きの綴りを受け取って懐へ収めた。
「一つ気になるのだが、あのおりよ殿がうわ言のように繰り返していた『歌之丞』とは何者だ?」
「それなら俺も調べてある。『中村歌之丞』――今を時めく人気の若衆歌舞伎役者だ。商家の人々だけでなく、大奥の中にも熱心な贔屓がいるほどの売れっ子らしい。」
「なるほど。ならば、御大身の妾が夢中になるのも納得だな。とすると・・・ひょっとしたら、あの娘も。」
「あの娘?」
「三島屋伊左衛門の娘、おぬいさ。あの子の衣服からも、『佐葦の露』と同じ強い香りが漂っていた。まさか、その死にもあの歌舞伎役者が関わっているとしたら・・・。」
「一理ある。もしや、ただの色恋沙汰ではなく、あの裏稼業が深く絡んでいるのか?」
「裏稼業?」
凌庵が眉を寄せる。金四郎は新たに注いだ冷酒を煽ると、居酒屋の薄暗い光の中で、ふと表情を厳 格なものに変えた。
「『夢一芝居』というものを知っているか?」
「夢一芝居・・・?」
「形の上では『芝居の稽古』と称しているが、実態は違う。大金を払った客のために、雇われた役者が『理想の想い人』や『親密な身内』を完璧に演じてみせるという、裏の商売だ。客のために甘い言葉を囁き、望むままの虚構の時間を売りつける。一度その泥沼にはまれば、身も心も、そして財産のすべてを吸い尽くされるまで抜け出せない。」
「その身勝手な裏稼業が、この事件の引き金になっているというのか・・・。」
「あいつらは相手の心に入り込み、狂わせる術を心得ている。『佐葦の露』という毒香とそれが結 びつけば、人間など簡単に操り人形にできる。」
「そんな悪しき稼業を伸ばしにしては、御上の手抜りと揶揄されても文句は言えぬぞ?」
ぴしゃりと厳しい口調で言い捨てる凌庵に、金四郎は苦笑しながらも、さらに深刻な話題へと切り込んだ。
「相変わらず痛いところを突く。だがな、事態は花街や町人の裏稼業だけにとどまらない。いま、御上の周りも激しくざわついているんだよ。」
「どういうことだ?」
「いま、江戸城内、それも中奥から大奥にかけての最大の関心事は、今上様・家定公の『御世継ぎ 問題』だ。徳川宗家の血を絶やさぬため、正妻のほかに新たな側室を誰にするのか。大奥の重鎮たちが連日水面下で、激しい権力闘争を繰り広げているのさ。」
「御世継ぎ様はご病気で、長らく床に伏されているはずだが?」
「だからこそ、だ。まだお体が芳しくないこの時期にこそ、権力を握る者たちは次の主導権を欲し がる。」
「残酷な定めだ。お気の毒に・・・。」
「中でも大奥御中臈、大曾根様は強引で知られるお方。その大曾根様が、肝煎となって話を進めている。」
そう言いかけた凌庵は、ふと何かに気づき箸を止めた。その琥珀色の瞳に、鋭い閃光が走る。
「金さん、今から突飛なことを言うぞ。」
「なんだ?」
「もしかしたら今回の『佐葦の露』の一件も三島屋の事件も、近頃流行っている『夢一芝居』も、元をたどればその『御世継ぎ』を巡る権力闘争に行き着くのではないか?」
「・・・なんだと?」
「側近の者を『佐葦の露』という薬で懐柔し、相手の心を完全に狂わせて意のままに操る。一挙両得で権力者の懐へ入り込める。もし、大奥のどこかの勢力がそれを見越してこの毒を実験させていたとしたら・・・?」
凌庵の推論は、冷静沈着な金四郎の顔色をも一瞬で青ざめさせた。
「・・・恐ろしい話じゃねえか。」
「ああ。この推測が当たっているならば、事は一刻を争う。放置すれば、第二、第三の廃人が生まれることになる。」
金四郎はしばらく無言で徳利を見つめていたが、やおら顔を上げると、遊び人の仮面を完全にかな ぐり捨てた。その瞳には、一国の治安を守る奉行としての威厳が宿っていた。
「・・・凌庵。いや、若。後の件は我らに任せ、この一件から手を引かれよ。」
ふいに発せられた、冷徹なまでの武家言葉。 その重い響きに、凌庵はかすかに眉をひそめた。
「何を言う。検死を行い、毒の正体を暴いたのは俺だ。ここまで関わった以上、人任せにするわけには・・・。」
「貴殿はただの町医者ではございませぬ!その考えが真とするならば相手は幕閣の深部に巣食う化け物。一介の町医者が、将軍家や大奥の権力闘争の闇に踏み込めば、いつ消されるか解りませぬ。貴殿の躰に流れる血は、並の血ではございませぬ。それをお解りか?」
金四郎の声には、目の前の男を案じる強烈なまでの親愛の情と、隠しきれない痛切な哀しみが滲んでいた。雲上の住人たる最高位の貴顕と、一介の市井の民との間に結ばれた禁忌の絆。その血を引く者が、泰平の世を揺るがす権力闘争の闇に踏み込めば、いつ暗殺され、歴史の闇に消されてもおかしくない。金四郎が懸念しているのは、まさにその命の危険だった。
しかし、凌庵はその威圧を真っ向から受け止め、微塵も動じなかった。彼は静かに、しかし鋼のような意志を込めて、自らの白く細い指先を見つめる。
「金さん・・・いや、景元。其方の懸念はもっともだ。だが、俺のこの手は、高貴な衣を纏うためにあるのではない。病を診て、死者の無念を拾い上げるためにこそある。」
その声には、生まれながらの気品と、それを自ら泥にまみれさせようとする凄絶な覚悟が同居していた。
「この毒に毒され、虚飾の夢に狂わされた者たちは、死してなお魂を救われていない。医者である以上、この街を蝕む病の源を見過ごし、安全な場所で耳を塞いでいることなど出来ぬ。もしも、俺の流れる血がそれを許さぬというのなら、自身の肉を切り裂いてでもその血をすべて捨て、ただの貧乏医者として地獄の果てまで追いかけるまでだ。」
金四郎は、凌庵の瞳の奥に宿る「不滅の光」を見た。それは、いかなる権力をもってしても決して屈服させることのできない、誇り高き魂の輝きだった。
「・・・貴方様には敵いませぬな。周りから何と言われようと、己の信念を曲げずに貫き通すその気性は、正にあのお方に瓜二つだ。」
金四郎はふっと肩の力を抜き、懐から取り出した扇子で自らの膝を軽く叩くと、観念したように深い溜息をついた。
「承知仕った。ただし、私も無茶は承知で申し上げます。危ういと思えば、すぐにこの金さんを頼りなされ。それに、新太郎や仁吉を頼りなされ。あいつらも、貴方様のためなら火の中水の中だ・・・。江戸の闇を暴く『光』が貴方様一人であっては、この遠山金四郎の名が泣きますからな。」
「恩に着るよ、金さん。その桜吹雪が、俺を見守ってくれていると思うと心強い。」
凌庵がふっと目元を緩め、遊び人の着物の胸元から覗く「刺青の桜」に視線を落としながらそう呟くと、金四郎は一瞬呆気にとられたように目を丸くし、やがて「ハッ」と嬉しそうに鼻を鳴らした。
「調子のいい事を・・・。兎に角、この桜が咲き乱れているうちはお前さんに何人も触れさせやしねえよ。」
「頼んだぜ、金さん。」
凌庵は静かに笑み、目の前の盟友と改めて杯を酌み交わした。冷酒の喉越しが、燃え盛るような焦燥感を静かに鎮めていく。
妖しい水に狂わされた女、奇妙な香りを身に纏い命を落とした商家の令嬢。その背後で見え隠れする歌舞伎役者・中村歌之丞の存在と、「佐葦の露」という名の悪意。 すべての真実が眠る舞台へと、物語は音もなく、しかし確実に動き出そうとしていた。




