1.江戸の検死官 前編
「来たか・・・、遅いぞ!」
イライラと落ち着かない様子の役人が、連れてこられた高柳凌庵を出迎えた。
「これでも忙しい身でね。」
「まあいい、とにかく早く取り掛かってくれ。」
長雨によるむっとした湿気に加え、擂り潰された青臭い薬草の香りが鼻腔を突く。
ここは石川御薬園の敷地内に新設された「小石川養生所」。かつて「赤ひげ」と呼ばれた高名な医 師・小川笙船が、貧困ゆえに満足な治療を受けられぬ市井の民を憂い、目安箱へ投書したことで開設された無償の診療所である。内部は内科医と外科医が二人づつ、他にも看護を担う中間が置かれ、中の状況を巡察し報告する為に、町方より派遣される見廻り役人が闊歩するこの場所は、窮民にとって最後の砦であった。
その養生所の奥深くに位置する一室――ギイ、と重い留め金が鈍い金属音を立てて開き、凌庵は押し込められるように中へ足を踏み入れた。
部屋の名は「顕幽閣」。 中に入ると、中央には特殊な塗りが施された検視寝台が鎮座し、壁の棚にはビードロ製の薬瓶がズラリと並んでいる。各所の壁面には、蘭書から写し取られた精密な人体解剖図が掲げられていた。
寝台の上には、十歳そこそこの子供が横たわっている。
凌庵は最新鋭の蘭学――オランダ医学を修めた町医師である。人材難が深刻化し、賭場まがいの行為や薬代の自己負担などで荒れ果てる養生所へ、幕府の要請を受けて派遣されてくる医者のひとりだ。 だが、他の医師と決定的に違う点が一つだけある。
寝台に横たわる子供は、すでにこの世の者ではない。 凌庵がこれから診るのは、生きている患者ではなく「死骸」であった。
薬篭箱を寝台の脇に置くと、背後からポンと肩を叩く者がいた。養生所の肝煎医師・稲垣篁洲だ。その表情は、哀れみを帯びている。
「おい凌庵殿、また御役人に駆り出されたのか? それとも自ら進んで来たのかね。」
「五分五分・・・、といったところです」
「何が五分五分だ。町方に都合よく利用されおって。儂はな、其方の恩師である玄瑞殿に代わって心配しておるのだぞ? 死骸の声を聞くというのが大切な役割なのは分かる。だがな、安請け合いが過ぎると本業の看板に差し支えるぞ。」
「お気遣い、忝なく存じます。しかし、これもまた恩師や亡き祖父の教えですので。」
「教えか・・・。」
澄んだ目で淡々と答える凌庵に、篁洲は深い溜め息をついた。単なる野次馬根性なら力ずくで追い返すところだが、「医術の教え」と言われては返す言葉もない。
「とにかく、早く済ませてくれよ。凌庵殿、もう少し己の身も大切にいたせ。」
「はい。」
不満げな篁洲に促され、凌庵は薬篭箱から手早く道具を取り出し、検死の準備に入った。
――享保の改革より百余年。幕府が定めた膨大な法の中で、変死体の「検視」は極めて重く扱われてきた。 被害者の死因が外部の傷によるものか、あるいは無関係な持病によるものか。正確な医学的知見がなければ、恐ろしい冤罪や謀殺の見逃しが横行するからである。もし変死者を届け出ずに葬れば、寺院には五十日の閉門、親族には多額の過料が科されるほど、幕府は神経を尖らせていた。
嘗てある事件の立ち会いに当たった小川笙船は、時の名奉行・大岡忠相に訴えた。
「裁きに誤りがあっては、死者も浮かばれぬ。」
忠相はすぐさま八代将軍・吉宗に直訴し、医学の力で「死者の声」を正確に聞き取るための特務空間を設計させた。それが不帰蔵、そしてこの「顕幽閣」が存在する理由であった。そしてこの検死には、医学の力を持ち合わせる専門家、つまりは医者の協力が必要となる。この凌庵は市井で開業する町医者であると同時に、この検死を引き受ける数少ない医者だ。
「南無阿弥陀仏・・・。」
凌庵は懐から数珠を取り出し、静かに経を唱えた。その傍には、供養の為に呼ばれた僧侶の天海が同様に御経を並べている。
これから仏の体に触れることへの許しを請う儀礼だ。篁洲はその儀礼を人一倍重んじており、不帰蔵や顕幽閣に死骸が運ばれた際は、こうして供養の儀礼をかかさない。
「供養は済んだ、早速取り掛かろうか。」
「それにしても可哀そうに・・・、こんな年端も行かぬ子供が命を落とすとは・・・。」
「まったく・・・、とんでもない死骸上がっちゃったよ」
声をかけたのは、凌庵の隣で苦々しい顔をしている男――北町奉行所与力の近藤新太郎であった。年番方筆頭与力の嫡男であり、文武両道、「八丁堀の麒麟児」と称される若 手期待の星だ。だが、そんな名剣士にも弱点があった。血と死体を見るのが滅法苦手なのだ。だからこそ、新太郎は何か不審があると真っ先に凌庵を頼ってくる。
「この子は神田鍛冶町の亥之吉と言うそうだ。母親と継父三人暮らしらしい。」
「義理の父親とか、やむにやまれぬ事情があっての事だろうな。ところで新さん、お前さんは何が気になったんだ?」
「うむ・・・単に川へ落ちて流されたにしちゃ、体に擦り傷や打撲の痕が多くねえか?」
「ほう、良いところに目をつけたな。」
凌庵が目を向けると、確かに少年の体には無数の打撲痕が見られた。大川端の川底は泥が多く、嵐で激流にでもならない限り、子供の体がここまで傷だらけになることは考えにくい。
「これでも奉行所の飯を食ってるんだ、節穴じゃねえよ。」
「ならば新さん、もっと近く寄ってその自慢の目で調べたらどうだ?」
「か、勘弁しろよ・・・俺の苦手を知ってて言ってるだろ!」
「知っているとも。だから俺を呼んだんだろう?」
「解っているなら、早う頼む。」
そそくさと後ずさりして小さくなる新太郎に、凌庵はふっと悪戯っぽく微笑んだ。
軽口を終えると、凌庵の目は一瞬で医師の冷徹さと深遠さを取り戻した。
「・・・坊主、許せよ。」
亥之吉の着物を肌脱がせ、腹部にそっと手を当てる。触診を重ねるにつれ、凌庵の眉根が深く寄せられていった。
「・・・水が出てこないな。」
「え?」
「幾ら腹を推しても、水が出てこないのだ。水を吸って肌は膨張しているが、それに比例して胃の 腑の中に水がほとんど溜まっていない。・・・これほど流されたなら、息絶えるまでに浴びるほど水 を飲むはずだ。なのに腹が軽い。」
そして凌庵は死骸を横にする、そして後頭部を見て各所に診られる擦り傷の中で特にひどい傷があった事に気が付く。川に流されて付いたにしては、不自然な傷だった。
「新さん、此処を見てみろ。川底の泥や小石に揉まれて付いたにしては、あまりに不自然で酷い傷だ。何より・・・、頭皮の奥に血が凝固している。」
「血が固まってる・・・? それがどうかしたのか?」
「生きて息があるうちに、硬い何かで強く殴打されたかぶつけた証拠だ。死んで流されてから岩にぶつかった傷なら、こうまで血は凝固せん。」
凌庵は静かに新太郎を見つめ返す。
「新さん。お前さんの懸念どころじゃない、この子供は殺されたのだ。」
「なにっ!?本当か!?この子供は殺されたと言うのか?」
「ああ、十中八九間違いない。死骸の微かな声が『自分は殺された』と述べている。」
「微かな声?」
「ああ、死骸はそう言っている。今から、その声をもっとはっきりと聞く。」
死骸が口を利く、端で効けば凌庵のいう事は怪談噺に出てくる様な絵空事に聞こえる。しかし、これは絵空事でも何でもない。紛れもない医科学が示す事実なのだ。
凌庵は薬篭箱を開き、擂鉢で丁寧に練り上げた特製の練り薬を取り出した。 白梅の果肉、甘草の根、葱白、粗塩、そして山椒の果皮を絶妙な比率で調合した、独特の酸味と刺激臭を放つ泥状の薬である。これを亥之吉の首周りから胸元にかけて、躊躇なく塗り拡げていく。その上から発酵した酒粕で厳重に覆い、大きな金創膏を貼り付けた。これが、死骸の声を聴く手段だ。
「それは・・・、あの有名な『無冤録述』の秘術か?」
「そうだ。不幸な事故か、人手に掛かった他殺か・・・言葉を喋れぬ仏に代わって、無念の証拠を浮かび上がらせる。」
『無冤録述』――江戸時代の医学者・河合甚兵衛尚久によって和訳された、日本最古の法医学書である。時間の経過とともに消えかかった皮下出血を、薬物の刺激によって人為的に浮き上がらせる「検屍」の術であった。
「・・・これで、声なき声の主が分かる。」
凌庵は懐から、舶来品の懐中時計を取り出して時を見る。カチカチと言う秒針の小さな音が、微かに顕幽閣の中にこだまする。




