後編
江戸城天守台――。
家定の無事を見届けた家慶は、数少ない政務を終えてそこに佇み、薄曇りの空の下、見渡す限りの江戸の町並みと屋根の波をじっと見つめていた。その眼差しはどこか深く陰っているようにも見え、同時に愛おしいものを慈しむような温かさもうかがえた。
「上様・・・。」
「丹後に景元、また苦労を掛けたな・・・。」
背後から静かに足音が近づき、声が掛かる。
「玄瑞先生より、先ほど西の丸様が深くお眠りになり、快方に向かわれているとの知らせが届きました。これで取り敢えずは、最悪を免れた物と・・・。」
奥医師の診察結果を伝える丹後守、その隣には市井の治安を預かる北町奉行・遠山金四郎景元が静かに控え、深く平伏していた。
「そうか・・・、大儀であった。」
「上様。凶徒の暴挙を未然に防ぐ事が出来なんだ落ち度の一端は、江戸の治安を預かるこの景元にもございます。誠に・・・、お顔向けもございません。」
深々と平伏し、固く拳を握りしめる金四郎。先程江戸上よりの使いからこの重大事を聞いた金四郎は至急登城した。金四郎は自分の役目に落ち度があったと言う絶望よりも、治安維持が行き届いていなかったと言う悔しさが勝り、今にもその場で腹を斬りそうな勢いで会った。
そんな金四郎に、家慶は穏やかな眼差しを向けた。
「顔を上げよ、景元。其方のせいではない。其方たち町方役人の日夜の働き、余はよく感謝しておるぞ。」
「・・・勿体なきお言葉にございます。」
金四郎は感極まったように目元を緩め、今一度深く額を床へ擦りつけた。家慶はふっと柔らかく微笑むと、再び眼下に広がる広大な大江戸の街並みへ視線を戻し、小さく息を吐いた。
「丹後、景元。我が目の先には何が見える?」
「上様がお納めになる、天下泰平の江戸の町でございます」
「この目の前に広がる街々に、どれほどの命が生きているのだろうな」
「神君家康公の御代より十二代。いまや江戸にはあふれんばかりの民が暮らし、息づいております。」
「江戸だけではない。日ノ本六十四州・・・老若男女、数え切れぬほどの人々がそれぞれの営みを送っておる。徳川の肩には、その数え切れぬ生きとし生ける者の人生がかかっているのだ。」
「流石は上様。天晴れなるお考えにございます。」
「世辞はよい。しかし天下泰平の世、市井とは着物の様な物じゃ。長い年月を経て、随分と大きな『綻び』ができたようだ。」
「・・・綻び、にございますか?」
家慶は再び深い溜め息をつき、丹後守を振り返った。
「家定の事よ。此度の一件であ奴はより一層、心を閉ざしてしまうだろうな。」
丹後守は痛ましい表情で唇を噛み締め、言葉を失った。
家定の人間嫌いは、今に始まったことではない。病弱な上に言葉が不自由で、極度の癇癪持ち。乳母である歌橋の懐から離れようとしない、いわば引きこもりの状態であった。それゆえ、幕閣や将軍家の縁者の間には「到底、天下を治める君主の器ではない」と断じる者も多かった。
そして何より恐ろしいのは、家定が命を狙われたのはこれが初めてではないということだ。幼少より、出された粥に毒が混入されていたり、乗馬の馬具に細工がされていたりと、陰湿な暗殺の影が絶えずつきまとっていた。いまや家定は誰も信用できず、実の父親である家慶にすら疑念の目を向ける始末であった。
「・・・ますます乳母に依存し、殻に閉じこもるであろうな。」
今回の水野忠邦による鷹狩を受理したのも、外の風に触れさせ、家定の病弱な心身を鍛え直す手段と考えたからであった。しかしそれが裏目に出て毒を盛られ、息子の人間不信に拍車をかけることになったのは火を見るより明らかだった。
家慶はガックリと肩を落とし、ぽつりと呟いた。
「・・・丹後、もはや諦めるしかないか。」
「上様・・・!早まってはなりませぬ!」
「余とて、次期将軍の座には我が子をと思っている。だが、肝心の家定があの有り様では、徳川の屋台骨が音を立てて崩れ去る。事は我が家だけの問題ではないのだ・・・。」
親心としては、我が子を廃嫡など絶対にしたくはない。しかし、世継に問題が発生し、万が一にも徳川家が傾けば、その災厄は日本全土の民へ及ぶ。将軍としての重責が、家慶の心を押し潰しそうになっていた。
「幕閣の連中も、それを望んでの事だろう?」
沈黙が重く流れる中、妙案を思い浮かべた丹後守が意を決して口を開いた。
「上様、源七郎君を宗家へお招きになられては如何でしょう?」
「なに、源七郎だと・・・?」
「・・・蟠竜様を、でございますか?」
金四郎が静かに眉をひそめた。
蟠竜――俗に『御控様』と呼ばれる、将軍の血脈に万が一があった際の備えとして留め置かれた存在。幕閣の一部では、陰で潜み力を蓄える龍に見立ててそう呼んでいた。
「御腹違いとはいえ、上様の実の御兄弟。万が一御世継様に何かがあった折には、源七郎様だけが頼りにございます。」
「・・・・源七郎であれば、余もやぶさかではない。だが、あ奴は我が父・・・先代将軍が附女中に手をつけさせ、その素性を隠匿された落し胤だ。そのような訳ありの者を、尾張や紀州の御三家や幕閣どもが易々と納得するか?」
「我が子を望めぬ御台様を気遣い、やむなく宿下がりをなされただけの事。御母上にも源七郎様にも、何のお咎めもございませぬ!」
丹後守の熱弁に、家慶は黙って考え込んだ。将軍の弟を養子に迎え、第二継承者として据える。家定の身に何かあった場合、それが最も確実な道には違いなかった。
しかし、静観していた金四郎が静かに首を振った。
「恐れながら・・・、それは時期尚早。些か危ういご懸念がございます。かつての駿河卿の一件もございます。下手に御世継様を差し置いて他者を頼れば、それこそお家騒動の格好の火種となりましょう。」
「無礼な!源七郎君を騒動の火種等と!!」
「やめい、二人とも。」
激昂しかけた丹後守を、家慶が重々しく制した。
「景元は徳川の将来と、源七郎のことを思って申しておるのだ。そう責めるな。」
「・・・某としたことが取り乱しました。申し訳ございませぬ。」
「しかし・・・父上も罪なことをされたものよ。騒動を褒めたくはないが、あの一件で源七郎の素性が明るみに出た。そうでなければ、今頃どうなっていたか。」
金四郎は穏やかな視線を家慶に向けた。
「いま、蟠竜様はご自身の身分を弁え、市井で慎ましくお暮しでございます。そして蟠竜様は常々『次期当主は御世継たる家定様こそが相応しい』とお考えにございます。どうか、蟠竜様のその思いを無になされますな。」
金四郎の言葉をじっと聞いていた家慶は、深く深く頷いた。
「・・・であろうな。だからこそ、あ奴は家定に自ら薬を飲ませたのだ。」
「白頭巾の正体、ご存じでございましたか?」
「これほどの大立ち回りを演じ、再び陰へと姿を消すような酔狂な真似をするのは、あ奴以外におらぬ。・・・ここ家定を見捨てては、あ奴の命がけの想いを無にすることになるな。余とて我が子を見捨てたいわけではない。・・・源七郎の想いを汲み、家定を信じてみよう。」
「左様になされませ、上様。丹後守様、異論はございますまいな?」
金四郎の問いかけに、丹後守も晴れやかな顔で深く頭を下げた。
「異論などあろうはずもございませぬ。であるならば遠山殿、一刻も早く西の丸様を狙った賊を捕らえねばなりませぬぞ。」
「分かっております。二度と同じような失態は侵させませぬ。」
「其方たちには苦労をかけるのう。任せきりですまぬ。」
「勿体なきお言葉!天地神明に誓い、江戸の治安を守るため粉骨砕身いたしまする!」
「この丹後も、命尽きるまで上様をお支えいたします!」
家慶は頼もしい忠臣たちへ笑みを向けたが、ふと、その表情を寂しげに曇らせた。金四郎が目ざとくその変化に気づく。
「上様・・・、いかがなされました?」
「何とも口惜しいと思ってのう。折角我が子の窮地を救ってくれた実の弟に、面と向かって礼の一言も言えぬこの身がな。」
本来ならば、将軍家が用意した屋敷で大人しく控えているべき弟が、刺客を散らし、秘薬をもってお世継ぎを救った――それが明るみに出れば、幕閣や御三家を巻き込む大騒動になりかねない。
「本当ならばあ奴の働きを労い、存分に酒や馳走を用意して『でかした』と褒めてやりたいのだ。・・・・毒にも薬にもならぬくだらぬ無駄話をしながら、二人で一献傾けたいものよ・・・。だがそれが出来ぬ、口惜しいではないか。」
「・・・心中、お察し申し上げます。しかし上様、縁の下の力持ちとして陰から徳川を支える源七郎君の深い思い・・・、どうか無になさいませぬよう。」
「ああ、解っておる。・・・せめてこの天守閣より、江戸の町に向かって礼を言うとしよう。」
将軍という巨大な籠の鳥である自らの宿命を、家慶は心底憂いていた。気まぐれに生を受け、家の都合で野に放たれた弟。自分もまた、何の柵もない市井の身分に生まれたかったと思わない日はなかった。
「上様、そろそろ昼餉の刻限にございます。」
「ふぅ・・・、食わぬわけにはいかぬか?」
「御身体でも悪いのですか?」
「そうではない、近頃は食欲が沸かぬ。膳の味付けも、急に薄くなったように思える・・・。ただでさえ毒見のせいで冷めきっておると言うに、味気ないとは空気がせぬ。」
「『贅沢は敵』と謳う水野様の改革の波は、上様の御膳にまで及んでいるようでございますな。」
「余の御膳くらいなら良いが・・・、民の暮らしが押し潰されねば良いがな。」
「その点は我々が目を光らせております故にご案じなさいませぬよう。」
「解った、では参るとしよう。」
家慶は小さく苦笑しながら溜め息をつき、丹後守に付き添われて天守台を後にした。
残された金四郎は、静かに江戸の街並みを見下ろした。賑やかな町人地の片隅――あの八丁堀の小さな診療所で、能天気を装いながら十六文で貧民を診ている男の顔が思い浮かぶ。
(・・・せっかく自由の身となり、ご自分の居場所を見つけたあのお方を、二度と籠の鳥になどさせはせん。絶対に、籠の鳥にはせぬぞ・・・。)
金四郎は声に出さず胸の中でそう呟くと、キュッと褌を締め直すように帯を正し、力強い足取りで江戸城の廊下を歩み出したのだった。




