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前編

 ――ドタドタドタッ!

 江戸城内、普段は厳かな静寂に包まれているはずの廊下に、けたたましい足音が響き渡る。

 「御医師っ!御医師はまだかっ!!」

 「お湯をっ、お湯を持てぃ!」

 裃姿の御使番が、青ざめた顔で息を切らせて走り回っている。右往左往する侍や奥坊主たちの騒ぎようは、まさに蜂の巣を突いたかのごとき惨状であった。

 江戸城西の丸の奥座敷。三つ葉葵の描かれた風雅な襖に囲まれた部屋の中央では、俗に『西の丸様』と称される将軍家御世継である徳川家定(とくがわいえさだ)が、青白い顔で苦しそうに唸り声を上げていた。

 「家定!父じゃ、解るか!?」

 傍らに膝をつき、必死に声をかけ続けているのは、父である十二代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)である。

 「御世継様っ、お気を確かに!」

 そのすぐ後ろでは、生母に代わって幼少より育て上げてきた乳母である歌橋が、固唾をのんで愛息の顔を見つめていた。

 そしてその傍らには、苦虫をかみ潰したような顔の老中首座・水野越前守忠邦《みずのえちぜんのかみただくに》。さらに幕臣と将軍の間を繋ぐ御用取次役・本郷丹後守泰通《ほんごうたんごのかみやすみち》が、重苦しい沈黙を守って座している。

 「・・・水野殿、この不始末を如何なさるおつもりか?」

 重苦しい静寂を破ったのは、歌橋の冷ややかな一言であった。

 「不始末・・・。」

 「そうでありましょう!これが其方の言う『徳川の威信を保つ大事』の末路にございますぞ!?」

『徳川の威信を保つ大事』――徳川家が度々催す鷹狩は、単なる気晴らしや趣味ではない。江戸の庶民に御世継の威厳を示し、正統性を知らしめるための重大な軍事儀礼であった。 しかし家定は生来病弱であり、人前に出ることを極端に嫌っていた。忠邦はそれを「武家の棟梁として弱態」と良しとせず、丹後守を通じて家慶へ鷹狩の開催を強く進言したのだ。将軍がこれを受理したことで、今回の催しが決定した。

 だが、その強行が裏目に出た。鷹狩の休憩時、一口の水を含んだ家定が突然激しい苦痛を訴えて倒れた。帯同した番士たちが毒殺未遂と察知するやいなや、森の奥から忍び装束の刺客群が現れ、家定一行を急襲したのだ。

 普段ならば他者の介入を突っぱね、自らの「天保の改革」を強行する忠邦であったが、今回ばかりは弁明の余地がない。外へ出たがらない家定を無理やり引っ張り出したのは、他ならぬ自分自身だったからである。まして怒りを露わにしているのは、大奥で絶大な権勢を誇る乳母の歌橋だ。

 「ただでさえお体が弱く、私の目の届かぬ野へ出ることをあれほど嫌っておられた西の丸様を連れ出したのは貴殿。その上、毒を盛られ刺客に襲われるなど言語道断!常日頃より血も涙もないお触れを強行なさる貴殿の勝手都合の為に、西の丸様が落命しかかったのですぞ! 挙句、貴殿の息の掛かった番士どもは何の役にも立たず、まるで腰を抜かしていたと聞く。・・・それとも貴殿の耳目は不穏な動きに気づけぬほど腐り果てているのか? あるいは・・・貴殿自ら刺客を放ち、西の丸様を排斥せんとしたのか!?」

 「・・・返す言葉もございませぬ。全ては、この忠邦の不徳の致す所でございます。」

人目を憚らぬ激しい糾弾に対しても、忠邦は微動だにせず床の一点を見つめていた。しかし、その拳はぎゅっと固く握りしめられ、額には青筋が浮かんでいる。

 忠邦は先代からの旧臣を容赦なく弾圧し、強引な領地替えなど冷徹な政治で恐れられていた。それゆえ「病弱で意思疎通の難しい家定を君主に不適格とし、廃嫡に追い込もうとしている」という噂が、真偽のほどはともかく囁かれるほどであった。

 忠邦の屈辱を味わう背を、歌橋は蔑むような冷徹な眼差しで見下ろしている。

 「歌橋、その位に致せ。」

 重厚な声で制したのは、家慶であった。

 「忠邦ばかりを責めることは出来ぬ。家定の為を思い、背中を押したのは他ならぬ余だ。忠邦もまた、徳川の将来を思う心から行ったこと。そうであろう?」

 「・・・寛大なる御沙汰、勿体なき極みにございます」

 忠邦が深く頭を下げたその時、部屋の外から奥女中の澄んだ声が響いた。

 「奥法印医師、藤山玄瑞(ふじやまげんずい)先生、御渡りにございます」

 「来たか?通せ!」

 障子が開き、二人の御目見え医師を従えた藤山玄瑞が入室してきた。

 「お待たせを致し、申し訳ございませぬ。早速西の丸様、御脈を取らせていただきます。」

 玄瑞は家慶への挨拶も早々に、布団の中で荒い息を吐く家定の診察に入った。 家定の額からは夥しい量の汗が吹き出し、顔色は土気色に変色している。うわ言のように口を動かそうとするが、喉が潰れたようなガラガラという音にしかならない。

 その症状を検分した瞬間、玄瑞の表情が凍りついた。

 「これは・・・斑蝥(ばんもう)・・・!」

 「なにっ!?」

 その名を聞いた瞬間、室内の空気が一変した。 斑蝥――斑猫の毒から精製される劇薬である。惚れ薬の成分と偽って用いられる事もあるが、その本質は五臓六腑を内側から劇的に焼き溶かし、激痛とともに死へ至らしめる暗殺の毒であった。

 それを家定が口にした――誰もが「もはやこれまで」と絶望に囚われた。

 歌橋とともに控えていた老中・林肥後守が、待ってましたとばかりに忠邦へ嘲笑を向けた。

 「時に水野殿。西の丸様の御側には、選りすぐりの小姓組や新番の遣い手が同行していたはず。それがどうですかな?西の丸様が毒に苦しみ、刺客が襲いかかった際、何一つできずに狼狽して右往左往していたと聞き申すぞ?」

 肥後守の言葉は、まるで綿で首を締めるかのように忠邦の不始末を追い詰めていく。歌橋や奥女中たちも冷ややかな視線を浴びせる。

 「目付らの調べによれば・・・絶体絶命の西の丸様を救ったのは番士どもではなく、正体不明の『白頭巾を纏った者』であったとか・・・。」

 「その者は何者だ?」と家慶が問う。

 「判りませぬ。ただ、白頭巾の者は自らを『葵幻之介(あおいげんのすけ)』と名乗った様子。並々ならぬ遣い手で、しかもその白装束には、はっきりと『三つ葉葵』の紋が打たれていたとか・・・。」

 西の丸の中にいる全員が驚愕した。三つ葉葵、徳川宗家の紋所。何人も敵わぬ権力の象徴だからだ。

 「三つ葉葵の御紋だと!?将軍家の威光が無下に悪用されたとなれば天下の大罪! そのような不埒者に頼らねば命も救えぬとは、幕府の面目は丸潰れにございますな。」

 「常日頃より『刀が重い』などと面腹を叩いている不甲斐ない番士どもに、主を守れるはずもございませぬ。武士にあるまじきこの醜態、いかに落とし前をつけられるおつもりか?」

 政敵の落度を容赦なく叩く肥後守に対し、忠邦も鋭い眼光で反論する。

 「若年寄・堀田摂津守(ほったせっつのかみ)を通じて、不始末をやかした番士どもは厳罰に処す。残る者どもにも再度の鍛錬を命じ、二度とこのような不覚を取らせぬよう手配しておる。」

 「番士の厳罰・・・、それだけで事が済みましょうか?水野殿はご自身の進める改革にばかり目が眩み、反する者を断罪することだけに躍起になっておられるご様子。今少し政の目を広くお持ちになっては如何かな?」

 「某には某のやり方がある。口出し無用!」

 忠邦と肥後守の視線が火花を散らし、水野派と林派の側近たちからも殺気立ったざわめきが起こり始めた。

 「静まられい!!」

 腹の底から響く一喝が、部屋の緊張を切り裂いた。声を上げたのは、家定の脈を取っていた玄瑞であった。

 「御一同!この場を何と心得るっ!西の丸様が死線を彷徨う枕元で醜い罵り合い、恥を知りなされ!くだらぬ権勢争いがしたくば、今すぐ退座し御用部屋でなされよ!」

 当代随一と称される名医の怒号に、その場にいた全員が息を飲んで黙り込んだ。幕府の権威や大奥の権勢がどれほど高かろうと、将軍家の命を預かるこの場において、奥法印医師こそが絶対の権威となる。登城する老中の駕籠すら道を譲らせるという玄瑞の矜持と威厳が、室内の重臣たちを完全に圧倒していた。

 「玄瑞先生の言われる通りだ。皆、口を慎まれよ・」

 丹後守の言葉が追い打ちとなり、部屋は静寂を取り戻した。

 玄瑞は深く息を吐くと、苦しむ家定に向き直った。家定の口元から伝う涎を拭った瞬間、玄瑞の指先が止まる。懐紙にべったりと付着した唾液の中に、微かな『紫色』の粉末が混ざっていたのだ。そして、鼻腔を突く甘く強い麝香(じゃこう)の香り――。その二つの特徴に、玄瑞は何があったのか予測が付いた。

 (これは・・・、紫雪散(しせつさん)か?御典医とて滅多にお目にかかれぬ幻の秘薬・・・それとも牛黄丸の類か?いずれにせよ、これが西の丸様の命を繋ぎ止めたことに違いはない。)

玄瑞は顔を上げ、肥後守を見た。

 「肥後守様。その『白頭巾の剣士』について、他に何か聞き及んでおられませぬか?」

 「・・・うむ。なんでも、印籠から怪しげな薬を取り出し、西の丸様に無理やり飲ませたとか。その後すぐに、喉や腹をかきむしって悶絶しておられた西の丸様が、嘘のように落ち着かれたとの事だ。」

 「左様でしたか。その方の咄嗟の処置がなければ、五臓六腑は焼きただれ、ここへ運び込まれた時には手遅れとなっておりましたでしょう。」

 玄瑞が安堵の吐息を漏らした直後、閉じられていた家定の瞼が、ゆっくりと開いた。

 「上様・・・、御喜び下され。西の丸様のご生気、確かに戻りつつございます!」

 「おおっ!本当か!?」

 家慶は唇を噛み締め、歓喜の涙を溢れさせた。一国の君主としてではなく、息子の無事を喜ぶ一人の父親の顔であった。

 「斑蝥が使われたと知った時は、我が目を疑いました。五臓六腑を内側から焼き溶かす悪鬼羅刹の劇薬・・・。お救いした御仁が、ほんの一瞬でも逡巡し薬を飲ませるのが遅れておれば、臓腑も尿道も破れ、一生這うことも叶わぬお体となっていたはず。・・・しかし今、毒牙は完全に退きました。喉や口内に軽い爛れが残る程度で、恐ろしき破滅は免れております。時が経てば傷も声の掠れも消え去りましょう。」

 「そうか・・・、良かった・・・、本当に良かった・・・。」

 「しかし、油断は禁物にございます。これはまさに『紙一重の奇跡』。お体は毒との大戦を終えたばかりの焦土のごとき状態にございます。半月……長くとも一月は政務を一切忘れ、水一滴、粥一匙に至るまで極上の養生をなされませ。万が一にも今無理をされれば、今度こそ命の灯火が消えかねませぬ。」

 「解った・・・無理をさせて済まなかったな、家定。」

 父の侘びを聞いた家定は、力なく一度頷くと、疲れ切ったようにくるりと背を向けた。

 一同が胸を撫でおろし、ゆっくりと西の丸を退座していく。廊下へ出た忠邦の表情は、世継ぎの命が助かった安堵など微塵もなく、屈辱と激怒に激しく歪んでいた。手に持った扇子をパチパチと苛立たしげに鳴らす。

 (誰だ・・・誰が余計な真似をした・・・!?名も知れぬ者に将軍家の世継が救われたなどとあっては、幕府の威信は地に落ちる。延いては、この忠邦の足元に火がつく・・・!)

 忠邦は振り返り、西の丸の深みへ冷酷な視線を向けた。

 (・・・フン、あの出来損ないめ。いっそ斑蝥の毒で死んでくれていれば、早急に新たな世継を立て、騒乱の芽を摘むことができたものを。上様も所詮は人の親か……早々に廃嫡にすればよいものを。・・・まさか刺客どもは、それを見越して?)

 長い廊下を歩きながら、忠邦の思考は家定を救った正体不明の男へと向けられる。

 (白頭巾・・・葵幻之介だと?まさか世に隠れた徳川の落胤か・・・いや、考えすぎか。・・・まあよい。我が改革の弊害となるならば、何者であろうと容赦はせん。一先ず此処は、慶としておくとするか・・・。政の為にもな・・・。)

 不敵で暗い笑みを浮かべると、水野忠邦は江戸城の奥へと消えていった。

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