第九十八話
空から舞い戻ったふたりを待ち受けていたのは、逃げ場のない現実だった。
庵の前、雪を踏みしめて仁王立ちする老師の姿は、ただそこに立っているだけで空気を張り詰めさせている。ナギも腕を組み、珍しく笑みを消していた。ニチカは一歩後ろに立ちながら、状況を測るように静かに目を細めている。
「……降りろ」
低く落ちた一言に、余計な感情はない。
怒りはある。だがそれ以上に、焦りと、確かな危機感が滲んでいた。
ユエリーは何も言わずに地へ降り、ミアをそっと下ろす。その動作はあくまで丁寧で、先ほどまで空を駆けていた存在とは思えないほど静かだった。
「ひとまず、庵の中に入れ。話はそれからだ」
促すというより、命じる声。
「……はぁい」
ミアはしゅんと肩を落とし、小さく返事をする。その様子は年相応に見えるが、指先に残るわずかな震えだけが、先ほどの出来事の余韻を引きずっていた。
ユエリーは事情を知らぬまま、それでも主の後ろに従う。
ナギとニチカも無言で続いた。
庵の中に全員が揃ったのを確認してから、老師はゆっくりと手を掲げる。
床に、淡く光る線が走った。
魔法陣。
幾何学的な紋様が重なり合い、静かに回転を始める。
空気が変わる。
空間そのものが、軋むように歪む。
「……庵の場所を変える」
短く言い切る。
その声には迷いがない。
「ニチカ、帰り道が変わるが構わんな?」
問いかけというより確認。
ニチカは一瞬だけ目を細めたが、すぐに小さく頷いた。
「問題ないよ」
その返答を聞いた瞬間、魔法陣の光が一段、強くなる。
視界が揺らぐ。
足元の感覚が、一瞬だけ失われる。
そして――
次の瞬間には、すべてが変わっていた。
庵の外。
見慣れた雪原はどこにもない。
窓の向こうに広がるのは、深い森だった。
鬱蒼とした木々、湿った土の匂い、重く沈んだ空気。
さっきまでの世界とは、まるで別の場所。
「……ここは?」
ニチカが低く問う。
その声にも、さすがに緊張が混じる。
ナギが肩をすくめて答えた。
「アジトを変えたんだ」
軽く言っているようで、その実、重い判断だ。
「天界人に見つかる前に」
その一言で、すべての意味が繋がる。
ニチカの視線が、わずかに鋭くなる。
ユエリーも、静かに目を細めた。
「天界人……」
その言葉は、ただの名ではない。
この世界において、“上”を名乗る存在。
神の代行者。
翼を背負い、裁きを掲げ、正義を語る者たち。
だがその実態は――
「覇者、だ」
老師が低く言い放つ。
椅子にも座らず、その場に立ったまま。
まるで講義ではなく、警告を告げるように。
「奴らは神の名を借りて、この世界の“正しさ”を決める」
声は抑えられている。
だが、その奥には明確な嫌悪があった。
「何を善とし、何を悪とするか。それを決め、裁く」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「気に入らんものは排除し、従わぬものは矯正する」
そこで一度、間を置く。
視線が、ミアへと向けられる。
「……そして」
ほんのわずかに、声が低くなる。
「“規格外”は、例外なく目をつけられる」
空気が重く沈む。
ミアは何も言わない。
ただ、静かにその言葉を受け止めている。
「今日、お前たちはその領域に踏み込んだ」
老師の視線が、今度はユエリーへと移る。
責めているわけではない。
だが、見逃すこともない。
「龍が主を乗せて空を翔ける。それも結界の端で、堂々とだ」
はっきりと言い切る。
「見られていれば、終わっていたぞ」
その言葉には、誇張がなかった。
ただの事実としての重み。
庵の中に、沈黙が落ちる。
誰も軽口を挟まない。
その沈黙の中で、今いる場所が“隠れ家”であること、そして同時に“追われる側”であることが、否応なく浮き彫りになっていった。




