第九十七話
ごぉ、と空を震わせるような声が届いた。
それは風ではない。遠く地上から、まっすぐに射抜くように放たれた老師の怒声だった。
その響きが、ミアの胸の奥を強く打つ。
(……まずい)
理屈ではなく、感覚で理解する。
ここは、越えてはいけない境界。
「いけない……」
小さく呟いた瞬間、ミアの指に力がこもった。
ぎゅ、とユエリーの鬣を強く引く。
「結界の端だ、ユエリー……引き返して!」
声はかすかに震えていたが、その命令は明確だった。
ユエリーの巨体が、ぴたりと静止する。
風の流れが一瞬だけ途切れ、空そのものが息を潜めたかのように静まり返る。
龍は羽ばたかない。
その身はただ、空を“掴む”。
見えない流れを捉え、支配し、そこに在ることで浮かぶ。
だからこそ、その停止は不自然なほど鋭かった。
「……あるじ?」
低く落ちる声。
問うているのは理由ではない。
異変そのものだ。
ミアの身体は、小さく震えていた。
寒さではない。風でもない。もっと深い、本能に触れる恐れ。
それでも、ミアは手を離さない。
むしろ、そっと撫でるように鬣へと触れる。
落ち着かせるように。
自分自身にも言い聞かせるように。
「……ごめん」
息を吐くような声。
「今、見つかるわけにはいかないの」
その言葉は静かで、しかし重かった。
隠しきれない震えが、指先に残る。
ユエリーはそれを、はっきりと感じ取っていた。
主が恐れている。
それがただ事ではないことも。
ほんの一瞬、空気が張り詰める。
本来ならば、この高さ、この領域は龍のものだ。
誰に咎められる筋合いもない。
だが――背にいるのは主。
その主が退けと言うのならば。
「……承知した」
短く、確かに応じる。
次の瞬間、流れが変わる。
掴んでいた空の“道”を切り替え、進行方向を反転させる。
羽ばたきはない。
ただ、在り方を変えるだけで、白銀の巨体は滑るように軌道を折り返す。
先ほどよりも速く、より低く、地上へと落ちるように帰還していく。
ミアはその背で、ぎゅっと目を閉じた。
心臓の音が大きい。
まだ遠いはずの地上の気配が、やけに近く感じる。
(……だめ、まだ)
何に対してなのか、はっきりとは言えない。
けれど確かに、“今ではない”と拒む何かがある。
「帰ろう」
短く、それだけを言う。
ユエリーは問わない。
ただ主を乗せたまま、空を滑り、白銀の軌跡を引いて、地へと戻っていった。
青く澄んだ空は、何も変わらない。
けれどその奥に、確かに“何かが在る”ことだけが、静かに、残っていた。




