第九十五話
龍の背の上は、地上とはまるで別の世界だった。
冬の空にいるはずなのに、刺すような冷たさはどこにもない。頬を撫でる空気は澄んでいるのに柔らかく、息を吸えば胸の奥まで透き通るように満たされていく。
視界の端を流れていくのは、圧倒的な速さの景色。
山々も、森も、雪原も、すべてが帯のようにほどけていく。
それなのに――風に押し潰されるような圧はない。
身体が引き剥がされるような恐怖もない。
ただ、流れている。
風と、自分が同じものになったかのように。
ミアはユエリーの鬣をきゅっと握りしめた。
小さな手には少し余るほどのしなやかな感触。
それに縋るようにしながらも、身体は不思議と安定している。
落ちる気が、まるでしなかった。
「主よ」
低く、よく通る声が、風の中に混ざって届く。
耳元で囁かれているかのように鮮明に。
「どうだ? 怖くはないか」
ユエリーの声だった。
気遣うようでいて、その奥にはわずかな期待が滲んでいる。
自分の世界を、主はどう感じているのか。
それを確かめるように。
ミアは一瞬だけ目を細め、広がる空を見渡した。
どこまでも続く青。
その中を、ただ一頭の龍とともに進んでいる。
(……たしかに)
心臓が、少しだけ早く打っている。
高い場所。
足場のない世界。
落ちたらどうなるかなんて、考えなくても分かる。
怖くないわけではない。
でも――
「うん」
素直に頷いて、
「怖い」
と、一度だけ認める。
そのあと、すぐに口元が緩む。
「でも、それ以上に楽しい」
風に声を乗せる。
弾むように。
「なんだか、ジェットコースターみたい」
その言葉は、この世界には存在しない概念だったが、不思議と、響きだけで“楽しさ”は伝わる。
ユエリーは一瞬、言葉の意味を測るように沈黙し――
次の瞬間、ほんのわずかに高度を上げた。
ぐん、と視界が開ける。
雲の層が近づき、光がより強くなる。
それでも、決して無茶はしない。
主の言葉を確かめるように、慎重に。
「……そうか」
低く、満足げな響き。
「それは何よりだ」
その声音には、確かな安堵と――ほんの少しの誇らしさが混じっていた。
自分の背で、主が笑っている。それだけで、十分だった。
ミアはさらに鬣に顔を寄せる。
風の中でも消えない、かすかな香り。
花のような、どこか懐かしい匂い。
それを感じながら、流れていく空を、ただ見つめた。
怖さは、消えない。
けれどそれ以上に、この瞬間が楽しくて仕方なかった。
空は、どこまでも続いている。
そしてその中を、確かな存在とともに、進んでいる。




