第九十三話
新しい年の朝は、静けさの中からゆっくりと立ち上がっていった。
夜の名残をほんのわずかに残した空気は冷たく澄み、庵の中には、薪の燃える匂いと、炊き立ての米のやわらかな香りが混ざり合っている。外は一面の雪景色で、音という音が吸い込まれたように、世界はひどく穏やかだった。
ミアは小さな足取りで神棚の前に立ち、手を合わせる。
背筋を伸ばし、目を閉じるその姿は、年齢にはそぐわぬほど落ち着いていて、どこか儀式めいた静謐さを帯びていた。
誰に教えられたわけでもない所作。
けれど、それが自然にできてしまうのが、彼女という存在だった。
ぱちん、と小さく柏手が鳴る。
それを合図にしたかのように、庵の中の空気が少しだけ緩んだ。
「よし、飯にすっか」
老師の一言で、朝の支度が一気に“日常”へと戻る。
卓に並べられたのは、縁起を担いだお節料理の数々。
黒豆の艶やかな光沢、伊達巻のやさしい甘みの色合い、紅白のかまぼこが整然と並ぶ様子は、それだけで“新しい年”を感じさせる。
そこに、湯気を立てるシンプルな雑煮。
透き通った出汁の香りが、鼻腔をくすぐる。
御神酒が小さな器に注がれ、それぞれの前に置かれる。
そして――
「ほら、並べ」
老師のぶっきらぼうな指示で、簡単な記念撮影。
ナギが魔道具を構え、ぱしゃり、と音が鳴る。
ほんの一瞬の光の中に、今この瞬間が閉じ込められる。
そのあとで、ようやく“それ”が配られた。
お年玉。
「……ほら」
どこか不機嫌そうに、しかし律儀に。
老師が一人ひとりに手渡していく。
その顔があまりにも渋いものだから、
ミアは思わず、くすっと笑ってしまった。
「なに笑ってんだ」
「だって、お師匠さまの顔が」
言いかけて、また笑う。
ナギも肩を震わせている。
ニチカも、受け取った袋を見つめながら、
「……なんか、ありがたみがすごいね」
と真顔で言った。
「ありがたがれ」
即答だった。
そのやり取りの中で、ふとニチカが口を開く。
「来年は僕も渡す側になろうっと」
さらりとした言い方。
だが、その言葉には妙な現実味があった。
この少年は、本当にやりかねない。
「おうおう」
老師が鼻で笑う。
「ガキのくせしてたらふく稼いでんだから、是非ともそうしてくれ」
半分は呆れ、半分は期待。
そんな声音。
「うんうん」
ナギが横から口を挟む。
「そこのニート使い魔より優秀でしょ?」
にやり、と意地の悪い笑み。
ぴくり、と空気が動いた。
ユエリーの眉間に、わずかな皺。
「……ほう」
低い声。
だが完全に怒るわけでもなく、あくまで抑えている。
その“抑え”が逆に怖い。
ニチカはそれを横目で見ながら、あえて何も言わない。さっきの意趣返しが、じわりと効いているのを感じているからだ。
「お前さ」
ナギが笑いながら続ける。
「あんな年越ししといて、よく来年も来るとか言うよな」
昨夜の地獄絵図を思い出しているのだろう。
ニチカは肩をすくめた。
「え?」
わざとらしく首を傾げる。
「僕抜きで年越ししようなんて、させないよ」
さらりとした独占宣言。しかも悪びれもなく。
「クリスマスも来るからね?」
追撃。
まったく遠慮がない。
その様子に、ミアはくすくすと笑う。
「楽しみだね」
純粋にそう言う。
誰かを選ぶわけでもなく、拒むわけでもなく、ただそこに“みんなでいる未来”を当たり前のように置く。
その無邪気さが、いちばん厄介だった。
その背後で――ユエリーだけが、静かに不服そうな顔をしていた。
先ほどの「ニート使い魔」という一言。
それが尾を引いているのか、あるいは別の感情か。
表情は崩さないが、わずかに視線が細くなる。
それを、ニチカは見逃さない。
何も言わない。
ただ、少しだけ口元を緩める。
新しい年の朝。
穏やかな光の中で、静かに火花が散っている。
それでも――卓を囲む空気は、どこか温かかった。




