表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星眼の魔女 第二部  作者: しろ
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/42

第九話

境界市場は、音で満ちているのに、どこかひどく静かだった。


呼び声、笑い声、値を釣り上げる舌の熱、怒号、契約の成立を告げる乾いた音。それらすべてが重なり合っているはずなのに、不思議と耳に残らない。ただ、空間そのものがざわめいているような、そんな奇妙な感覚だけがあった。ここでは言葉は意味を持つ前に“価値”へと変換され、価値は即座に取引の対象へと落ちていく。誰もが何かを差し出し、何かを得る。その循環の中で、感情は削ぎ落とされ、残るのは選択と対価だけだった。


ミアは、その市場を静かに歩いていた。


白いフードの奥、星眼は絶えず揺れている。見ているのは商品ではない。並べられた記憶の結晶や、封じられた魔術や、壊れた未来の断片ではなく、それらの“行き先”だった。どの世界に渡り、どこで消え、どのような因果を生むのか。市場に並ぶすべてのものが、すでに流れの途中にあることを、彼女は理解している。


ナギはその隣で、わずかに周囲を警戒していた。人の形をしていても、人ではないものが多すぎる。視線の質が違う。値踏みする視線、奪うための視線、測るための視線。ここでは幼子であろうと関係ない。価値があれば、それは交渉の対象になる。


「長居はするな」


低く、短く告げる。


ミアは頷きもせず、ただ歩みを止めない。


必要だから来ている。それだけで十分だった。


そのとき、場の空気がほんのわずかに歪んだ。


騒がしさが消えたわけではない。だが、流れが変わる。水面に小石が落ちたように、見えない波紋が広がる。それは強制ではなく、自然な引力に近い。誰かが何かをしたわけではないのに、視線がそちらへと流れていく。


ナギは反射的にそちらを見る。


ミアもまた、同時に顔を上げた。


そこに、少年がいた。


褐色の肌は光を吸い込み、余計な陰影を持たない。均整の取れた顔立ちは作為を疑うほど整っていて、幼さと完成が奇妙に同居している。長く流れる銀色の髪は腰のあたりまで届き、動きに合わせて静かに揺れていた。瞳はアメジスト――ただ紫というだけではない、深度を持った色。光を受けて輝くのではなく、内側から淡く発光しているような、不思議な色合いだった。


立っているだけで、周囲の“価値”が変わる。


それが、ナギにはわかった。


商品が並んでいるのではない。あの少年が中心にいて、その周囲に価値が配置されている。まるで市場そのものが、彼を軸に再構成されているかのような錯覚。


 (……何者だ)


無意識に、ナギの身体がミアの前に半歩出る。


だがミアは、その動きを制した。


「いい」


小さな声だった。


だが、確信があった。


その間に、少年はもうこちらを見ていた。


最初から見ていたのかもしれない。あるいは、たった今気づいたのかもしれない。その判別がつかないほど自然な視線。だが、はっきりと“捉えている”。


彼の中で、何かが止まった。


視界に入るものすべてが、これまでと同じように“測れる”はずだった。価値があり、値がつき、流通する。それが世界だと教えられてきたし、実際そうだった。目の前の物も、人物も、現象も、例外なく分類できる。


だが――


(……なんだ、これ)


白いフードの奥、ほんの一瞬だけ見えた瞳。


藍の中に、金。


それを見た瞬間、思考が途切れた。


価値が、定義できない。


測れない。比較できない。交換の対象として捉えられない。


それは、商人として致命的な“未知”だった。


同時に――


逃せない、という直感が走る。


理由はない。利益も読めない。だが、確信だけがある。


(ここで関わらなきゃ、終わる)


何が終わるのかもわからない。だが、取り返しがつかないことになる。そんな予感が、言葉になる前に身体を動かしていた。


少年――草薙ニチカは、迷いなく歩き出す。


周囲のざわめきが、自然と道を開ける。彼が命じたわけではない。ただ、その存在の重さがそうさせる。


ナギはその動きを見て、わずかに眉を寄せた。


近づいてくる。止まらない。躊躇がない。


普通の子供ではない。商人としての教育を受けているどころの話ではない。“場を読む”のではなく、“場を作る”側の人間だ。


そして何より――


視線が、まっすぐミアに向いている。


値踏みではない。


選別でもない。


もっと個人的な、剥き出しの興味。


ニチカは二人の前で止まった。


距離は近すぎず、遠すぎず。相手に圧をかけず、しかし逃げ場も与えない絶妙な位置。


そして、笑った。


それは作られた営業用の笑みではない。だが無邪気でもない。相手に合わせて形を変える柔らかさと、どこにも依存しない独立した意思が同居している。


「はじめまして」


声は澄んでいて、よく通る。だが押し付けがましくない。言葉そのものが、相手の耳に“適切な形”で届くよう調整されているような感覚があった。


ナギは何も答えない。ただ視線だけで返す。


ミアは、ほんの少し首を傾げた。


ニチカは続ける。


「君、面白いね」


軽い言葉だった。だがそこに軽さはない。


“面白い”――それは彼にとって、価値の最高位に近い言葉だった。利益でも希少でもない、もっと根源的な評価。


ミアは、少しだけ考えるように沈黙したあと、静かに答えた。


「そう?」


それだけ。


飾りも、警戒もない。


ただ事実として返す。


その瞬間、ニチカの中で何かが決定的に変わった。


胸が高鳴るわけではない。息が詰まるわけでもない。だが、視界が狭まる。世界の解像度が、彼女の周囲だけ異様に高くなる。


(ああ)


理解する。


これは損得ではない。計算でもない。

逃げられない種類のものだ。


(やばいな、これ)


心の中で、妙に冷静な声が呟く。

同時に、もう一つの声が重なる。


(でも、いい)


理由はいらない。


価値も測れなくていい。


ただ、この存在に関わるという選択だけが、すべてを上書きしていく。


ナギは、その変化を見逃さなかった。


少年の目が変わった。


商人の目ではない。計算する目でもない。


何かを“決めた”目だ。


警戒が強まる。


だがミアは、変わらない。

ただ静かに、ニチカを見ている。

その瞳は相変わらず深く、どこまでも遠い。


ニチカは、その視線を真正面から受け止めながら、ふっと笑った。


「名前、聞いてもいい?」


それは取引ではなかった。


ただの問い。


だが、その背後には、すでに決意がある。


関わる。離れない。この存在を見届ける。


そういう種類の、静かな誓い。


境界市場の喧騒は変わらず続いている。だがその一角だけ、ほんのわずかに質を変えていた。


世界を運ぼうとする者と、世界を売買する一族の後継。


その交点が、いま生まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ