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星眼の魔女 第二部  作者: しろ
第一章

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第十話

最初は、名前を知りたいと思っただけだった。


それだけのはずだったのに、ニチカの中では、あの瞬間から何かが静かにズレ続けていた。


境界市場から戻ったあとも、彼の視界には絶えず白いフードがちらついた。帳簿をめくる指が一瞬止まり、商談の最中にふと意識が逸れる。商品を前にしても、値を測ろうとした瞬間に別の思考が割り込んでくる。


――あの瞳。


藍の奥に沈んだ金。測れないもの。分類できないもの。


それは、彼がこれまで積み上げてきた“商人としての世界”の外側にあった。


草薙の一族にとって、未知は排除すべきものではない。むしろ、価値へと変換すべき対象だ。わからないものは調べ、分類し、相場をつけ、流通させる。それができないものは“まだ未完成な情報”に過ぎない。


だがミアだけは違った。


調べようとすればするほど、輪郭がぼやける。情報が増えるほど、実体が遠のく。追えば追うほど、“理解しているはずの枠組み”のほうが揺らぎ始める。


ニチカはそれを、初めて経験した。


不快ではなかった。


むしろ、心地よかった。


世界が固定されていないという感覚。自分の立っている足場が絶対ではないという実感。


それは恐怖ではなく、解放に近い。


だから最初のそれは、確かに“好奇心”だった。


少しだけ気になる。もう一度見てみたい。あれが何なのか、知りたい。


それだけの、軽いもの。


けれど、ニチカはそれを放置しなかった。


自分が何かに引っかかったとき、それを見過ごすことはしない。小さな違和感こそ、価値の入口であることを知っているからだ。


彼は調べ始めた。


白いフードの少女。星眼。ナギという兄。時神殿との関係。


だが情報は、断片的にしか出てこない。


誰もが口を濁す。見たと言う者はいるが、語ろうとしない。記録は存在するはずなのに、決定的な部分だけが抜け落ちている。


まるで“意図的に忘れられている存在”。


その不自然さに、ニチカは逆に確信を深めていった。(やっぱり、ただの子供じゃない)


そう思うほどに、興味は強くなる。


そして二度目に会ったとき、彼の中でそれは一段階変わった。


境界市場ではなかった。


もっと静かな場所。世界と世界の隙間に近い、薄い空間。


ミアは一人で立っていた。


ナギはいない。


白いフードが風もないのにわずかに揺れている。


彼女は、何かを見ていた。


目の前には何もない。だが星眼は確かに“何か”を捉えている。


ニチカは声をかけるつもりで近づいた。


だが、途中で足が止まった。


彼女の表情が、見えたからだ。無表情に近い。だが、完全な無ではない。


そこには――


取り残されたものを見る目があった。


救うでもなく、見捨てるでもない。ただ、“そこにある終わり”を受け入れている目。


ニチカは、その意味を理解してしまった。


彼女は、見ている。


世界の終わりを。そして、それを“どうするか”を決めている。


その瞬間、好奇心は崩れた。


代わりに生まれたのは、もっと具体的なものだった。(……この子は、放っておけない)


理由は、やはりなかった。


ただ、そう思った。


彼女は強い。誰よりも強い。


けれど――


誰も一緒にいない場所に立っている。それがわかってしまった。


その理解は、ニチカの中で静かに形を変えていく。


知りたい、から。


関わりたい、へ。


そして――関わっていないといけない、へ。


彼はそれを恋だとはまだ思っていない。

だが、すでに“選択”は終わっていた。


それからのニチカは、意識的にミアの行動に関わるようになる。


直接手を貸すこともあれば、間接的に道を整えることもある。


情報を流す。物資を融通する。時には、彼女が望むより一歩先まで準備しておく。


すべては“取引”の形を取る。


対価を求める。契約を結ぶ。帳簿に記録する。


草薙商会としてのやり方を、崩さない。


だがその実態は、明らかに偏っていた。


利益にならない案件でも引き受ける。リスクが高すぎる取引でも成立させる。本来なら切り捨てるべき条件を飲む。


周囲の大人たちは気づき始める。


「あれはおかしい」と。


だがニチカ本人は、極めて冷静だった。


損をしているという自覚もある。非合理だという理解もある。


それでもやめない。やめる理由がないからだ。


ある日、ふと自分に問いかけたことがある。

――これは何だ?


商人としての判断ではない。血としての本能でもない。


では何か。


答えは、すぐに出た。

(……ああ)

驚くほどあっさりと。

(これ、好きなんだな)

言葉にすると、あまりにも単純だった。


だが、その単純さの中にすべてが収まっていた。


理由はいらない。価値もいらない。見返りもいらない。


ただ、その存在に関わり続けたい。


それだけで成立してしまう感情。


それが、自分の中にある。

ニチカはそれを否定しなかった。むしろ、受け入れた。商人としてではなく、個人として。


ただし――


彼は草薙の血を捨てることはしない。

好きだから無償で与える、という発想にはならない。


むしろ逆だった。

(ちゃんと取引する)


関係を曖昧にしないために。対等でいるために。


対価を要求し、対価を支払う。


その枠組みの中に、彼女を置く。


そうしなければ、この関係は壊れると、本能的に理解していた。


だからニチカの片想いは、歪んでいく。


献身ではない。独占でもない。執着ですら、少し違う。


それは――


「世界をまたいでも成立する関係」を作ろうとする意志だった。


ミアがどこへ行こうと、どの世界を選ぼうと、どんな未来を作ろうと。


その外側からでもいい。横からでもいい。


必ず接点を持つ。


そのための手段を、整え続ける。

それが彼の選んだ“好き”の形だった。


そしていつしか、彼は気づく。

ミアが見ているもの。

作ろうとしているもの。


それがどれほど途方もないものかを。

普通なら、そこで引く。

関わるべきではないと判断する。


だがニチカは違った。


むしろ、そこで初めて笑った。


心から、楽しそうに。

(ああ、そっち行くんだ)

ならば。

(僕は、そっちでも商売するよ)


それは宣言でも誓いでもない。

ただの事実としての決定。


彼の片想いは、そこでさらに形を変える。


ただ想うだけのものから――

同じ地平に立とうとするものへ。


白き魔女が世界を運ぶなら、自分はその流通を担う。


彼女が選ぶなら、自分はその選択に値段をつける。


どこまでも現実的に。どこまでも離れずに。


それが、草薙ニチカの恋だった。

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