第十話
最初は、名前を知りたいと思っただけだった。
それだけのはずだったのに、ニチカの中では、あの瞬間から何かが静かにズレ続けていた。
境界市場から戻ったあとも、彼の視界には絶えず白いフードがちらついた。帳簿をめくる指が一瞬止まり、商談の最中にふと意識が逸れる。商品を前にしても、値を測ろうとした瞬間に別の思考が割り込んでくる。
――あの瞳。
藍の奥に沈んだ金。測れないもの。分類できないもの。
それは、彼がこれまで積み上げてきた“商人としての世界”の外側にあった。
草薙の一族にとって、未知は排除すべきものではない。むしろ、価値へと変換すべき対象だ。わからないものは調べ、分類し、相場をつけ、流通させる。それができないものは“まだ未完成な情報”に過ぎない。
だがミアだけは違った。
調べようとすればするほど、輪郭がぼやける。情報が増えるほど、実体が遠のく。追えば追うほど、“理解しているはずの枠組み”のほうが揺らぎ始める。
ニチカはそれを、初めて経験した。
不快ではなかった。
むしろ、心地よかった。
世界が固定されていないという感覚。自分の立っている足場が絶対ではないという実感。
それは恐怖ではなく、解放に近い。
だから最初のそれは、確かに“好奇心”だった。
少しだけ気になる。もう一度見てみたい。あれが何なのか、知りたい。
それだけの、軽いもの。
けれど、ニチカはそれを放置しなかった。
自分が何かに引っかかったとき、それを見過ごすことはしない。小さな違和感こそ、価値の入口であることを知っているからだ。
彼は調べ始めた。
白いフードの少女。星眼。ナギという兄。時神殿との関係。
だが情報は、断片的にしか出てこない。
誰もが口を濁す。見たと言う者はいるが、語ろうとしない。記録は存在するはずなのに、決定的な部分だけが抜け落ちている。
まるで“意図的に忘れられている存在”。
その不自然さに、ニチカは逆に確信を深めていった。(やっぱり、ただの子供じゃない)
そう思うほどに、興味は強くなる。
そして二度目に会ったとき、彼の中でそれは一段階変わった。
境界市場ではなかった。
もっと静かな場所。世界と世界の隙間に近い、薄い空間。
ミアは一人で立っていた。
ナギはいない。
白いフードが風もないのにわずかに揺れている。
彼女は、何かを見ていた。
目の前には何もない。だが星眼は確かに“何か”を捉えている。
ニチカは声をかけるつもりで近づいた。
だが、途中で足が止まった。
彼女の表情が、見えたからだ。無表情に近い。だが、完全な無ではない。
そこには――
取り残されたものを見る目があった。
救うでもなく、見捨てるでもない。ただ、“そこにある終わり”を受け入れている目。
ニチカは、その意味を理解してしまった。
彼女は、見ている。
世界の終わりを。そして、それを“どうするか”を決めている。
その瞬間、好奇心は崩れた。
代わりに生まれたのは、もっと具体的なものだった。(……この子は、放っておけない)
理由は、やはりなかった。
ただ、そう思った。
彼女は強い。誰よりも強い。
けれど――
誰も一緒にいない場所に立っている。それがわかってしまった。
その理解は、ニチカの中で静かに形を変えていく。
知りたい、から。
関わりたい、へ。
そして――関わっていないといけない、へ。
彼はそれを恋だとはまだ思っていない。
だが、すでに“選択”は終わっていた。
それからのニチカは、意識的にミアの行動に関わるようになる。
直接手を貸すこともあれば、間接的に道を整えることもある。
情報を流す。物資を融通する。時には、彼女が望むより一歩先まで準備しておく。
すべては“取引”の形を取る。
対価を求める。契約を結ぶ。帳簿に記録する。
草薙商会としてのやり方を、崩さない。
だがその実態は、明らかに偏っていた。
利益にならない案件でも引き受ける。リスクが高すぎる取引でも成立させる。本来なら切り捨てるべき条件を飲む。
周囲の大人たちは気づき始める。
「あれはおかしい」と。
だがニチカ本人は、極めて冷静だった。
損をしているという自覚もある。非合理だという理解もある。
それでもやめない。やめる理由がないからだ。
ある日、ふと自分に問いかけたことがある。
――これは何だ?
商人としての判断ではない。血としての本能でもない。
では何か。
答えは、すぐに出た。
(……ああ)
驚くほどあっさりと。
(これ、好きなんだな)
言葉にすると、あまりにも単純だった。
だが、その単純さの中にすべてが収まっていた。
理由はいらない。価値もいらない。見返りもいらない。
ただ、その存在に関わり続けたい。
それだけで成立してしまう感情。
それが、自分の中にある。
ニチカはそれを否定しなかった。むしろ、受け入れた。商人としてではなく、個人として。
ただし――
彼は草薙の血を捨てることはしない。
好きだから無償で与える、という発想にはならない。
むしろ逆だった。
(ちゃんと取引する)
関係を曖昧にしないために。対等でいるために。
対価を要求し、対価を支払う。
その枠組みの中に、彼女を置く。
そうしなければ、この関係は壊れると、本能的に理解していた。
だからニチカの片想いは、歪んでいく。
献身ではない。独占でもない。執着ですら、少し違う。
それは――
「世界をまたいでも成立する関係」を作ろうとする意志だった。
ミアがどこへ行こうと、どの世界を選ぼうと、どんな未来を作ろうと。
その外側からでもいい。横からでもいい。
必ず接点を持つ。
そのための手段を、整え続ける。
それが彼の選んだ“好き”の形だった。
そしていつしか、彼は気づく。
ミアが見ているもの。
作ろうとしているもの。
それがどれほど途方もないものかを。
普通なら、そこで引く。
関わるべきではないと判断する。
だがニチカは違った。
むしろ、そこで初めて笑った。
心から、楽しそうに。
(ああ、そっち行くんだ)
ならば。
(僕は、そっちでも商売するよ)
それは宣言でも誓いでもない。
ただの事実としての決定。
彼の片想いは、そこでさらに形を変える。
ただ想うだけのものから――
同じ地平に立とうとするものへ。
白き魔女が世界を運ぶなら、自分はその流通を担う。
彼女が選ぶなら、自分はその選択に値段をつける。
どこまでも現実的に。どこまでも離れずに。
それが、草薙ニチカの恋だった。




