第八十七話
「もののふを手にし、龍を手懐けたか」
お正月様の声は、先ほどよりもわずかに低く、深く響いた。
ただの言葉ではない。
これまでの歩みを一瞬で見通し、その価値と危うさを同時に測るような――そんな重みを帯びている。
ミアは顔を上げ、その藍の瞳をまっすぐに見返した。
逃げもせず、逸らしもせず。
「だがまだ早い」
静かに告げられる。
否定ではない。制止でもない。
ただ、“今”という時点の正確な位置を示す声。
「健やかにあるのだぞ、ミア」
その言葉だけが、少しだけ柔らかかった。
守るように、願うように。
「儂は新年を寿ぎにいく、ではまたな」
それだけ言って、お正月様は体躯を翻す。
真珠の毛並みが一瞬、光を弾いたかと思えば――
来た時と同じように、音もなく、気配ごと消えた。
残されたのは、わずかに揺れる空気と、まだ身体に残る圧だけ。
そして――
「……はぁ……」
誰からともなく、息が漏れた。
張り詰めていた糸が、一斉に緩む。
ナギはその場にどさりと腰を落とし、
「はあ、今年も終わったか」
と、しみじみ呟いた。
始まったばかりの新年を、すでに“終わったもの”として扱うその感覚。
誰も否定しない。
むしろ、よく分かる。
ミアがくすりと笑った。
「歳とるって大変だよね」
軽い調子で言いながら、すでに手は動いている。
棚から取り出した瓶。
とくり、とくりと、小さな器に注がれる透明な液体。
御神酒。
ほのかに甘く、そしてどこか鋭い香りが立ち上る。
「はい、どうぞ」
まずはナギに。次に老師へ。
そして――ニチカとユエリーにも、同じように差し出される。
「飲んで。神威酔いにはこれが効く」
あまりにもさらりとした説明。
だがその通りなのだろう。
身体に残る重さが、まだ完全には抜けきっていない。
ニチカは器を受け取り、少しだけためらってから口をつける。
ふっと、息が抜けた。
「……ほんとだ」
驚いたように呟く。
重く沈んでいた感覚が、すっと軽くなる。
ユエリーも同じようにそれを飲み干し、わずかに目を細めた。
「効くな」
短く評価する。
老師はすでに一口で飲み切り、
「毎年これがないとやってられん」
と肩を回した。
ようやく、場の空気が“人のもの”に戻ってくる。
火の音、雪の気配、小さな笑い声。
すべてが、ゆっくりと日常へと帰っていく。
その中心で、ミアはもう一度、にこりと笑った。
新しい年。
また始まる時間。
けれど今はまだ、この小さな庵の中で、穏やかな余韻に浸るひとときが続いていた。




