第八十六話
パチ、パチ、パチ――
静寂を破るように、けれどどこか祝福めいた響きで、拍手が天井から降り注いだ。
誰も、すぐには動けなかった。
その音はただの音ではない。
空間そのものが震え、時間の流れさえ一瞬、揺らいだかのような感覚。
「よき歌だったよ、腕を上げたかの、ミアよ」
声が、降りてくる。
次の瞬間――
ふわりと、光が形を成した。
天井も、屋根も、何もかもを無視するようにして現れたのは、一頭の獣。
柔らかく波打つ毛並みは真珠のように淡く光を帯び、その体躯はふかふかとした温もりを感じさせながらも、同時に近寄りがたい神々しさを放っている。
藍の瞳。
その奥に、星が瞬いていた。
ただ“そこにいる”だけで、場のすべてを塗り替えてしまう存在。
――お正月様。
今年もまた、訪れた。
「明けましておめでとうございます」
ミアは迷いなく駆け寄り、その毛並みに顔を埋める。
ためらいも、畏れもない。
まるで帰る場所に触れるように。
その姿はどこか似ていた。
存在の在り方が、あまりにも近い。
血ではなく、もっと深いところで繋がっているような――そんな気配。
溢れる神威が、庵の中を満たしていく。
呼吸が重くなる。
立っていることすら難しい。
ニチカは思わず視線を落とした。
顔を上げることができない。
(……これが、時神)
理解ではなく、本能が告げている。
抗えないもの。
触れてはならない領域。
ユエリーでさえ、同じだった。
初めて相対する存在。
龍としての誇りも、王としての矜持も、その前では意味をなさない。
自然と、頭が垂れる。
抗うという選択肢が、そもそも存在しない。
ナギもまた、無言でその場に膝をついた。
そして――老師。
静かに、しかし迷いなく、その場に膝を着く。
「ふむ」
お正月様は、ミアの頭を軽く鼻先で押しながら、
「誕生日おめでとう、五歳か」
と穏やかに言った。
その声音には、時間そのものを見守ってきた者の重みがある。
「よう育てたな、司郎」
視線が、老師へと向けられる。
その一言に込められた意味は、あまりにも大きい。
老師は深く頭を下げたまま、
「勿体なきお言葉」
とだけ答えた。
それ以上は何も言わない。
言えるはずもない。
その場に満ちるのは、ただ圧倒的な“格”。
人も、龍も、機械すらも。
すべてが等しく、その前では小さな存在に過ぎない。
だが――その中心で、ミアだけは変わらない。
顔を埋めたまま、くすぐったそうに笑っている。
その無垢さを、咎める者は誰もいない。
むしろそれこそが、この存在に触れることを許された、ただ一つの証のようだった。
新しい年が、静かに始まっていた。




