第八十五話
この世界に紅白歌合戦はない。
年の瀬の夜、火を囲んで過ごす静かな時間はあるが、賑やかな舞台も競い合う歌も存在しない。だからこそ――余暇を持て余すなら、自分で満たすしかない。
「じゃあ、歌おうか」
どこかの国の王妃が遺した言葉をなぞるように、ミアは当たり前のように竪琴を手に取った。
その仕草はもう、誰も止めない。
止める理由がないからだ。
ポロロン、と。
静かな音が、年越し前の空気に溶ける。
囲炉裏の火が小さく揺れ、外の雪は音もなく降り続ける。庵の中だけが、切り取られたように温かく、そして穏やかだった。
♪しろい雪が 音をほどいて
♪古い夜を そっと包む
♪今日まで呼んだ たくさんの名が
♪囲炉裏の火に あたたまる
♪笑った日も 泣いた日も
♪置いてゆくものではなく
♪この胸に灯る 小さな星
♪明日の道を 照らすもの
♪ゆく年よ ありがとう
♪あなたにもらった すべてを抱いて
♪戸口にひとつ 灯を置こう
♪迷わずここへ 帰れるように
♪くる年よ おかえり
♪まだ見ぬ朝を 連れて
♪急がなくても かまわないから
♪火のそばへ そっとおいで
♪窓に咲いた 白い吐息
♪眠る山へ 星が降る
♪隣で笑う その声だけで
♪新しい暦が ひらいてゆく
♪遠くなった あの人の声も
♪もう触れられない ぬくもりも
♪名前を呼べば 胸へと還り
♪今を生きる 灯りになる
♪ゆく年よ ありがとう
♪出会いも別れも 連れてゆくから
♪流した涙も いつかはきっと
♪帰る道を照らす 星になる
♪くる年よ おかえり
♪生まれたばかりの 光
♪名を呼び合う この家の中へ
♪新しい朝を 連れておいで
♪この手は 小さくても
♪隣の手なら 握れる
♪ひとつの火を 分け合えば
♪長い夜も 朝へほどける
♪すべてを救う 翼はなくても
♪一緒に歩く 道は選べる
♪だから今夜は ここにいることを
♪ただ ありがとうと歌おう
♪ゆく年よ ありがとう
♪喜びも痛みも わたしの道
♪ひとつも捨てず 抱いてゆくよ
♪今日まで生きた 証として
♪くる年よ おかえり
♪まだ何も書かれていない朝
♪囲炉裏の火を 絶やさないまま
♪わたしたちは あなたを待とう
♪雪の向こう 時の向こう
♪新しい朝が 息をする
♪今年最後の ありがとうを
♪みんなの声で 歌いながら
♪ゆく年よ ありがとう
♪くる年よ おかえり
ミアの声は、いつもより少しだけ低く、そして柔らかい。
子供の声でありながら、どこか遠い記憶をなぞるような響き。
知らないはずの旋律なのに、どこか懐かしい。
忘れていた何かを、そっと撫で起こされるような感覚。
ナギは腕を組んだまま目を閉じ、老師は酒器を傾けながら静かに耳を傾ける。
ニチカはというと、さっきまでの拗ねた空気はすっかり消えて、ただじっとミアを見つめていた。
その横顔には、どこか言葉にならないものが浮かんでいる。
そしてユエリーは――何も言わない。
ただ、そこに在る。
ミアのすぐそばで、逃さないように、その存在ごと抱きしめるように。
歌は続く。
夜をほどくように、時間を溶かすように。
誰かに聞かせるためではなく、ただそこにあるための歌。
それでも確かに、全員の中に残っていく。
やがて音は、静かに消えていく。
最後の一音が空気に溶け、
余韻だけが残る。
誰もすぐには口を開かない。
その沈黙すら、心地いい。
外では、夜がさらに深まっている。
年が変わるまで、あとわずか。
けれどその前に――忘れ去られた旋律を思い出すような、このひとときが、確かにそこにあった。
静かに、確かに、夜は更けていく。




