第八十二話
年の瀬の空気は、どこか張り詰めていて、それでいて浮き足立っている。
庵の周囲はすっかり雪に覆われ、吐く息は白く、外気はきりりと冷たい。だがその内側では、朝から続いた大掃除もようやく終わり、正月の支度が隙なく整えられていた。
干した布は取り込まれ、磨き上げられた床は光を反射し、囲炉裏には新しい薪が整然と組まれている。忙しさの余韻がまだ残る中――
遠くから、車輪の軋む音が聞こえた。
やがて姿を現す、荷馬車。
雪を踏みしめる音とともに、ゆっくりと庵の前へと止まる。
その瞬間、空気がわずかに変わった。
「おかえり、ニチカ」
ミアが、ぱっと顔をほころばせる。
白い猫耳ポンチョをふわりと揺らしながら、一歩前に出るその姿は、冬の景色に溶け込みながらもひときわ愛らしい。
傍らにはナギ。
そして――明らかに機嫌の悪いユエリー。
視線はすでに一点に向けられている。
荷馬車から降り立ったニチカは、雪の中でも乱れのない姿で、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その佇まいは、以前よりさらに洗練されている。
背は伸び、纏う空気はどこか静かで鋭い。
それでも――ミアを見た瞬間だけは、やわらかくほどけた。
「ただいま、僕のお姫様」
自然に零れる言葉。
そのまま、流れるように手を取り、優雅に、手の甲へと唇を――落とそうとした、その直前。
「――触れるな」
すっと、割り込む影。
ユエリーの手が、その動きを完全に遮った。
まるで最初からそこにいたかのような自然さで。
奪うように、ミアの手を自分の側へ引き寄せる。
ほんの一瞬、空気が張り詰めた。
ニチカはそのままの姿勢で止まり、ゆっくりと視線を上げる。
「……ちょっと使い魔さん」
柔らかな笑みはそのままに、声だけがわずかに温度を下げる。
「子供同士の戯れ合いに、なんか本気になってない?」
軽い調子。だが、明確な挑発。ユエリーは一切揺らがない。
「当たり前だ」
即答。そして、
「穢すな」
短く、冷たく言い切る。
空気が、ぴしりと鳴る。ナギが横で顔をしかめた。
「うわ、始まった」
完全にいつものやつである。
ニチカは一瞬だけ目を細めたが、すぐにまた微笑みに戻る。
「へぇ」
わずかに首を傾げる。
「随分と過保護なんだね」
言葉は穏やかだが、その奥には明確な対抗心がある。
ユエリーの瞳がわずかに細まる。
「当然だ」
揺るがない。
「主は守るものだ」
“主”という言葉を、あえて強調する。
ニチカの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……なるほど」
静かに受け止める。
だが引かない。
「でもさ、それって君の都合でしょ?」
一歩、踏み込む。
「ミアはどう思ってるの?」
話を振られて、ミアはきょとんとした。
視線が行き来する。
ニチカとユエリー。
火花を散らす二人の間で、しばし考え――
「えっと」
少し困ったように笑う。
「寒いから、とりあえず中入ろ?」
見事な回避である。
ナギが吹き出した。
「それが一番だな」
老師も奥から声を飛ばす。
「外でやるな、寒い」
完全に日常の一コマに引き戻された。
だが、ユエリーはミアの手を離さない。
ニチカもまた、その様子をじっと見ている。
視線だけが、静かにぶつかり続ける。
雪は降り続けている。
だがその場の空気は、妙に熱を帯びていた。
年の瀬。
大晦日。
静かに終わるはずの一年の最後の日は、どうやら穏やかには済まなさそうだった。




