第七十九話
夜が、いよいよ深まっていく。
火は穏やかに揺れ、灯りはやわらかく空間を包み、笑い声の余韻がまだどこかに残っている――そんな静かな時間の中で、ミアはふと立ち上がった。
「……ちょっとだけ、いい?」
誰にともなくそう言って、奥へと消える。
ほどなくして戻ってきた彼女の手には、小さな竪琴があった。
その体に合わせた、繊細な楽器。
懐かしむように、指先でそっと弦を撫でる。
ポロロン、と。
静かな音が、空気をほどいた。
ナギが何も言わずに姿勢を正し、老師も茶器を置いて視線を向ける。
ユエリーだけは、最初から最後まで、ミアから目を離さなかった。
やがて、音が紡がれていく。
優しく、透き通るように。
どこか異質で、それでいて胸の奥に直接触れてくるような旋律。
そして――歌。
言葉は誰も知らない。
ナギにも、老師にも、ユエリーにすら。
だが意味は、理解できた。
それは祝福の歌だった。
誰かの誕生を喜び、静かな夜に祈りを捧げ、共にあることを慈しむ――遠い遠い昔に忘れ去られた、クリスマスの歌。
ミアの声は、小さな体からは信じられないほど澄んでいて、細く、それでいて確かに響く。
雪の夜と、火のぬくもりと、今ここにあるすべてを優しく包み込むように。
音が、時間を止める。
誰も動かない。
誰も口を挟まない。
ただ、聴く。
やがて、歌が静かに終わる。
最後の一音が消えたあともしばらく、誰も言葉を発せなかった。
――ぽたり。
小さな音がした。
ユエリーの頬を、ひと筋の涙が伝っていた。
本人は気づいていない。
ただ、目を伏せたまま、呼吸だけがわずかに乱れている。
千年の時を生きた龍にとっても、
その歌はあまりに――深かった。
「……いい歌だな」
老師がぽつりと呟く。
それ以上は言わない。
ナギも、珍しく何も茶化さなかった。
ただ、小さく息を吐くだけ。
ミアは、少しだけ照れたように笑った。
「ありがと」
それだけ。その時だった。
「おい、ちょっとこっち見ろ」
老師がナギに声をかける。
手にしているのは、あの魔道具。
カシャ、と小さな音。
光が一瞬弾ける。
そして数秒後――ふわりと、紙が一枚、アルバムのページに浮かび上がった。
そこには、竪琴を抱えたミアと、それを見つめる三人の姿が、切り取られていた。
静かな夜の一瞬が、そのまま閉じ込められている。
「……おお」
ナギが思わず声を漏らす。
「ちゃんと残るんだな」
老師は満足げに頷いた。
「言ったろ」
ミアは興味津々で覗き込み、
「すごい……!」
と目を輝かせる。その後も、何枚も、何枚も。
笑った顔、食卓を囲む姿、少し不機嫌そうなユエリーまで。
気づけばアルバムには、すでにたくさんの写真が並んでいた。
そのどれもが、今この瞬間の証。
失われない記録。
ユエリーはそのページを静かに見つめる。
涙はもう拭われていたが、その瞳には、まだ余韻が残っている。
「……残るのだな」
ぽつりと呟く。
「この夜が」
老師が答える。
「ああ、形にすればな」
それは、彼らにとってはまだ新しい概念だった。
だが確かに――この夜は、ここに刻まれた。
雪の降る静かな庵で、忘れ去られた歌と、不器用な贈り物と、少し歪で、けれど温かな時間が、確かに存在した証として。




