第七十二話
階段を上がりきったところで、ようやく空気が少しだけ緩んだ。
地下の張り詰めた気配とは違い、庵の中は薪の匂いと柔らかな温もりに満ちている。だが、それでも三人の間に流れるものは、決して穏やかなだけではなかった。
その空気を、ふっと切り替えるように。
ナギが、何の気なしに口を開いた。
「ニチカは冬はどうするんだ?」
本当に、ただの世間話のような調子で。
ニチカは一瞬だけ視線を巡らせ、それから肩の力を抜いたように微笑む。
「ん?ふつうに商人としての研鑽も積みたいし、剣の道も極めたいな」
軽やかに言う。
だがその内容は軽くない。
商人としての研鑽――すなわち草薙の後継としての実務。
剣の道――すでに一線を越えた実力をさらに磨くという意思。
どちらも“本気”だ。
「また旅に出るつもり」
さらりと締める。
それは、ここに留まらないという宣言でもあった。
ナギは「ふーん」と相槌を打ち――何気なく、続ける。
「じゃあミアの誕生日には居ないのか……」
その一言は、あまりにも自然で、そして――致命的だった。
「誕生日?」
ニチカの反応は、速かった。
一拍も置かない。
「何月何日!?」
食い気味に踏み込む。
その勢いに、ナギがわずかに引く。
「……一月一日だよ。お正月様が決めたからな」
ぽり、と頭をかきながら答える。
その瞬間。
ニチカの中で、何かが決まった。
「それなら三十一日に絶対絶対戻る」
断言だった。迷いも余白もない。
予定を“合わせる”のではない。“戻る”のだ。
どこにいようと。
何をしていようと。
「誕生日プレゼントはなにがいい?ミア」
そのまま、視線を向ける。
まっすぐに。
逃げ場を与えないほどに素直な問い。
ミアは一瞬だけきょとんとした。
それから、少し困ったように笑う。
「え?だってニチカの誕生日もお祝いしてないのに貰えないよ」
律儀な返答だった。
対価。バランス。
そういう感覚が、彼女の中にもある。
ニチカは、それを聞いて――くすり、と笑った。
「そんなの僕も一月一日生まれだってことにしておけばいいの」
あまりにも軽やかに、前提をねじ曲げる。
理屈ではない。意思だ。
“同じ日に立つ”という選択。
ミアはぱちぱちと瞬きをしてから、
ふっと笑った。
「プレゼントくれるの?」
声音が、少しだけ弾む。
子どもらしい、まっすぐな喜び。
ニチカの瞳が、わずかに細められる。
「うん」
短く、しかし確かに頷く。
「嬉しいな」
その言葉に、ニチカの胸の奥が、じわりと熱を持つ。
それは戦場で得る高揚とも、取引の成功とも違う。
もっと静かで、しかし深く残る感覚。
ミアは、にこりと笑って言った。
「最高の日にしようね」
無邪気な約束。
けれど、その言葉は不思議な重みを持っていた。
ニチカはそれを、真正面から受け止める。
「――ああ」
小さく答える。
その声には、珍しく曖昧さがなかった。
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていたユエリーは――静かに目を細めた。
“最高の日”。
その言葉が、胸に引っかかる。
番の生まれた日。
本来ならば、自分が最も近くにいるべき時間。
だがそこに、別の存在が当然のように入り込んでくる。
しかも――約束まで交わしている。
腕の中に残る温もりを、わずかに意識する。
先ほどまで抱いていた感触。あの距離。
そして今の、この距離。
「……」
何も言わない。
だが、その沈黙は決して空白ではなかった。
静かに、確実に、何かを決めるような重さを帯びていた。
冬が来る。
そして、一月一日。
その一日を巡って、まだ形にならない何かが、確かに動き始めていた。




