第七十一話
「ほら、帰ろう?」
ミアがそう言って、くるりと踵を返し、石の階段へと歩み出したその瞬間だった。
すっと影が差す。
次の瞬間には、視界が持ち上がっていた。
「――え?」
声が漏れるより早く、体は宙にあった。
ユエリーの腕。
迷いも遠慮もなく、当たり前のようにミアを抱き上げている。
その動作はあまりにも自然で、ためらいが一切ない。
まるで最初からそうすることが決まっていたかのように。
「……ユエリー?」
ミアが顔を上げる。
だがその問いかけに、彼は答えない。
代わりに――ぐり、と。頬を寄せる。
髪に触れる。首筋へ、肩口へ。
やや乱暴とも取れるほどの距離で、何度も、何度も。
「ちょっと、ユエリー」
抗議の声。しかしそれすら、流れていく。
「……他の匂いがつく」
低く、短く。それだけ言う。
理屈は通っているようで、どこかずれている。
だが本人にとっては至極真面目な問題だった。
先ほどのやり取り。触れられた距離。
そのすべてを、塗り替えるように。
「……消しておく」
さらにもう一度、ぐり、と。
念入りに。
ミアは、しばし無言になった。
(……これ、完全にわざとだな)
理解はしている。
だが、止めるには少しだけ面倒くさい。
そして、(まあ、いいか)と、半ば諦めた。
完全に拒絶するほどでもない。だが放置するとやりすぎる。その絶妙なラインで、ミアはため息をつく。
その様子を。
少し離れた場所から、ニチカは静かに見ていた。
「……ふぅん」
小さく、息を吐く。
驚きはない。焦りもない。ただ、観察する。値踏みするように。
その紫水晶の瞳は、冷静にすべてを捉えていた。
――知っている。
秋の終わり。
この庵に、二匹の龍が降り立ったこと。
そしてそのうちの一匹が。あの白い少女に、従属を誓ったこと。
それは偶然ではない。
諜報部を使えば、世界のどこであっても情報は拾える。草薙の名を継ぐ者として、それは当然のことだった。
だからこそ。
今までのやり取りはすべて、“試し”だった。
ユエリーという存在の輪郭を測るための。
力。
距離感。
独占欲。
そして――どこまで踏み込めば、反応するのか。
「……なるほどね」
口元が、わずかに緩む。
理解した。完全ではないが、十分だ。
あれは、危険だ。
そして同時に――単純でもある。
ニチカは、ゆっくりと一歩踏み出す。
何事もなかったかのように。
軽い足取りで、二人の後ろへと続く。
「ミア」
穏やかな声で呼ぶ。
ユエリーの腕の中にいる少女へ。
「あとで、収納の使い方も教えてくれる?」
自然なお願い。
何の棘もない言葉。
だがその実――関係を“続ける”ための布石。
ミアは振り返り、
「いいよ」
と、いつもの調子で答える。
そのやり取りを聞きながら、ユエリーの腕が、ほんのわずかに強くなる。
気づかれない程度に。だが確実に。
ニチカはそれを見逃さなかった。
(……わかりやすい)
心の中で呟く。笑みは崩さない。
ただ静かに、距離を測り続ける。
三人は、階段を上がっていく。
狭い地下室から、再び庵の中へ。
その背中には、それぞれの思惑と、まだ交わらないままの意志が、確かに絡み始めていた。




