第七十話
「うわぁ、すごいなあ、ミアは!」
その声は、地下室に広がった“無限”を前にしてなお、妙に軽やかだった。
感嘆の響きは確かにある。だがそれが純粋な驚きだけなのか、それとも意図的に場を揺らしているのか――判別がつかない。
次の瞬間。
ニチカは、躊躇いなく動いた。
ひょい、と。
本当に何でもないことのように、ミアの体を抱き上げる。
軽い。
あまりにも軽く。
まるで高い高いでもするかのような勢いで持ち上げられたミアは、一瞬だけ目を丸くした。
「ちょ――」
言葉になる前に、頬に、すり、と触れる感触。
距離が近い。近すぎる。
「さすがは僕のお姫様だね!」
無邪気とも取れる声。
だがその実、どこか確信に満ちている。
ミアの価値を“見抜いた”者の声。
そしてそれを、自分の中で特別な位置に置こうとする声。
「大魔女、いや……女神って呼んだ方がいいのかな」
軽やかに言葉を重ねる。
称賛は途切れない。
むしろ、わざと大袈裟にしている節すらある。
その間にも、腕はしっかりとミアを支えたまま離さない。
「ねえミア、これってどこまで入るの?世界ひとつ丸ごととか――」
楽しげに問いかけながら、ほんのわずかだけ、腕に力がこもる。
独占とも違う。
だが、距離を詰める意図は明確だった。
そして。――ぴくり。
その空気が、わずかに軋む。
ユエリーのこめかみに、細く青筋が浮かんだ。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
だが確かに、そこに“反応”があった。
空気が冷える。
結界越しであるはずの空間が、わずかに張り詰める。
ミアの背後にある無限の空間が、かすかに揺らぐほどに。
「……離せ」
低い声だった。
抑えられている。
だが完全ではない。
龍としての本能に近い何かが、滲み出ている。
ニチカは、その声を聞いてもなお、笑みを崩さなかった。
むしろ、ほんのわずかに目を細める。
「え?」
とぼけるように返す。
「なんで?」
問いの形をしているが、その実――挑発だ。
明確な。
「僕、友達だよ?」
さらりと言う。
だがその言葉は、軽くない。
“許されている距離”を主張する言葉。
「それに――」
ちらりと視線を落とす。
腕の中のミアへ。
「嫌がってないでしょ?」
事実を突く。逃げ道を塞ぐように。
ユエリーの視線が、鋭くなる。
ほんの一歩、前へ出る。
その動きだけで、空間の圧が変わる。
結界が、わずかに軋む。ミアは、その中心で――
「……ふたりとも」
ぽつりと声を出した。
その声は、小さい。だが、不思議とよく通る。
ニチカの腕の中で、じっと二人を見比べる。
そして、
「重い」
端的に言った。沈黙。一拍。
ニチカが、わずかに固まる。
ユエリーの動きも、止まる。
「話はあとで聞くから、いったん下ろして?」
淡々としたお願い。
だが拒否の余地はない。
ニチカは数秒の間のあと、
「……はい」
素直に従った。
そっとミアを床に下ろす。
その瞬間、空気が、少しだけ緩む。
ミアは軽く服を整えながら、小さく息をついた。
「……ありがと。でもびっくりするからやめてね」
にこりと笑う。
いつも通りの調子で。
だがその視線は、しっかりと二人を捉えていた。
「あと、ここ狭いから暴れないでね?」
背後には“無限”がある。
だが足元は、あくまで六畳だ。
その現実的な一言に、ナギがいなくても突っ込みたくなるような空気が一瞬流れ――
ユエリーは静かに視線を逸らし、ニチカは、くすりと笑った。
だがその笑みの奥には、はっきりとした“競り合い”の気配が残っていた。




