第六十七話
「ところでさ、このおじさんはだれ?」
あまりにも自然に、あまりにも無邪気に放たれたその一言は、乾いた木の葉が落ちる音よりもはっきりと、場の空気を断ち切った。
――止まる。
すべてが。
荷を運んでいた護衛の手も、荷車を引いていた獣の足も、風に揺れていた布さえも、ほんの一瞬、世界そのものが静止したかのようだった。
ナギは、ぎこちなく首を動かす。
恐る恐る。
本当に恐る恐る。
視線を向けた先には――ユエリー。
(やばいだろこれ)
思わず心の中で呟く。よりにもよって、“おじさん”。
しかも、あのユエリーに対して。
だが。当の本人はというと、
「……」
無表情だった。
いや、正確には――感情が読めない。
怒りも、呆れも、笑いも、何も浮かんでいない。
ただ静かに、その場に立っている。
その“何もなさ”が逆に恐ろしい。
ナギはひとまず、ほっと息を吐いた。
(とりあえず、爆発はしないっぽいな……)
しかし油断はできない。
これは嵐の前の静けさかもしれない。
その緊張の中で、ミアが、すっと一歩前に出た。
ほんのわずかに背筋を伸ばし、しかし顔にはいつもの笑みを浮かべたまま。
「この人は、私の使い魔よ」
さらりと言う。
あまりにも簡潔に。そして、
「秋の初めに契約したの」
それ以上は語らない。
語らないことで、すべてを曖昧にする。
だがその実――背中にはじわりと冷や汗が滲んでいた。
(絶対ややこしくなるやつ……)
わかっている。
この場の全員が、それぞれ別の意味で“ややこしい存在”だということを。
ニチカは、わずかに目を細めた。
「……使い魔?」
その言葉を、ゆっくりと反芻する。
視線がユエリーへと向けられる。
測るように。値踏みするように。
商人のそれで。
「へえ……」
小さく息を吐く。
その一音だけで、周囲の空気がわずかに張り詰める。
ただの興味ではない。
確実に、“何か”を見抜こうとしている。
一方で。
ユエリーは、わずかに首を傾げた。
「……使い魔、か」
その言葉を自分の中で確かめるように繰り返す。
否定はしない。
だが、どこか含みがある。
そのまま、静かにミアの方へ視線を落とした。
「そういうことになっている」
淡々と。しかし妙に納得しているような声音で言う。
ナギは思わず頭を抱えた。
(いや納得すんなよ!)
心の中で全力で突っ込む。
だが口には出さない。
出せる空気ではない。
ニチカは、そのやり取りを見て、ふっと笑った。
「なるほどね」
軽く一歩、踏み出す。
「じゃあ、その“使い魔さん”は――」
わずかに間を置く。
視線が鋭くなる。
「どれくらい使えるの?」
完全に、商談の声だった。
試す声。
価値を測る声。
その瞬間、空気が変わる。
ぴり、と。
見えない火花が散るように。
ユエリーの瞳が、ほんのわずかに細められる。
「……使える、か」
低く、静かに返す。
その声には、龍としての圧がほんの一欠片だけ滲んでいた。
だが――抑えられている。完全に。
ミアの存在によって。
ミアは、ぱん、と手を叩いた。
「はいそこまで!」
強制終了。
にっこりと笑いながら、しかし有無を言わせぬ調子で場を切る。
「ニチカ、今日は荷物の整理が先ね。そんなことしてる暇ないでしょ?」
言葉は柔らかい。
けれど明確な指示。
ニチカは一瞬だけ視線をミアに戻し――
そして、肩をすくめた。
「……了解」
あっさりと引く。
だが、その目はまだ笑っていない。
ユエリーもまた、何も言わず視線を外す。
だが完全に気配は消していない。
静かに、互いを認識したまま。
その間に立つミアだけが、いつも通りに笑っていた。
だがその内心は、
(めんどくさいことになった……)
と、はっきり理解していた。
冬は、まだ始まってもいない。
だというのに。庵の中にはすでに、火種がいくつも持ち込まれていた。




